猫猫置き場

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猫猫事件帖 とある探偵の追走編 最終話

 


「どこまで行くつもりなのよ!!」

 ハイヒールで走るのは危ないからやめた方がいいんじゃないかな。

 壱川の言葉が脳裏にチラつく。それでも水守綾は走るのをやめなかった。

「止まりなさいって……言ってんでしょ!」

 息が切れる。思えば自分は、明乃のような身体能力も、東雲のような才能も、壱川のような過去も何も持たない人間だ。

 だからこそ諦めないことだけは一人前になろうと、そう思うことがある。

 だが、もうどれほど走ったかわからない。追いかけている男も疲れ始めているからか最初よりかなり減速している。だからこそ見失わずにここまで来れたものの、気付けば見知らぬ風景にたどり着いていた。

「……どこ、ここ……!」

 思わず足が止まる。男は一瞬こちらに振り向いて、チャンスと言わんばかりにまた走り始めた。

 目の前にあるボロい倉庫の中に入っていくのが見えた。

「はあ、はー……もう、最悪……」

 額から滴る汗を拭っても、どんどん溢れ出てくる。だがここで止まるわけにはいかない。目の前の建物に入っていったということは、ここが男の終着点らしい。一体なぜ彼が逃げたのか、走りながらにさまざまなことを考えた。

 もしかして、アシュリーは家出じゃなくて誘拐されたんじゃ……

 その考えを遮断するように、ポケットの中でスマートフォンが鳴り始めた。しばし無視しようかと考えたが、いつまでも鳴り続ける音に苛立ちが勝ってスマホを手に取る。

「何!? 今忙しいんだけど!!」

「ちょ、そんな大きな声出さないでよ。今どこにいる?」

「猫探してんの!!忙しいって言ってるでしょ!」

 半ば怒鳴るような声を出すと、電話口にいる男、壱川は困ったように唸った。なんとしてでもあの男をここで捕まえなければいけない。なぜ逃げたのか、彼はアシュリーの居場所を知っているのではないかと思えば思うほどに苛立ちが募っていく。

「一旦、止まってくれない? 事情は後で話すから」

「はあ? 意味わかんないこと言わないで。こっちはこっちで仕事してんの!」

「わかってる、わかってるんだけどさ」

「わかってんなら後にして!」

「そん……」 

 壱川が何か言いかけていたが、乱暴に通話を切る。この時間で男に逃げられでもしたら溜まったものではない。

 水守は足が痛むのも忘れて、倉庫に向かった。今は使われていないのか、廃材が積み上げられていて埃も酷い。

「ったく、なんでこんなことに……」

「ん?」

 文句を垂れる隙もなく。水守に痛いほど視線が突き刺さった。

 先程逃げていた男がそこに立っている。怒りで声を荒げそうになったが、しかしそういうわけにもいかない。

「なん……」

「なんだ、こいつは」

 パーカーの男の近くには、複数人の男たちが取り囲むように立って、水守を睨みつけていた。

 

 

 

 猫猫事件帖 とある探偵の追走編

 

 

 

「この女です!この女が、俺のことをつけ回して!!」

「あー、わかったわかった、下がっとけ」

 追いかけていた男は、強引に肩を押されて奥へと引っ込んだ。スーツ姿の男と、その周りにいかにもチンピラ風の若い男が何人も立っている。

 そしてその全員が、水守に攻撃的な視線を向けていた。

「ちょっと……アタシが用あるのはそこのパーカー野郎なんだけど」

「威勢がいいなあ、ん? アンタどっかで見たことあるな」

 スーツの男が水守に近付く。流石にまずいとわかっているが、水守は一歩も引かない。

 逃げなければいけないが、こんな人数を相手に疲れた足で逃げ切れるわけもないとわかっていたからだ。そうなれば、後は虚勢を張る他に選択肢がなかった。

「アンタ、水守綾か? ほら、探偵の……新聞に載ってたよな?」

「知っててくれてありがと、ちょっとどいてくれない?」

「探偵さんがこんな汚い倉庫に何の用かな?」

「それはこっちのセリフなんだけど、アンタらこそここで何してるわけ?」

 壱川はもしかして、この状況を知っていたのだろうか。だとすればなぜ、という疑問は浮かぶが、先程の電話はこの男たちに対する警告だったのかもしれない。

 額に浮かぶ汗が、いつの間にか冷や汗に変わっていた。水守は猫を探していたはずだ。まさかこの男たちは、金持ちの猫を人質ならぬ猫質にでもしようというのか。

「で? なんでここに来たって?」

「……猫を探してここまで来たの。白い猫なんだけど……」

「ほー、なるほど」

 男が煙草に火をつける。後ろにいるチンピラ風の男たちはそれぞれ顔を見合わせていた。ポケットに手を突っ込んでいる男も多い。もしかしたら武器を持っているかもしれないと、脳は冷静に動いている。

「そりゃ誰かに頼まれて?」

「当たり前でしょ、依頼じゃなきゃこんなことしないわよ」

「そいつは誰だ?」

「は?」

 そんなの飼い主に決まっている……と言おうとするが、返事を待つまでもなく男は水守の腕を掴んだ。

「おじさんもねえ、商売でやってるから。邪魔されちゃ困るんだよね」

「ちょっと!触んないでよ!」

「あんま暴れられたらほら、痛い目にあっちゃうよ」

 馬鹿にするような声色に、ついに頭の中でプチンと音がする。水守は目の前の男に一発入れようと心に決め、拳を振りかぶるーーー……が。

「コラアアアア!!!」

「あが!?」

「うわあ!?」

 その拳が男に当たるより速く、男が勢いよく吹き飛んでいく。そのまま廃材に突っ込んでいった男は、上から落ちてきた無数の埃とガラクタに埋められて姿を消した。

 水守が顔を上げる。そこにいたのは以前、似たような状況で水守を助けた男ではなかったがーーー……

「大丈夫か水守さん!!オレが来たからにはもう安心!!!」

「……えーっと……」

 照明を反射し光る頭皮。他の男たちに負けないほどチンピラ風のファッション。いや、なんなら図体の大きさと目付きの悪さも相まって、さらに凶悪な見た目をした男、浅野大洋が立っていた。

「ありがとう浅野さん……その」

「いいっていいって!ピンチの時はお互い様だろ!!」

「いや、そうじゃなくて」

 水守がスーツの男が吹き飛んだ方を指さす。なんとかガラクタの山から引き抜かれた男だが、頭から血を流して完全に気絶していた。

「流石にやりすぎ」

「あれえ?」

 というかよく、大の男をあそこまで吹き飛ばせたものだ。明乃や常盤社のような超人を見てきたから慣れてきたとはいえ、規格外にも程がある。

「まあいいんだよ、男なんてそんくらいの扱いで!あっ、そうだそこのパーカー野郎!!」

 びくり、と大袈裟な程にパーカーを着た青年の方が揺れる。

「お前に用があんだよ!そこ動くんじゃねえぞ!!」

 言って浅野は自分の拳同士をぶつけた。だが、それをすんなり聞き入れてくれるような雰囲気でもない。

 多少驚いていたものの、他の男たちがわらわらと集まってくる。周りを囲まれた水守と浅野は、それでも焦ることなく冷静だった。

「なんでこんなことになったんだっけ?」

 水守綾は呟いた。

「いやーほんと、なんでこうなったんだっけ!」

 浅野大洋は笑いながら答えた。

「……なんていうか、巻き込まれることに慣れてきたって自覚が嫌でも湧いてくるわ」

 諦めに似た溜息。目の前に立ちはだかる複数人の男たちは、今にも水守と浅野に襲いかかりそうな雰囲気を放って彼女たちを睨み付けている。

「話し合ってわかってくれる雰囲気でもなさそうね」

「まあ、仕方ねえさ!生きてりゃこういうこともある!」

「……ずいぶん落ち着いてるけど、浅野さんってもしかしてめちゃくちゃ強かったりするわけ?」

「お? どうだろうな、少なくとも明乃ちゃんにはボコボコにされたけどな!!」

 浅野が拳を握る。

 水守は彼が口にした人間のことを思い出した。超人的な怪力と身体能力。それはあまりにも人から外れすぎていて、正直なんの指標にもならない。

「まあ、こいつらに負けるほどではねえな」

 破裂音。いや、浅野の拳が目の前の男の顔にめり込んだ音だ。流石に水守も驚いて目を見開くが、浅野はそのまま体を回転させて後ろにいる男にも思いきり拳をねじ込んだ。

「ちょっ……」

 やりすぎ、と言いたいが、今はそんなことを言っている場合でもない。幸いなことに男たちの視線は浅野に釘付けになっていた。

 それは明乃のように超人的でもなく、常盤のように洗練されてもいない。だが、荒々しく振り回す拳がどんどんと男たちをねじ伏せていく。

 強い、と確信した。彼は間違いなく、喧嘩に強い男だ。安心して水守は男たちの間を縫って走り出す。この混乱に紛れて逃げようとしている、一人の男を捕まえるために。

「来るな!!」

 パーカーの青年は震える声で叫びながら、ポケットから小さなナイフを取り出して水守に向けた。だが、今更そんなものに怯むこともない。

 明確な殺意も、手慣れた動きも何もない。水守はわかっていた。なぜならそれに実際に触れてきたからだ。

「来るなって言ってるだろ!!」

「そういうのは……」

 ナイフを突き出した手に、自分の手を添える。そのまま思い切り青年の手を捻って体重をかける。

「イ"ッッ」

 痛みから逃げようともがく体を、そのまま地面へと誘導するのは容易かった。そのまま腕を捻って青年の背中に馬乗りになる。例の一件の後、壱川に仕込まれた逮捕術の一つだ。

「危ないからやめときなさい。痛い目見るわよ」

 涙目になりながら青年は唸った。しばらく逃れようとしていたが、それも諦めてしまったらしい。

「ねえ、なんか知ってるんでしょ?速く言わないとどうなっても知らないけど」

「痛、いたたたた!!!痛い!!ごめんなさい!!ポケット、ポケットに!!」

「ポケット?」

 そんなところに猫が隠れているはずもない。不思議に思いながら水守は彼のポケットに手を突っ込んだ。

「……USB? 何これ、一体なんの……」

「綾ちゃん!!!」

 青年に聞く暇もなく、倉庫に男の声が響く。聞き覚えのある声に水守と浅野は顔を声の方に向ける。そこには汗を垂らしながら、走ってここまで来たであろう壱川遵の姿があった。

「ちょ、ほんとに、君ねえ、一回止まってって俺……」

「ちょっと、なんでアンタここが……」

 脱力する青年から手を離して、水守は彼の元へ向かう。膝に手をつき、切れる息を隠そうともしない壱川に思わず言葉が止まった。

 ……もし彼がこの事態を察知していたのだとすれば、あの電話を切った自分がこうさせたに等しいのでは……

 水守は頭に浮かんだ言葉をかき消すようにぶんぶんと頭を左右に振る。どちらにせよ、なぜ自分の居場所が分かったかの方が問題だ。

「まさかアンタ、アタシにGPSでもつけてないでしょーね」

「ちが……」

「あーいやいや、GPSついてんのはオレの方!」

 ニカっと浅野が笑う。手にはすでに伸び切った男がぶら下がっているが、浅野は無慈悲にその手をパッと離した。

「はあ? なんで浅野さんに……」

「俺がつけた」

 倉庫の外から、また新たな声がする。そこに立っている男、深海京佑は汗の一つもかいていないところを見ると、どうやら心配でここに来たわけではないらしい。

「よー!京佑!サンキュー!」

「馬鹿、汗臭いから近寄るな」

「? ごめん、全く話が読めないんだけど……」

「あー……えっと、綾ちゃんは猫探してたんだっけ」

 苦笑いする壱川を睨み付ける。だが、どうやら自分が思っているような状況ではないことがよくわかった。

「じゃあ何? この男は別に猫の居場所を知ってるわけでもなんでもなくて……」

「顧客データを売り捌いてる連中の下っ端だ。そこで伸びてるオッサンが大元だろうな」

「…………じゃあこれ……」

 青年のポケットに入っていたUSBを見る。どうやらここに、その大事なデータが入っているらしい。

「おかしいと思ったんだよ、水守さんがインターホン押した部屋、家具の一つもなかったんだぜ」

「どうせ空き室を勝手に取引現場に使ってた口だろうな」

「でも、アタシちゃんと白い猫探してるって……」

「ああ」

 深海のスマホが顔の近くに押し付けられる。少し顔を引いてみると、そこには知らぬ企業の概要ページがあった。

「有限会社ホワイトキャット……?」

「ははは!なんだあそりゃ」

 あっけらかんとした態度で、浅野は大きく口を開けて笑った。水守はまだ納得していないようで、唸りながらスマホと睨めっこしている。

「まったく、こんな偶然たまったもんじゃないよ」

「そうか? 俺はラッキーだったが」

「何言ってんの」

 壱川が水守の手からUSBを取る。どうやら警察で回収するらしい。

「大方、盗まれた方の企業から依頼があったんだろ? どうにもきな臭い会社みたいだし……この中によくないデータも入ってるのかな?」

「それを調べるのは警察の仕事だろ」

「はは、間違いないね。頼ってくれてありがとう」

 壱川のトレードマークと言っても過言ではないコートも、暑さには敵わないのか今日は着ていない。途中で脱いだのかジャケットも手元にあるため、壱川はUSBをシャツの胸ポケットにしまった。

「……別に。どうせそれを回収して渡したところで、中身を見てようが見てなかろうが、回収した時点で何か言われるのは目に見えてわかっていたからな」

「懸命な判断だ。危ないことに首を突っ込むもんじゃない」

「ちょっと!!」

 水守が壱川を睨み付ける。

「じゃあアタシは走り損ってわけ!? そっちで回収するんだったらアタシ何にも成果が……」

「猫なら見つかったって連絡来てたぞ」

「はあ!?」

「家出したと思ってたら、タンスの中にいたって写真付きで……ほら」

 深海が差し出したスマホを見る。慌てて自分のスマホを開けば、たしかに新着メールが一件入っていた。

 そこには深海が言った通りの内容と、それから白い猫がタンスの中で眠っている写真が添えられている。

「……じゃあそもそも猫違いだったんじゃない!」

「はは、いやー、こんなこともあんだなあ」

「あーもうやだ!今日損しかしてないし!!」

「まあまあ、この後飯でも行こうよ、奢るからさ」

「いいっすねえー!!オレも一緒にいいっすか!?」

 大袈裟に肩を落として、水守は深いため息を吐く。むしろため息を吐かずにどうしろというのか。

「いや、でも、かっこよかったぜ水守さん!マジで!あんな囲まれても怯まねえなんて!」

「……囲まれてたの?」

「…………ちょっとだけ」

 気まずそうに視線を逸らすが、壱川がジリジリと向ける視線が痛い。どうせこの後、また危ないことには突っ込むなとか、一人で突っ走るなとお説教タイムに入るのだろう。予感がして水守は苦い顔をする。

「まあまあ!良かったよオレは!水守さんとも仲良くなれてさ!」

「そうね。今日は助かったわ、ほんとに。また今度お礼でもさせて」

「おうよ!!あ、そうだオレも綾ちゃんて呼んでもーーー……」

 ぽん、と水守の肩に浅野の大きな手が乗る。大型犬のような雰囲気で、尻尾を振る幻影すら見えるようだ。だが、その手は瞬時に水守の肩から引き剥がされた。壱川が水守の肩を自分に引き寄せ、引き剥がしたのだ。

「ありがとな浅野さん、水守さんに怪我がなくて良かった。助かったよ」

「いやーー!それほどまででも!? あるか!? 今回は!!」

「ちょっと、暑いから触んないで」

「ええ……いや、ごめんね」

「それより飯どうします!? この前焼肉行ったし、今日は魚とかどうすか!?」

「いいわね魚、なんかさっぱりしたもの食べたいわ」

「俺はとりあえず、これ持ち帰らないといけないから……」

 気付けば日が暮れ始めている。空気も少しずつ涼しくなって、全身に受ける風が気持ちがいい。

 水守は大きく伸びをした。こんなつもりではなかったが、結局人の役に立ったならそれでいいだろう。

「……ま、いっか!」

 これは魔法の言葉だ。水守を取り巻くありとあらゆる非日常を片付けて、日常に戻るための言葉。また明日はきっと、いつも通りの一日が訪れるだろう。

 壱川にも、浅野にも、深海にも。

 たまにはつまらなくて騒がしくない一日が訪れるといい。水守はそう思って、今日食べる晩ごはんのことで頭の中をいっぱいにした。

 


 

猫猫事件帖 とある探偵の追走編 その弐

 


「やられた……!」

 切れる息を落ち着かせようとするものの、上手くいかない。ここまで長距離を走るのは久しぶりのことで、水守は滴る汗を拭くだけで精一杯だった。

 白い猫を追いかけ走り続けたものの、浅野と水守はマンションの前で止まっていた。

 猫、アシュリーは颯爽と駆け出し、器用に曲がったり塀に登ったりを繰り返した挙句、一棟のマンションに入り込んでいってしまったのだ。

「仕方ねえよ、猫、速えわマジで……」

 同じく汗を垂らしながら膝に手をついて、浅野は大きく息を吐く。

 だが、見つけただけ儲け物だ。まだこの近くにいるなら、探す他ないだろう。

「……とりあえず、マンションにまだいるかもしれないし探しましょ」

「そうだな、それがいい……」

 ようやく呼吸が落ち着いてくる。二人はゆっくりと階段を登り、各階の廊下を捜索した。捜索といっても狭い一本の通路しかない。左右を見て、いなさそうなら更に階段を上がる。そうするとすぐに最上階までたどり着いた。

 だが、猫の影は見えない。あんなに真っ白な猫であれば、見つけやすいはずなのだが。

「部屋に入ったとか?」

「んー……もしくはベランダ側にいるとか? ……とりあえず人に聞いてみましょうか」

「急に行ったら怪しまれねえかなあ……オレこんな見た目だしよ」

「大丈夫でしょ。アタシこれでもちょっと有名だから」

 言いながら、水守は躊躇いなくインターホンを押した。偶然、水守がいた目の前の部屋だ。人がいるかどうかもわからない部屋。出なければ隣の部屋に行けばいい。そのくらいの気持ちで、水守はもう一度インターホンを鳴らす。

「はい……」

 すると、インターホンから男の声がする。弱々しい、覇気の感じられない声だった。

「あ、すいませーん、アタシたち探し物してて、見かけてないか聞きたくって……」

 言うと、扉が少しだけ開く。髪の長い男は、恐る恐る隙間からこちらを伺っていた。

 何かを疑うような目だが、それも仕方ないだろう。急に押しかけてきて、探し物をしているなんて言われたら怪しまれても仕方ない。水守はできるだけ丁寧に、物腰柔らかく聞こえるようにと注意して笑顔を見せた。

「すいません、アタシたち白い猫を探してて……」

 だが、男の血相が変わる。顔面から血の気が一気に引いて、何かに怯えるような顔になる。

 水守は気付いていない。アシュリーの写真を見せようと、ポケットから紙切れを出そうとしている。

 浅野は首を傾げた。男の顔が真っ青になるのを見ていたからだ。だが浅野が声をかけるより先にーーー……

「あ!? ちょっと!?」

 男は勢いよく扉を開け、水守の肩にぶつかるのも気にせずに駆け出した。

「はあ? なんだってのよ!」

「おい水守さーーー……」

「ちょっと待ちなさいよ!!」

 反射的に水守が男を追いかけていく。

 逃げられたから追いかけただけだ。怪しい人間だと思われたのか、それとも何か事情があったのか。そんなことは関係ない。水守はただ、無理矢理肩にぶつかられて逃げられたことに憤っていた。

 取り残された浅野は、ぽかんと口を開いて立ちすくんだ。水守を追いかけなければいけないが、開きっぱなしになったドアも気になる。それにあの男の表情の理由もーーー……

「これは……」

 開きっぱなしの扉に手を掛ける。閉じる前に一度部屋の中を確認して、それからスマートフォンを取り出し耳に当てる。

「おい、京佑。急いで調べて欲しいんだけどさあーーー……」

 

 


 猫猫事件帖 とある探偵の追走編

 

 

 

「参ったなあ」

「壱川さんでも参ることがあるんですか」

「やだなあ、毎日参ってるよ。特にこういうのは嫌な気分になるね」

 缶コーヒーを片手に、壱川はチラリと紙束を見た。目の前に座っている後輩は、真面目に資料を読み耽っている。

「そういえば噂に聞いたんですが」

 ズレた眼鏡をなおしながら、スーツの若い男が壱川を見る。壱川の後輩にあたる男は、彼に言わせれば真面目すぎるほどの男だった。

「壱川さんが例の探偵とお付き合いがあると」

「ん、水守さんのことかな?」

「そうです、水守綾……さんと親密な仲だとお聞きしたんですが」

 壱川は質問の意図を考えた。資料に目を通すフリをしながら、彼が何を言いたいのか考える。

 水守綾は署内でも有名だ。なんせ、数年前に彼女は警察に届いた犯行予告をもとに、見事犯人を捕まえた張本人だ。それも壱川の入れ知恵だったが、今となっては探偵としてしっかり本人も活躍もしている。

 彼女とは元からの知り合いでその人脈や推理力を壱川が借りているーーー……というのが、もっぱら表向きの設定である。

 つまり、彼女と壱川に関係があることは大抵の人間が知っていた。彼が聞きたいのは、そういうことではないのだろう。

「誰に頼まれたの?……小野さんか、いや、杉本さんかな」

「えっ、あ、いや、えっと」

「はは、嘘が下手だな」

 笑いながら資料をめくる。何人かの顔写真や、小さく地図が載っていた。どれも若い人のように見える。

「まあ、収穫なしで帰ったら文句言われるのは君だろうしな。そうだな……いっそこの際、仕事以上の関係らしいって言っておいてくれない」

「そ、そんな……!!」

 そんな恐ろしいことを自分の口から言わせるのかと男が立ち上がる。壱川はおかしくなって笑い始めるが、男は切羽詰まったような焦った顔で壱川を見ていた。

「冗談だよ。ビジネスパートナーってだけだから、そう伝えたらいい。今はね」

「は、はあ……」

 最近はどうも、この辺りをかぎ回りたい人間が多くなってきた。正直、プライベート周辺を勘ぐられるのは面白くない。もちろん普通の意味でもあり、自分の過去の経歴のこともある。

 とは言え、そうやって壱川の周辺を知りたがるのは大抵昼ドラの好きな女性達だ。彼女達は壱川だけではなく、さまざまな人間のプライベートを知りたがっては楽しそうに休憩時間を過ごしているだけだから、咎めることもないだろう。

「と、とにかく、今回は壱川さんと組めて自分も嬉しいです」

「嬉しいね、そういうこと言われると」

「深海さんも、壱川さんのこと褒めてましたから」

「そんな褒められるようなことしてないんだけどなあ」

 この辺はプライベートを隠しに隠し続けてきた弊害だった。実際大した仕事はしていないのだが、様々なことをはぐらかしていたら、噂に尾ひれがつきまくって有能な人間のように扱われている。その分、壱川を嫌う人間も多いのだが。

「壱川さんなら何から始めますか? この件は」

「んー、まずはこのマンションに確認取らないとね」

 手元の資料を指で小突く。

 そこにはここからそう遠くないマンションの地図と、そこに出入りする男の写真が載っていた。

「それにしても悪質ですね。企業からデータを引き抜いて、それを売り捌く手段に若い子を使うなんて」

「まあ、最近よくある話だけどね。……確かに、わざわざUSBに入れて若い子に運ばせるっていうのはいただけないな」

 その受け渡しに使われているであろうマンションの空室が、資料に載った地図の場所だ。ここに届けられたデータの行き先も、ある程度目星はついているようだった。

「……この部屋に出入りしてる男を捕まえたところで大元は別だろうしなあ」

 呟いたところでスマホが鳴る。誰かから電話がかかってきたらしい。先程話題に出た女性のことが頭に浮かぶが、しかし壱川の予想を反した名前がそこに写っていた。

「悪い、電話に出てくる」

「あ、はい!了解です!」

 男にひらひらと手を振って、壱川は通話ボタンを押した。スマホを耳に当てると、知っている声が聞こえてくる。

「はいはい、どうしたの?……うん、……………え?」

 そして伝えられた内容に驚きを隠せないまま……壱川は、急いでとある場所へ向かった。

 


* * *

 


「……はい深海。……何?」

「だーかーらー!今オレがいるところの近くにあるマンション調べて欲しいんだって!」

「なんでだ」

 そっけない返事をしながら、深海京佑はパソコンに映る位置情報を確認していた。スマホのスピーカーから流れてくる浅野の声が部屋に響き渡る。

「猫探してたろ!」

「ああ、それがどうした」

「あの猫探してたら水守さんと会ってよおー、で、このマンションに入って行ったから探しに来たんだよ!」

 通話の音に激しい風の音が混じっている。どうやら浅野は話しながら走っているらしい。

 浅野の位置情報を確認すれば確かに近場にそう新しくないマンションがあった。

「んで住人に話聞くかってなって、インターホン押したら男が出てきたんだがオレらのこと見てすぐに血相変えて逃げてったんだよ」

「お前が怖かったんじゃないか」

「バーカ!そういう話じゃねえって!そいつが逃げた後部屋の中確認したんだけど……」

 浅野の位置情報は、ものすごい速度で移動していく。どうやら町から外れたところへ向かっているようだ。

「何にもなかったんだよ!空っぽ!家具の一つもねえでさ!」

「……なるほどな、どんな男だ」

「髪は長めで黒!紺色のパーカー着てて背はお前とおんなじくらい!」

「わかった」

 深海は浅野から電話がかかってくる直前に出していた写真を見る。彼が言っている内容とほとんど一緒だ。

「おい、絶対にそいつを捕まえろ」

「ああ!? なんで!?」

「別件だ。そいつは多分USBを持ってる、絶対に取ってこい」

「何が入ってんだ!?」

「知らなくていい。ただ仕事には変わりない」

「了解!!なあもしかして、水守さん危ない!?」

「一人で行ったらそうだな」

 深海は落ち着きを保ったまま、マグカップに入ったコーヒーを口に入れた。浅野が一日中外出しているから、インスタントコーヒーだ。正直あまり美味しくはなかった。

「とにかく絶対捕まえろ。じゃあな」

「おい!!ど……」

 浅野が何か言いかけたが、無慈悲にも通話終了ボタンを押す。深海はしばし考えながら、パソコンの画面が動くのを見つめていた。

 浅野が男を追いかけているとするならば、この後行き先もかなり絞られてくる。そうなった時、自分がすべきことはなんなのか。

「……相変わらず悪運がいいな、お前」

 点滅している光に話しかけながら、またコーヒーを一口飲む。浅野につけたGPSは、どんどん町から離れていく。

 水守が更にその前を走っているとしたら、男の目的地はもうすぐそこだろう。

 水守綾。彼女の姿を思い出す。詳しいことは知らないし、しっかりと話をしたわけではないから彼女のことはあまりよく知らない。だが、彼女の近くにいる男のことはある程度知っていた。

 壱川遵。彼に言われたことが脳裏によぎる。

「…………」

 デスクに頬杖をついて、スマホの画面を見つめる。深海は賢い人間のつもりだ。この先この事業を続けるにしても、リスクは背負い続けなければならない。だが、大きなリスクを背負うのは今じゃなくてもいい。

「利用するだけだ、別に」

 呟いて、深海はスマホを操作した。壱川の名前が表示された後、しばらくして彼の声がスピーカーから聞こえてくる。

 大きく息を吐いて、深海は口を開いた。それと共に、浅野の位置を示す赤い光が停止する。

「……俺だ。アンタに手伝って欲しいことがある」

 

 

 

つづく!

猫猫事件帖 とある探偵の追走編 その壱

 


「なんでこんなことになったんだっけ?」

 水守綾は冷や汗をかきながら呟いた。それはあまりにも純粋な疑問だ。彼女の予定では、今日はただの当たり前で日常的なよくある一日のはずだった。

「いやーほんと、なんでこうなったんだっけ!」

 浅野大洋は笑いながら答えた。彼自身、彼女の質問に答えられるわけがない。なぜなら彼もまた、当たり前で日常的なよくある一日を過ごすはずだったから。

「……なんていうか、巻き込まれることに慣れてきたって自覚が嫌でも湧いてくるわ」

 諦めに似た溜息。目の前に立ちはだかる複数人の男たちは、今にも水守と浅野に襲いかかりそうな雰囲気を放って彼女たちを睨み付けていた。

 緊張感が競り上がってくる。ひりついた空気で部屋がいっぱいになる。ここから無事に出るためには、目の前の男たちを倒すほかないだろう。

「話し合ってわかってくれる雰囲気でもなさそうね」

「まあ、仕方ねえさ!生きてりゃこういうこともある!」

「……ずいぶん落ち着いてるけど、浅野さんってもしかしてめちゃくちゃ強かったりするわけ?」

「お? どうだろうな、少なくとも明乃ちゃんにはボコボコにされたけどな!!」

 浅野が拳を握る。覚悟を決めたようにも見えないし、かと言って自信があるようにも見えない。本当にいつも通りの振る舞いだった。

 水守は彼が口にした人間のことを思い出した。超人的な怪力と身体能力。それはあまりにも人から外れすぎていて、正直なんの指標にもならない。

「まあ、こいつらに負けるほどではねえな」

 そう言ってから、浅野は前に踏み込んだ。

 彼が男の一人に拳を叩き込む音が響いて、水守は頭の片隅で思う。

 別に、非日常的なことは楽しいし、得をしているとも思う。実際、そういうことへの憧れがなかったわけではない。だから探偵になることを受け入れたに近しい。

 だからと言ってこんな、お祭りのような毎日を生きたかったわけでもないのだがーーー……

 


 猫猫事件帖  とある探偵の追走編

 

 

 初夏、某日。

 季節にしては珍しく晴れていたためか、外は思ったよりも暑かった。額に浮かんでくる汗を拭って、水守綾は思わずジャケットを脱ぐ。

「暑い……」

 思わず独り言が漏れるほどで、一度足を止めてどこかで涼みたいという考えが頭をよぎる。

 できれば喫茶店などに立ち寄って、十分でもいいから座りたい。涼しいところで、氷いっぱいの飲み物が飲みたい。

「アシュリーちゃーん、おーい、アシュリーちゃーん」

 乾いた喉から声を出しながら、水守は歩いた。右も左も確認して、なんなら足元も屋根の上も確認している。

 アシュリーというのは、猫の名前だ。真っ白な毛の、図太そうな顔をした猫。猫探しの依頼を受けた時はある種の感動すら覚えた。探偵といえば、猫探しか不倫現場の証拠写真。実際後者は何度か体験したことがあるものの、前者に限っていえば今回が初めてだった。

 それも、血統書付きの、水守よりいいご飯をもらっているような猫である。報酬の額も、不倫現場を差し押さえた何倍もある。

「おーい……」

 だから水守は張り切って猫を探していた。それもこの暑さでは、少しずつ体力も削られていくというものだが。

「おーい、アシュ……」

 まだいなくなって時間が経っていないから、とりあえず町内を探してくれと言われたものの、そんな簡単に見つかるわけが……

 と思った矢先である。真っ白な毛が横切ったのを確かに見た。それが猫であったかどうかはわからない。だが水守は反射的に走り始めた。猫を捕まえれば、今日のご飯はさぞいいものを食べられるだろう。

「あ、待って!ねえ!」

 大きい声を出さないこと。

 猫を探す際の注意点に書いていたというのに、それすら頭から吹き飛んでとにかく走っていた。

 他にも様々なところに依頼していると飼い主が言っていたから、早く見つけるに越したことはない。それに外はこんなに暑いのだ、猫が倒れてしまう前に、なんとか探さないと。

「待っ……」

 曲がり角で手を伸ばす。せめて姿の確認だけでも、と思った。だがそれは曲がり角の先に立っていた壁のような男によって、視界も動きも何もかもを奪われてしまう。

「ぶあ!!」

「あ?」

 誰かにぶつかった。水守は慌てて転ばないようにと踏ん張るが、相手の男はびくともしていない。

「おい、大丈夫か姉ちゃん」

「いてて……すいません、アタシの不注意で……」

 ぶつかった拍子にぶつけた鼻を押さえながら、水守は顔を上げた。自分より遥かに背の高い男がこちらの顔を覗き込んでいる。逆光で顔は見えないが、しかし毛の一つも生えていない頭に反射する太陽光に見覚えがあるような、ないような。

「あれ、水守さん?」

「あなたは……」

 先日、一度だけ会ったことがある。浅野大洋。図体がデカく、どこからどう見てもチンピラにしか見えない男は水守に眩しい笑顔を向けた。

「よおー!久しぶり!オレのこと覚えてる!?」

「浅野さん……だったっけ、ごめんなさい、ちょっと探し物してて」

「探し物?」

 東雲宵一の一件で、一度だけ現場で会ったのだ。確か何でも屋をしているとかいう、深海京佑という青年と行動を共にしているはずだ。だが、青年の姿は見えない。

「依頼で猫を追ってたの……ってそう!猫!見なかった!? 大きめで、毛が白くて長くて、あとふてぶてしい感じの!」

「ん?」

 浅野がポケットから何かを取り出す。それは一枚の写真だった。

「それって、こんな猫か?」

「え?」

 そしてその写真に映る猫は、水守も見覚えがあるーーー……というか、水守が探している猫そのものだった。

 


* * *

 


「なるほど、あの爺さんから同じ依頼を受けてたのか。ホイ、飲みなよ」

「ありがと。そういえば色んなところに頼んでるって言ってたわ……」

 浅野からペットボトルを受け取って、水守はそれを一度額に当てた。ひんやりとした冷気で少し体が楽になったように感じる。

「京佑……あ、前焼肉にいた奴な、背こんくらいの、いけすかねえ感じの男!アイツが依頼受けて、代わりにオレが探してんのよ。なんか別の仕事が入ったとかで」

「ああ……あの子ね」

 特に会話をしていたわけではないので詳しくは知らない。だが、随分と若そうには見えた。深海のことを思い出しながらキャップをひねる。

「何でも屋って猫探しとかもするのね」

「いやあ? あんまりこういうのはねえけどな。まあ、オレも仕事のことはあんまりよくわかってねえけど」

「仲間じゃないの?」

「んー? どっちかってえと用心棒? あ、家政婦の方が正しいか?」

 公園のベンチに座りながら、二人で空を見上げる。探すなら晴れのほうがいいとは言え、じっとしていても汗が滲んだ。

「彼……深海くんだっけ。結構若いように見えたけど」

「アイツまだ大学生だからな!そりゃーもう若えよ!」

 そんなことを教えていいのか……と、突っ込みそうになったが黙る。水守が聞いて損する話でもないだろう。

「でも頭がキレんのよ、オレと違ってな!まー馬鹿っつーか抜けてるとこもいっぱいあんだけど、ああいう奴が抜けてねーとむしろムカつくしな!」

「あー……まあ、わかるわ」

 思わず、ヒゲの生えた刑事の顔を思い出す。

「仲良いのね」

「水守さんのとこは仲良くねえのか?」

「アタシのとこ?」

「ほら、ヒゲの刑事の兄ちゃん。壱川さん!」

 ちょうどその男を思い出していたところだ。水守は苦い顔をしながら言葉を選んだ。

 仲が悪いわけではないだろう。よく外食をするし、一度大きな事件があってからは家に上がるようにもなった。

 だからと言ってビジネスパートナー以上の関係というわけでもないし、なんならまだ小さなわだかまりがあるようにすら感じる。

 水守はまだ許していないのだ。彼は様々なことを黙っていた。そして水守を利用しているくせに、甘ったれたことを並べて自己犠牲に走ろうとする。

 そういうところが、どうしても好きにはなれない。それこそ東雲宵一と明乃、もしくは木野宮と宮山のような信頼関係を築けていないことに対する言い訳ならたくさん思い浮かんだ。

「……仲良くないわね」

「へえ? 壱川さんは水守さんの話いっぱいしてたけどな」

「はあ? アイツが何話すって言うのよ、ていうかいつのまにそんな話したわけ?」

「焼肉行った時に連絡先交換したんだよ!んで、この前漢二人でサシ飲み行った!」

 ニカーッと笑いながら、浅野は手に持っていた水を飲み切った。

「ま、信頼とか仲の良さとかってのは難しく考えるもんじゃねえだろ? いつのまにかあるもんだ」

「……そういうものかしら」

「そういうもんだよ!」

 確かに、意外にも時間が解決しているように思う。前より自然に話せるようになったし、距離感も近くなったような。

「そうね、あんまり考えて解決することでもないわ。考えるのやーめた!」

「それでいいんじゃねえか? 結果は後からついてくるさ……っと、休憩もこの辺にして、猫探さねえとな」

「はあ、そうね、って言っても手がかりもないのに猫探せなんて結構な無茶振り……ん?」

 二人が立ち上がる。十分リフレッシュはできた。さあ、やるかと顔を上げた時に、それと目が合う。

 確かに目が合った。公園の真ん中、優雅に楽しそうに、それでいて呑気に散歩をしているーーー真っ白な毛の長い猫と。

「ああ!?」

「あ!コラ待っ……」

 手を伸ばすより速く猫が走り出す。思わず顔を見合わせるが、やはりあの猫で間違いない。

 ほとんど同時に二人は走り出した。ひたすらに猫を追って、その先に待ち構えているものなど知らぬまま。

 

 

 

猫猫事件帖 とある学生たちの放課後編 最終話

 

 

 

 別荘に着いて、明乃と彰はすぐに残りのメンバーと別れることになった。

 裏口から屋根に登り、二階から侵入することにしたのだ。深海たちは、今頃正面玄関の近くで隠れていることだろう。万が一明乃たちが見つかったら、時間を稼ぐ算段らしい。

「あの、えっと、彰ちゃんってさ、どうして怪盗になったの?」

「面白いことがしたかったから」

「もう!真面目に答えてよ」

 ぷんぷんという擬音語が相応しい怒り顔で、明乃は言った。彰は涼しい顔で笑っているが、本当のことは教えてくれないだろうという直感があった。

「そういう貴方は?」

「わ、私? 私はえっと、宵一さんと出会って、宵一さんが解答だったから、お手伝いしたくって。まあ、成り行きみたいなものだけど」

 話しながら二人は、当たり前のように壁をつたい、登り、二階の窓までたどり着いていた。

「学校は行ってないの?」

「学校? うん、行ってないけど……」

「そうなんだ、じゃあ、私とお揃いだ」

 彰は少し嬉しそうだった。それが何故なのかはわからなかったが、馬鹿にされているわけではないようだ。

「友達になれると思う?」

「え?」

 彼女の質問に戸惑っているうちに、ガチャリと音が聞こえる。彰が手慣れた様子で窓の鍵を外したらしい。

「あれ、もう目の前にあるじゃん」

 天井付近に備え付けられた窓から下を見下ろすと、そこには無数のショーケースと、その中に宝石やジュエリーが飾られている。

 とりあえずあの中から、目当ての品を探さなければいけないだろう。

「見たとこ警備員も見えないけど、床まで遠いね。どうやって下に行……」

 言い切るよりも明乃が動く方が速かった。明乃は狭い窓に体を滑らせ、そのまま何も考えず落下していく。

 一瞬驚いたが、しかしそうするはずだ。明乃はスカートが捲れないように抑えながら、そのままくるりと回転して音もなく床に着地した。

「ん!」

 下にいる明乃がこちらを見ながら両手を広げている。まさか、落ちたその先で受け止めると言っているのだろうか。

「……ほんと、規格外……」

 彰は脳内に、白い影を思い浮かべながら笑った。自分の常識では測りきれない人間がこの世にまだいると思うと、それだけでも楽しくて口角が上がる。

 しかし彰はマントを翻し、明乃の手を借りずに床に現れた。別にそのくらい、知恵があれば自分にだってできると言いたげな、しかし楽しそうな表情で。

 怪盗たちは、静かに視線をぶつけていた。

 

 

 

 


 猫猫事件帖 とある学生たちの放課後編

 

 

 

 


「彰ちゃんって、どうしてセーラー服にマントなの?」

「可愛いから」

「そっか、確かに可愛いね、これ」

 お揃いの衣装を着ながら、明乃と彰は広い部屋にあるショーケースを見回っていた。写真で見たものと同じ、真っ赤な宝石を探して。

「さっきの話だけど」

 ぎこちない会話ではあったが、明乃は彼女に話し続けた。彼女の内側を知ることで、何かが変わるかも知れないと思ったからだ。

 木野宮に害をなそうとする人間なのだと、ずっと思ってきた。実際に彼女はあの常盤社の仲間であり、木野宮をある目的で誘い出したこともある。

 その真相を明乃は知らない。彼女がどういう経緯で常盤社の元にいて、何を考えて怪盗をしているのか。そこに理由があるのかどうかすら、明乃は知らなかった。

 だが、本当に木野宮に害をなそうとしているだけの人間なのだろうか?

 明乃は疑問に思ってしまった。彼女の一面はあまりにも普通の女の子だったからだ。それに、木野宮が自分に危害を加える人間に、友達だと言うだろうか。

 いや、言いそうだから怖いんだよなあ。

「学校行ってないの? 彰ちゃんも」

「在籍はしてるけどね。もう長らく行ってないよ、つまんないもん」

「つ、つまらないから行かないの?」

「うん」

 話しながらも二人の視線の先はバラバラだった。ショーケースを一つ一つ確認して、あれも違うこれも違うとまた次を見る。

「つまんないの。人も、教えてもらうことも、全部」

「で、でも、お友達とか、好きな子とか」

「いないよ、一人も。私、学校でぼっちだったもん」

「ぼっち?」

「一人ってこと」

 彼女の声色は淡々としていた。別に嫌そうにも嬉しそうにも聞こえない。聞かれたことに答えているだけの、そんな声。

「ずっと一人だった。家でも、学校でも」

 別に、悲しそうには聞こえなかった。どちらかと言えば、受け入れているような、そんな雰囲気だった。

 明乃はそれが理解できた。何故なら自分もそうだからだ。学校に行かず、家には誰もいなかった。だがそれを悲しいと思ったことはない。そのすべてを、受け入れてしまっていたから。

「……えっと」

 言葉を選ぼうとする。だけど人とそんな話をしたことがなかった。だから困った。自分から伝える言葉の最善も、それを相手がどう受け取るのかもわからない。

「慰めてくれなくていいよ、だって今楽しいんだもん。だから気にしてない」

「そ、そっか」

 ぎこちない返事。同調すれば分かり合えただろうか。木野宮のように友達だと言えるようになっていただろうか。

「あっ」

 考えているうちに、先に探し物が見つかった。明乃は目の前にある宝石が、写真で見たものとそっくりであることに気づいて声を出す。

「あったよ彰ちゃん!これだと思うんだけど、確認してもらってもいいかな?」

「ん、わかった。じゃあそれ確認したら持って帰っ……」

 彰が言葉を失ったのには理由がある。それは単純な驚きだった。

 普通、警備員もいないこんな部屋で疑うべきことはいくつかある。一つはカメラの設置。しかしこれは事前に深海から情報の共有があり、今頃深海がカメラの映像を差し替えてくれるはずだから問題はない。

 もう一つは人感センサーなどのトラップ。彰が今までいた現場ではよくその手のトラップがあった。そう例えば、ショーケースに手を触れると……

「待っ……!」

「え?」

 そんな怪盗の基本とも言えることを何も考えずーーー……明乃は、ショーケースに手を置いてしまった。

「あ、ああああ!?」

 けたたましくサイレンが鳴り響く。明乃の絶叫がかき消されるほどに大きなサイレンが。次いでバタバタといくつもの足音が聞こえてくる。待機していた警備員たちが時期にここにやってくるだろう。

「あ、あ、あわあわあわあわあわ!ご、ごめんなさあああい!」

「いいから貸して、あと落ち着いて!」

 彰は明乃の元へ駆け寄った。ショーケースに自身のマントを被せ、そのままひらりとマントを翻せばマジックのように中から宝石が出てくる。

 本物かどうか確認する暇もない。次第に足音は大きくなり、ついに広間の扉が乱雑に開けられた。

「動くな!!!」

 複数人の男たちが入ってくる。スーツにサングラスをかけた、いかにもな男たちが。

 彰は宝石をポケットに仕舞った。今から天井の窓まで登って逃げるのは無理だ。そうなると正面を突っ切るしかない。

「あわ、あ、どうしよう彰ちゃん!」

「……まあ、仕方ないからぶっ飛ばせばいいんじゃない?」

「倒しちゃっていいの?」

「いいよ、だって知らない人だもん」

 男たちは狼狽えていた。何故なら、そこにいたのは想像していたような人間ではなく、無害そうに見える少女たちだったからだ。

「いいか、動くなよ。そのままじっとしてろ」

 と、言われて動かないわけがない。

 明乃は男の忠告を完全に無視して前に飛んだ。ショーケースを踏み台にして更に飛び上がり、軽やかに男の前に着地する。

 男は驚く暇もなかっただろう。明乃は全力で振りかぶって男の腹を殴った。

「ごめんなさい!」

 両手を合わせて吹き飛んだ男に謝るも、もう意識はない。通常殴られて人間が吹き飛ぶ限界距離の記録更新を見てしまった男たちは、額に冷や汗を浮かべている。

「つ、捕まえろ!捕まえるんだ!!」

 男たちが明乃に襲いかかる。だが、通常の人間が敵うわけもない。訓練を受けていて、多少普通の人間より強かったとしても……それは、明乃にとって一般人となんら変わらない。

「ごめんなさああい!!!」

 叫びながら明乃は一人残らず吹き飛ばした。彰はそれを見届けてから扉の前に立つ。

「早く行こう、さらに来ちゃうかも」

「そ、そうだね!早く出ないと、みんなも心配しちゃうし」

 彰が扉を開く。屋敷の間取りはもう頭の中に入っていた。どこから脱出するかはすでに考えてある。

 その経路を脳内で辿りながら扉を開けたからだった。扉のすぐ向こうに、人の気配があることに気が付かなかったのだ。

 それはただの慢心だった。扉が開いた瞬間、目の前にスーツの男が立っている。彼も警備員の一人だろう。男の手にはスタンガンが握られており、それは彰に向けられている。

「彰ちゃん!」

 避けるのは簡単だった。慢心していたとは言え、驚きもしなかったし恐れもしなかった。いつもなら危ないなあ、なんて軽口を叩いてひらりと避けていただろう。

 だけど彰は避けられなかった。

「……? …………?」

 彰は何度も瞬きを繰り返す。気付いた時には、彰は明乃の腕の中にいた。そしてその明乃は、彰を抱き寄せたまま男に容赦ない蹴りを突きつける。

「彰ちゃん!大丈夫!?」

 男が吹き飛び、視界から外れる。見上げるとそこには、心底心配している明乃の顔が間近にあった。

「……王子様みたい」

「へ!?」

「ふふ、あはは、すごいね、王子様みたい!」

「な、な、なんで!?」

 彰は、心底楽しそうに笑った。困惑している明乃の手を取る。また視線の先から追加で足音が忙しなく聞こえてきた。

「ありがとう、明乃ちゃん」

 あまりにも、普通の少女のような。まるでもう、元から友達であったかのような。

 そんな笑顔に照れ臭くなりながら、明乃は彰の手をギュッと握って、廊下を駆け抜けた。

 

* * *

 

「たのもーーーう!!!」

 ピンポーン。

 チャイムを鳴らしながら、木野宮は大声で叫ぶ。しかし返事はない。だが屋敷の中からはドタバタと騒がしい音が聞こえてくる。

「むう、返事がありませんな」

「見つかったみたいだし追いかけてるんだろ。勝手に入るか」

「それは不法侵入ですぞ!!?」

「どさくさに紛れたら許されるだろ」

 深海と木野宮は、別荘の玄関前にいた。サイレンが聞こえてきたのでどうやら二人が見つかったのだと察してやって来たのだ。

 木野宮はもう一度チャイムを鳴らす。返事がないのだ、もう一度。更にもう一度と繰り返していると、痺れを切らしたのかついにインターホンから男の声が聞こえて来た。

「なんだ!?今は忙しいんだ!!帰れ!!」

「豊永さんですか?」

 深海は食い気味に行った。豊永とは、佐々木を騙した男名前だった。

「実は、予告状が届いたんですよ、ついさっき。この別荘にある宝石を狙うって書いてたんで、急いで駆けつけたんです。どうやら手遅れみたいですが」

「何!? 予告状だと!? おい絶対逃すなよ!!俺は客人の相手をする!!」

 インターホンの向こうで怒鳴り声を上げながら、男は相当怒っているようだった。

 しばし待っているとやたら広い玄関から、写真で見た男が出てくる。

「貴様ら警察か!? なぜガキがいる!!」

「ああいえ、俺らは探偵でして、これが例の予告状……」

「ふん!!」

 豊永が、深海の手から封筒を手荒に取り上げる。中身を見てわなわなと震え始めたかと思えば、目の前で思い切り破り捨てられた。

「探偵だと!? どうせ役に立たんだろう!こんなガキまで連れて!!」

「彼女をご存知ないんで」

「ねえよそんな頭の悪そうなガキ!!」

「木野宮きのみ!!職業は名探偵です!!」

「木野宮……?」

 豊永が止まる。どうやら流石の彼も木野宮探偵のことは知っているらしい。深海の口振りから、無関係ではないことがわかったのだろう。

 だがそれを確かめる間もなく、深海は豊永に近寄った。

「犯人は俺らが捕まえるんで、預からせてくれませんかね。……まあ、そもそも警察には行けないだろ?」

 静かに耳打ちすると、豊永は深海を睨み付けた。だが、木野宮も深海も平然としている。

「豊永様!!逃げられました!!」

「何!?」

 奥からスーツ姿の男が走って来た。汗だくになりへとへとになった男は、申し訳ありません!と何度も続ける。

 豊永はしばし黙って、それから深海を一瞥した。

「……任せられるのか?」

「ああ、奴らのことはずっと追っていたんだ。任せて欲しい」

「報酬は」

「後払いで結構だ」

「フン………」

 彰と明乃を追いかけているであろう男たちの声が、徐々に遠くなっていくのが聞こえる。

 豊永は深海から名刺を受け取り、乱暴に扉を閉めた。半ば締め出されるような形で、二人はまた玄関前で顔を見合わせる。

「いっけんらくちゃく?」

「まだ早い……が、まあ、ほとんどそうかもな。どうやら警察には行けない事情があるみたいだしな」

「彰ちゃんと明乃ちゃん、大丈夫かな?」

「大丈夫だろ、あの二人なら」

「そっか!うん!わたしもそう思う!」

「帰るか」

 言って、二人は佐々木の元へ向かった。落ち合う予定のカフェは、ここからまだ三十分は歩かないといけない。


* * *


「ほ、ほんとうに盗ってこれたのか」

「アクシンデントもあったけどねえ」

「うっ、ごめんなさい……」

 可愛らしいハンカチに包まれた宝石は、人生で手にすることを許されないような気分になる大きさだった。佐々木はカフェでそれを開く気分になれず、ぎゅっとハンカチごと握りしめている。

「カマかけたんだが、やっぱり警察には行かないみたいだ」

「そりゃそんだけ真っ黒なことしてたら、警察に入られたら困るだろうしね。後は任せていいんでしょ?」

「ああ」

 各自頼んだハンバーグやパスタを食べながら、すっかりオフモードに戻っている。服を着替え直した明乃は、ナポリタンを口いっぱいに入れながら深海を見た。

「任せちゃっていいんですか? その……結構暴れちゃったけど……」

「大丈夫だ、気にするな。オッサンもな」

「で、でも一体どうするんだ、この先」

「それは俺が金に変える。後のことは……まあ、数日後新聞でも買って確認してくれ」

 深海はステーキを口に入れて、腕についたアップルウォッチを操作した。

「これにて本当に、いっけんらくちゃくですな!よかったね、おじさん!」

「あ、ああ、本当に……」

 佐々木が涙ぐむ。驚きなのか、安心なのか、自分でもよくわからない感情でいっぱいいっぱいになった。

「本当にありがとう!」

 ゴン!とテーブルに頭をつけて、佐々木は泣きながら大声で言った。木野宮はうんうんと大きく頷いて、深海と同じステーキを頬張る。

「この金で、新しい商売でも始めるよ。今度は真面目にコツコツやっていく、もう二度とあんなことはしない」

「それがいいね、おじさん優しすぎるもん」

 自分の皿に乗っていたパンケーキを食べ切って、彰は立ち上がる。どうやら一足先に帰るようだ。

「今日は、まあ暇潰しくらいにはなったかな。また会おうね」

 お会計よろしく、と深海の顔を見て、彰が去ろうとする。木野宮が引き止めるわけでもなく、またねーー!と手を振りながら言う。

 明乃は焦っていた。何に焦っているのかはわからない。だが、まさか彼女がこんなにあっさり帰ると思っていなかったのだ。

 せめて駅までは一緒にいるものだと思っていた。何か言わなければいけない気がする。だけどやはり、明乃はその答えを知らない。

 彼女にもいろいろあるのだろう。いろんな過去と、事情が。そしてそれは、考え方や道筋が違っても、明乃と全く違うものではない。

 それを知ったところで、どうすることもできない。彼女が木野宮を傷つけようとした事実も、木野宮が彼女を友達だと言うことも、何もかも受け入れられないままだ。

 だけど、何か言わなければならない気がする。

「待って!」

 正解はなんだろうか。

 彼女の過去に寄り添うことか。彼女の選択を尊重することか。そのどれもまだ、知らないことが多すぎてきっと難しい。

「あの、えっと、彰ちゃん」

「どうしたの?」

「な、なれるよ!」

 だから明乃は、自分の言いたいことを選択した。言わなければいけないことではなく、自分のしたいことと、言いたいことを。

「な、なれるよ……その、友達!きっと、これから……なれると思うよ」

 少なくともそうなれるなら、そうなりたい。

 彰は驚いたように目を見開いて、少ししてから笑った。深海は気にせずステーキを食べているし、木野宮は腕を組んでうんうんと頷いている。

「そう」

 しかし彰の返事はシンプルだった。たったそれだけ返して、そのまま去っていく。

 明乃は結局、自分の言葉が伝わったのかもわからないまま、またフォークを手にした。

「……青春だなあ」

 佐々木が呟く。木野宮だけは変わらずにこにこ笑っている。彼女からすれば、もう二人は友達のようなものだった。

 だが、それを言わなかったのは、口の中に収まり切らないほどのステーキが入っていたからである。

 

 

* * *

 

 

「ただいまー!」

「おかえり、きのちゃん」

 宮山紅葉は新聞を読みながら、忙しなく靴を脱いでリビングまで走って来た木野宮を迎えた。

 最近は学校から帰って来る前に遊ぶことも多いらしく、遅い時間に帰って来ることもしばしばある。

 まあ、遅い時は大抵知り合いの怪盗が一緒だからさして心配はしていないのだが。そういえば先日もやたら帰って来るのが遅かった日があった。そういう日は外食をしてくることもあり、その日なんてステーキを食べたと言われたのだから少し寂しい。

「今日は何か事件あったー!?」

「ん、読む?」

「読まない!!」

「だよねえ」

 一瞬新聞を差し出すも、すぐに拒否されて宮山は新聞をテーブルに置いた。今日の見出しはとある悪徳会社が一斉検挙されたという事件についてだ。

「あ!これ!」

 その記事が視界に入ったのか、木野宮が指差して珍しく新聞を見ている。

「気になる?」

「うん!」

 特にこういう事件について気にするのは珍しい。もしかしたらこれも成長なのかもしれない。

 宮山は感動しながら、事件のことについて書いてあった限りのことを話した。

「謎の人物から警視庁にリークがあったんだって。ここを調べたら違法な宝石やらなんやらが、めちゃくちゃ出て来るぞってさ」

「ふんふん」

「それで調べてみたら案の定、その中に闇オークションだとか騙し取っただとか、いろんなものが出てきた挙句、会社自体に詐欺容疑もかかって」

「ふんふん!!」

「その会社を運営してた豊永って人と、会社に関わって人間全員捕まったって話」

「ふんふんふん!」

「ちゃんと聞いてる?」

 木野宮がもう一度新聞を見る。見覚えのある別荘の外観に、知った顔の男がそこに印刷されていた。

「ふっふっふっ」

「?」

「また世界を救ってしまったぜ……」

 木野宮の独り言に、宮山は呆れるように肩をすくめる。どうやら木野宮は、宮山が知らぬうちに世界を救ったらしい。

 それが果たして妄想なのか、現実なのか、宮山の知れることではない。

「まあ、こういうのはきのちゃんがやるべき事件じゃないから、くれぐれも巻き込まれそうになったら逃げるように」

「はーい!」

 木野宮は元気な返事をした。なんとなくこれは秘密にしておこうと思った。なぜなら、その方がヒーローみたいなでかっこいいからだ。

 たったそれだが、木野宮きのみは上機嫌だった。彼女たちと自分だけが知る、秘密を思い浮かべてはにやにやすることを何度も繰り返して。

 早く、今にでも楽しいことが起きないかとまた目を輝かせて探している。

 

 

猫猫事件帖 とある学生たちの放課後編 その参

 


「動くな、人質がどうなってもいいのかー」

「きゃー!動かないでー!殺されちゃうー!」

 目だし帽を被った深海は棒読みながら、できるだけ大きい声を出した。その腕の中で包丁を突きつけられている彰はどこか楽しそうだ。

「全員動くな!人質をとられているぞ!」

 焦った警察の一人が声を張り上げる。どうやら一応騙されてくれているらしいが、深海の演技の下手さに違和感を覚えられるのも時間の問題だ。

「……ちょっと」

「なんだ」

「もうちょっと迫真の演技できない?」

「十分だろ」

「棒読みすぎ、こんなんじゃ弱そうすぎてすぐに捕まえられるじゃん」

「そうなったらどうにかしてくれるんだろ?」

「当たり前」

 こそこそと小声で話しながら、二人は目くばせした。警察官は待て!落ち着け!と必死の説得を繰り返している。

 じりじりと寄ってくる男。二人はそれを合図に目くばせした。

「……楽しそうだな」

「確かにちょっと楽しいかも。こんなシチュエーションまあないもん」

「楽しいのはいいが早くしてくれ、この目だし帽オッサンの涙で濡れてて気持ち悪い」

「あはは、可哀想」

 じゃあ、と彰が口を開けたと同時に、警察官が一歩踏み出した。

「息止めとい方がいいよ」

 彰が笑うと同時に大きな爆発音。警察官たちは慌てふためき、各々が困惑の声を上げる。

 あたり一面にピンクと白の混じり合った煙が充満し、彼らの視界は一瞬で奪われた。パチパチと弾ける小さな連続する光。まるで魔法のように煙は溢れ返って彼らを包み込む。

「なんだ!?何が起きている!?」

 咳き込む彼らの意識は遠のいていく。そして一人、また一人と地面に倒れる音が響き、次第にそれすらなくなるとーーー……

 まるでそこには最初から何もなかったかのように、煙も、目だし帽の男も、捕らわれた少女も一瞬でその場から消えてしまった。

 

 

 

 


 猫猫事件帖 とある学生たちの放課後編

 

 

 

 


「あ、あんなことして嬢ちゃんたちは大丈夫なのか?」

「ヘーキ、後で色々手を回しとくから」

「彰ちゃんすごいねーー!魔法みたい!!ピンクがぶわーー!って!!キラキラしてて!!ぶわーーって!!!」

「気に入った?」

「うん!!!」

「あ、きのみちゃん口についてるよ、はいハンカチ」

 バニラ味のソフトクリームを頬張りながら、木野宮は渡されたハンカチを受け取る。同じくソフトクリームを舐めながら彰と明乃はベンチに座って涼んでいた。駅前の売店で彰はチョコとバニラのミックスを、明乃はストロベリーを選んだ。

 困惑しながらも佐々木は少女たちにおじさんの分も!と買ってもらったソフトクリームを一口食べる。こんな子供に奢ってもらって情けないが、久しぶりに口にした嗜好品の味に思わず涙が滲んだ。

「わかったぞ」

 抹茶味のソフトクリームを食べる深海は、全員の視線の前に手に持っていたスマホを掲げる。

 そこには一人の男の写真が映っていた。

「ああ、この男だ!!間違いない!こいつが俺に宝石を売った男だ!!」

「そんなに大きな会社じゃないが、どうやら似たような詐欺でずいぶん稼いでるらしいな。その金で宝石やらジュエリーを買い漁って保管してるらしい」

「場所は?」

「お気に入りの物は全て別荘に、後はわからん」

 木野宮が手に垂れたソフトクリームを舐めとる。すかさず明乃がその跡をハンカチで拭う。

「じゃあ、取りに行こうよ」

「え!?」

「宝石。お金払って買ったんでしょ?」

 彰はあっけらかんとしながら立ち上がった。

「じゃあおじさんが貰っても問題ないよね」

「で、でもそんなのバレるんじゃ」

「売り捌くルートならこっちで確保できる」

 深海もまた、当たり前かのように答える。佐々木は混乱を極めていた。

 いったい彼らは何者なのか。もしかすると、ごっこ遊びや冗談、あるいは中二病の類かと思っていたが、そうではなくあの自己紹介が本物だったのではないかと思い始める。

 未だにからかわれているのではないかという気持ちも拭い切れないが、実際に彼らは強盗を顔色ひとつ変えずに撃退し、更に警察まで撒いてきたのだ。

「そ、でも、そんなことを……」

「おじさん、悪いことしてないんでしょ?」

 木野宮が聞いた。純真無垢な目だった。彼女は包丁を持った佐々木に囚われそうになったというのに、まるで最初から佐々木が彼女を傷付けないことを知っていたかのように。

 何も疑わず、何かを信じている目だと思った。

「で、でも俺は、強盗しようと思って、あの店に」

「未遂だからいいんじゃない? それに、元はと言えばこの男が騙したからこうなっちゃったんでしょ」

「それは……そうだ、そうだ、あの男が俺の人生をめちゃくちゃにしたんだ……」

「じゃあやり返しちゃお。手伝ってあげるよ」

 ね、と彰は笑った。一同は当たり前のように頷いている。

 佐々木は不思議と涙が内側に引っ込んでいくのを感じていた。本当にやれるのかという不安もあるが、なんとなく、なんの根拠もなく、この子達ならできるのではないかという確信めいたものが芽生え始めていた。

 騙されていたとしてもどの道人生諦めるしかなかったのだ。それならここで、いっそバカのような選択をするのも悪くない。

「嬢ちゃんたち……」

 佐々木は勢いよく立ち上がり、その場で地面に頭をつけた。まだ明るく人も通るというのに、それでも気にせずに。

「頼む!力を貸してくれ!!なんとかあいつを、ギャフンと言わせてやってくれ!!」

 情けない姿だったかもしれない。大の大人が、子供相手に土下座して頼み事をしているのだから。

 だが彼女たちの誰も、それを馬鹿にはしなかった。木野宮は佐々木の前にしゃがみ、手を差し伸べる。

 相変わらず彼女の瞳の奥にあるのは、好奇心と、面白いことへの期待だけだったが。

「その依頼、確かにうけたまわりましたぞ!!」

 


* * *

 


 深海が調べた別荘までは、電車で1時間半ほどかかる隣県にあった。バスを乗り継けばなんとか車無しでも行けるらしい。

 各々が駅で切符と、売店でお菓子を買い込んで電車に乗る。田舎に向かえば向かうほど乗車客は減り、いつのまにか随分と空も暗くなり始めていた。

「君たちは本物なのか?」

 今から敵地に向かうとは思えないほど明るく普通の空気に流されそうになりながらも、佐々木はなんとか口を開くことができた。

 それは当たり前の質問であり、しかし彼女たちからすれば到底不思議な質問だった。

 怪盗を名乗る少女と、性別がわからない少年もしくは少女、計二名。名探偵を名乗る少女一名。何でも屋を名乗る青年一名。

 もちろん佐々木もニュースやネット記事で怪盗の存在は知っていた。だが、その正体がこんな普通の少女たちであると誰が思うだろうか。

「まだ信じてないの?」

 彰は木野宮の手にある袋からポッキーを一本抜きながら言った。

「むしろ信じられると思うか? いや、ここまで来といて今更疑うのもなんだけどよ……」

 明乃は不思議に思っていた。なんせ、明乃の周りには怪盗や探偵に関与する人間しかいない。むしろ、それ以外の人間で構成された人間関係を知らないからだ。

 何を疑われているんだろうかと首を傾げながら、明乃もポッキーを一本引き抜く。

「か、怪盗って普段何してるんだ?」

「えっと……絵を盗んだり……なんかよくわかんないもの盗んだり……あ!怪盗同士で闘ったり!」

「そん……まあ、そうだよな、怪盗だもんな、え? 怪盗同士で闘ったりするのか?」

「探偵と共闘することもありますぞ!!」

 木野宮がポッキーを五本咥えたまま言う。まるで漫画の中の話だが、彼女たちが嘘をついているとも思えない。ごっこ遊びの話をしていると言われても納得ができるレベルではあるが。

「探偵は普段何をしてるんだ?」

「猫のやーちゃんを探したり、あと猫のおこげを探したり、たまに大事件の解決のため、現場に行くこともありますぞ!マリアが割れたり、なんとかの短剣がなくなったり!」

「それはたまたま居合わせただけなんじゃ……」

 明乃が眉を下げながら笑う。

「そ、それじゃあ何でも屋は!?」

「俺か?」

 木野宮に差し出されたポッキーを一本引き抜いて、深海はそれを口に入れた。

「色々だ。情報屋のようなことをしたり、護衛をすることもある。大抵は前者だけどな」

「ね、猫の情報とか?」

「? いや、商売敵の顧客データとか……」

「待て待て待てそれ以上はいい!!聞いたら戻れそうにないから怖い!!」

 佐々木は必死でストップをかける。この話が全て本当なら、自分はとんでもない空間にいることになる。

 いや、そもそも本当なら、どうして探偵と怪盗が一緒にいるのだという疑問も出てくるが……

「ま、疑われても信じてもらっても、やることは変わらないし」

「いや……信じるよ。頼み事をしてるってのに、疑う方が失礼だ」

 木野宮はずい!と佐々木の前にポッキーの袋を出した。ため息を吐きながら、それでも笑って佐々木は一本引き抜く。

「ありがとうな。なんか、元気出たよ。笑ったのなんていつぶりかもわからない。お菓子を食べたのもな」

「まあ世の中にそんな上手い儲け話なんてないってことだ。勉強代にしては高すぎるが」

「その通りだな、でも金が必要だったんだ。……母ちゃんが病気でな。俺の元々の稼ぎじゃ、入院代やらなんやら引くと結局大した生活はできなかった。それでどんどん追い詰められて……」

「つまんないの」

 彰が話を遮る。

「今から大金が手に入るんだから、先のこと考えたら。お母さんの入院代どころか、結構贅沢もできると思うけど? おじさんは何が欲しいの」

「それは……」

 佐々木は黙り込んだ。

 欲しいものなんて死ぬほどある。ずっと我慢していたから、とにかく美味しいものが食べたいだとか、旅行に行きたいとか、趣味だった釣りを再開したいとか。売り払ってしまった家具を買い直して、あたたかい布団でもう一度眠りたいとか、たくさんのことが頭に浮かんだ。

 だが、すべて実現するとして、その先のことを思うと頭が痛くなる。佐々木はやはり、黙り込んでいた。

「とりあえず、今のうちに作戦練るか」

 続く無言の中、深海がそれを遮った。浅野に連絡を取り、すでに別荘の間取りなどもスマホに送られてきている。

「アンタが掴まされた偽物の宝石……どうやら本物は今から向かう別荘にあるらしい。だが家主がいない間も警備員が配属されている」

「そんなの作戦練るまでもないよ。ね、怪盗さん」

「……う、うん。大丈夫だと思う、……多分?」

「問題は盗った後だな。何もしなきゃ大事になって、最悪オッサンも目をつけられるぞ」

「じゃあ、私が予告状出そっか」

「今からじゃ間に合わないんじゃないか?」

「じゃじゃーん」

 彰が肩からかけていたポーチから、封筒と色付きのペンを出す。そういえば前回も手書きで可愛く絵なんて描いてたな……と明乃は思い出した。

「ま、本当ならもっと前から出した方がいいんだろうけど、私そういうのしーらない」

「わー!匂いつきペンだー!!いいないいなー!!」

「え、これ匂いするの? わ、本当だあ!シャボン玉の匂いがする!」

 早速彰は便箋に予告状らしいことをつらつらと書いていく。

「まあ、後のことは俺が上手くやる。とりあえず二人は件の宝石を探してきてくれ。これなんだが」

 深海は明乃にスマホを見せた。しっかり目に焼き付けようと思うが、正直明乃には宝石の違いはわからない。

「次の駅で降りるぞ」

「ま、待ってくれ」

 深海が立ち上がると、佐々木は絞り出すような声を出した。

 今更、もしかしたら失敗するかもしれないなんて恐怖や不安はなかった。あの時、この子供たちの気まぐれが起きていなければ、自分は今頃警察にいただろうから。

「本当に、頼っていいのか? 普通に考えて危ないだろう? それに、元はと言えば奴が悪いって言ったって、宝石を盗むのをやるべきは俺なんじゃ……」

「別に」

 彰も深海に続いて立ち上がる。彼女はいつのまにかセーラー服に着替えていた。つい先程まで、普通の服を着ていたはずだ。佐々木は目をぱちくりとさせてから、何度も瞬きをする。

「ただの気まぐれだもん。そこの小さな探偵さんが面白そうなこと思いついたから、気まぐれに乗っただけ」

「小さくても夢はでっかいですぞ!」

「私からしたらただお友達と遊ぶだけだから、気にしないでいーよ」

 言ってから、彰は明乃の手を取った。不思議に思いながら明乃は釣られるように立ち上がる。

「まあ任しといてよ、おじさんが思ってるより私たちすごいから」

「? ちょっ……」

 明乃が何か言うより速く、彰が手を振る。するとまた小さな爆発音と共に、一瞬明乃の体が煙に包まれた。

「わっ!わっ、何……なん……ええええええ!!??」

「おおーー!!!」

 すぐに薄れていく煙の中、明乃は違和感に思わず視線を下に向ける。

 違和感があるはずだ。明乃はいつのまにか、彰と同じセーラー服を身につけていた。

「なん、な、うわああああん!!!」

「早着替えだーーー!!!」

「おい、人がいないからって公共の場で着替えるな。はしたないぞ」

「いいじゃん、見えなかったでしょ? 京佑のえっち」

 明乃がスカートを押さえ込んで真っ赤になる。なんだか下が涼しくなったと思うわけだ。

「何で恥ずかしがってるの? もっと恥ずかしい衣装着てたじゃん」

「あれは!!夜でぇ!!人もいなくてぇ!!お仕事モードだから大丈夫なの!!ここ!!外!!普段こんなの着ないもん!!」

「似合ってるよ?」

「えっ、え、えへへへ、えへ、そうかなあ」

「うむ、とても似合ってますな」

「えへへへへ、えへへ、そうかなあ!」

 佐々木は呆然としていた。一体これから何が始まるのか、彼一人だけが想像できていない。

「じゃあ、行くか」

 だが行かなければならないだろう。これは彼女たちの気まぐれだ。だが、たしかに佐々木の人生を左右するだけの、大きな出来事になるだろうから。

 

 

 

 

猫猫事件帖 とある学生たちの放課後編 その弐


「えっと、お知り合いなんですか?」
「従兄だ」
「まさかの親戚!?」
「本当の話だよ」
「世間は狭いですなあ!!」
 はっはっはと大きく口を開けて笑いながら、木野宮は驚いている様子もなかった。
 明乃は驚きを隠せずにいるが、特に疑うわけでもなく二人の顔を何度も見比べた。
「ああでも、京佑と仕事で関わったりはしてないから大丈夫だよ」
「ちゃんと報酬が払われるなら仕事は受けるけどな」
「そのくらい自分でできもーん」
 前を歩く木野宮を追う形で、三人は並んで歩いていた。何故か間に挟まれている明乃は多少混乱していたがこの状況にも慣れてきたらしい。
「あ、見て見て!」
 徐々に落ち着きを取り戻してきたところで、木野宮がまた指をさす。その先には、まだ真新しく綺麗な店が建っていた。
 ショーケースにはネックレスや指輪が並んでおり、どうやら高いジュエリーも安いアクセサリーも売っているようだった。
「すごいきれい!!ほら、これとか前に彰ちゃんの予告状の……」
「シーーッッ!おっきい声で言ったら怪盗だってバレちゃうよう!!」
 さらに大きな声で明乃がかぶせるも、今日はツッコミ不在である。深海と彰は後ろからそれを眺めているだけだ。
「入ってみてもいい!?」
「い、いいけど、いいのかなあ、なんか大人っぽくて緊張しちゃうけど……」
「見るだけならタダですから!!」
「それはそうだけどお!」
「いいんじゃない? 女の子だもん、ね、京佑」
「好きにしたらいいんじゃないか」
 適当な深海の返事にうなずいて、彰が一番最初に店に入った。続いて木野宮と明乃、更に続いて深海が入る。
 まだできて日が浅いのか、店内は綺麗な状態だ。先ほどのアンティークショップの雰囲気とは一変して、高級感のあるショーケースが並んでいる。
 そして奥のカウンターには、困惑した若い女性が一人。彼女の顔は青ざめているように見える。
 そして、最初に店に入った彰の目の前には―――……
「おい!!さっさとしねえから人が来ちまっただろうが!とっととシャッター閉めろ!!」
「は、はい!」
 目だし帽に、古びたパーカー。手には小さな包丁。まるで漫画の中でしか見たことがない、絵に描いたような強盗が立っていた。
 それに全員が気付くより速く、店員であろう女性が何かを操作して、一同の後ろにあった扉は閉まり、シャッターまで降りてきた。
「探偵さんといると暇しなくていいね」
「きのみちゃん、後ろに下がってないと危ないよう」
「馬鹿、子供が前に出るな」
 驚くほど冷静で、顔色一つ変えない子供たち。その中で唯一、相変わらず状況がわかっているのかいないのか、木野宮きのみ、彼女だけは―――……
「事件ですかな!!?」
 楽しそうな顔で、我先にと強盗の前に躍り出るのであった。

 

 

 猫猫事件帖 とある学生たちの放課後編

 

 

「じっとしてろ!ちょうどいい、お前は俺の近くにいろ!」
「お?」
 目だし帽の男が木野宮の腕を掴み、引き寄せる。
 だが引き寄せきるより先に、明乃の身体は動いていた。
「あ!?」
 男は痛みに声を上げる。明乃は木野宮の腕を掴んだ手を思い切り殴りつけ、ついでと言わんばかりに男の腹へ足をねじ込んだ。
「うわあああ!!」
「きゃあああああ!!」
 叫んでいるのは、痛い思いをした男と店員の女だけである。
 深海はそれを見届けてポケットからスマートフォンを取り出し、迷わずに110を押した。
「て、てめえ」
 既に瀕死状態の男は、なんとか立ち上がったものの真っすぐ歩くことすら叶っていない。木野宮は後ろでいっちゃえー!とヤジを飛ばしている。
「女の子にそんなもの向けちゃだめでしょ?」
「何?」
 男がふらふらと歩み寄ってくるが、目の前に彰が立ちはだかる。彼女がね?と男の肩を叩くと、小さな爆発音と共に男が白い煙に覆われた。
「うわああああ!!!」
「警察来るまで大人しくしててね、あんまり暴れるとほら、あの子怖いから」
 煙が晴れる頃、男はロープでぐるぐる巻きにされていた。何が起こったかわからず混乱を極めた男は必死に体を動かそうともがいている。
 木野宮はぱちぱちと拍手をしながら、おーと感心しているようだ。
「かっこいい!!すごい!!どうやったの!?」
「秘密」
「警察に連絡した。じきに到着する」
「はー、びっくりしたあ」
 状況が理解できていないのは、目だし帽の男と店員の女だけである。
 一同は何事もなかったかのように警察が到着するまで待とう、なんて話し合っているが、徐々に状況がつかめてきた目だし帽の男は体を縮めた。
「一瞬で終わっちゃって残念」
「馬鹿言うな、怪我がないのが一番いいだろ」
「きのみちゃん大丈夫!? 怖くなかった!?」
「平気だよ!だって明乃ちゃんも彰ちゃんもいるもん!」
 えっへん、となぜか威張る木野宮にほっと胸を撫で下ろして、明乃が男を見下ろす。
 男は、泣いていた。顔を見られないように床に向けているが、しかし静かに泣いていた。彼の泣き声が小さく店内に響く。
「う、うう、う……」
「何泣いてるの? お買い物の邪魔されて泣きたいのはこっちなんだけどなー」
 彰の笑顔は冷たい。だが、明乃の気持ちも同じだった。
「いや、いいんだ、失敗して捕まるなら、それでいいんだ……」
 男は独り言のように繰り返した。一同は顔を見合わせる。
「俺には最初から無理だったんだ……どうせこうなる運命だったんだよ……これでいいんだ、人を傷つけるより、これで……」
「おじさん、どうしたの?」
 彼の目の前に立ったのは、木野宮だった。しゃがみこんで顔を覗くと、男はようやく顔を上げる。
「わたしでよければ聞きますぞ!!何か悩み事ですかな?」
「き、きのちゃん!あんまり近付くと危ないよう!」
「大丈夫じゃない? 結構きつく縛っといたから、聞くくらいなら」
「嬢ちゃんたち……」
 涙をぬぐうこともできず、男は泣き続けた。そしてようやく落ち着いたころに、遠くからパトカーの音が聞こえてくる。
「金が、必要だったんだ……」
「お金は大事ですな!」
「騙されたんだよお!!この店を経営してる男に騙されて、金をとられたんだ!!」
 必死に訴えるような声が響いた。木野宮はうんうんと聞いている。
「宝石を買わされたんだよ!一年後に、爆発的に価値が上がるって言われて、言いくるめられて買わされたけど偽物だったんだ!!」
「わあ、さっきの京佑みたい」
「人間そういう時もある」
「借金だけが残ったんだ……だがその後、俺を騙した男に手を回されて会社もクビになったし、契約書があるから警察も取り合ってくれやしねえ……」
「ふむふむ」
「毎日借金取りが家に来る、ついに飯を買う金もなくなった、だからこうするしかなかったんだよお……」
「なるほど!!」
 木野宮が勢いよく立ち上がる。バッと振り返ったかと思えば、彼女は一同を見て楽しそうに声を上げた。
「事件のにおいがしますな!!」
「おい、あんまり面倒なことに首を突っ込もうとするな」
「あはは、いいんじゃない? 楽しそうだもん」
「え? え? どういうこと?」
 男は泣き止んだが、それでもぐしゃぐしゃな笑顔で彼女たちを見る。
「いいんだ、子供傷つけてまで生きるくらいなら、捕まって刑務所で生活した方がずっと幸せだ……」
 だが、誰も聞いていない。深海と彰は、すでに気付いていた。木野宮が何を言いたいのか。木野宮が何をしたいのか。
 パトカーのサイレンが近くなる。ついに店の前に到着したらしい。外から警察官がスピーカーを通して何か話しているのが聞こえる。
「おじさん、騙されたんだよね?」
「ああ、そうだが……」
「もうご飯も食べれないくらいお金がないんだよね?」
「あ、ああ……」
「……はあ」
 深海が溜息を吐く。深い深い溜息だった。楽しそうに笑う彰を見て、どうやら腹をくくったらしい。
「その男の名前はわかるか? 連絡先でも何でもいい、わかることは全部言え」
「な、なんで……」
「調べる」
 そしてようやく明乃が状況を掴んだ。木野宮が何を言いたいのか。木野宮が何をしたいのか。
「え、え、この人を助けてあげようって話!?」
 驚きに声を上げるが、彰はにこにこと微笑んでいるし、深海は早速スマートフォンで何かを調べているし、木野宮はなぜかどや顔をしている。
「だって、この人可哀想だし!!」
「それはそうだけどお!」
「悪い人がいるなら、それを捕まえるのが探偵の仕事ですから!!」
「そ、そうかもしれないけどお!」
「おじさんのお金を取り戻せ大作戦!!えいえいおーー!!」
「絶対大人に頼った方がいいよお!」
 攻防を繰り広げている間に、彰が男の目だし帽をすぽんと引き抜く。涙でぐちゃぐちゃになった男の顔が露わになるが、誰も気には留めない。
「まずは呼んじゃった警察かわさないとね」
「せ、せめて宵一さんに連絡を」
「あれ」
 彰は明乃を見ていない。だが、挑発的な声色だった。その目がどんな色をしているのか、安易に想像できる。
「やっぱり一人じゃなんにもできないんだあ」
「そ、そんなこと……」
「まーそうだよね、さっきから東雲宵一の話ばっかりだもん」
「そんなことないもん!!」
 木野宮の前だからだろうか。そんなことない、と自分に言い聞かせたかったのだろうか。明乃は悔しさでいっぱいになりながら、しかし決意に満ち溢れてもいた。
「で、できるよ!私だって……宵一さんがいなくてもできるもん!」
「へえ、じゃあやってみて」
 やはり挑発的で挑戦的。乗せられているとわかっていても、受けるしかない。
 東雲宵一のためでもあり、自分のためでもある。いや、最早悔しいのか悲しいのかもわからない。だけど明乃の目は燃えていた。
「いいよ、でもちゃんとできたら、もうそうやってからかうのやめて」
「わかった、約束する」
 言いながら彰は目を逸らした。店の外から、投降しなさいと繰り返す男の声が聞こえる。
「ってことで、おじさん、私たちあなたを助けることになったから」
「え? あ、え?」
「いいよね!?」
 ずいっと木野宮が顔を近づける。好奇心に満ちた笑顔は、ただただ面白いことを求めている人間の顔だ。
「お、おう、でも、どうやって……」
「任せて!!わたし、木野宮きのみ!名探偵にかかればこのくらい、お茶の子さいさいですぞ!!」
「あ、えっと、明乃です。えっと……えへへ、きのみちゃんの友達で、一応怪盗です!」
「右に同じ」
「深海だ。何でも屋をしている」
「え、ええ……? えっと……佐々木です……」
「佐々木さん!!よろしくね!!」
 彰が扉の前に立つ。警察はいつ入ってきてもおかしくない。だが、中の様子がわからない以上下手に手は出せないだろう。
 打つ手なんていくらでもある。彰もまた、好奇心と面白いことを求める人間の顔をしていた。それは木野宮よりも屈折しているが、しかし同じように単純で純粋な願いのようなものだ。
「じゃ、手始めに彼らをどうにかしよっか」
 

続く!

猫猫事件帖 とある学生たちの放課後編 壱


「大丈夫かなあ……」
 明乃は溜息まじりに呟いた。久しく感じていなかった緊張感。それ読み取った隣に立つ少女は、悪戯に笑いかけて口を開く。
「意外。もっと自信家なのかと思ってた。不安?」
「そんなことないもん」
 少しムッとしながら、明乃は隣で堂々と佇む少女、黒堂彰にそう返す。
 目の前には大きな屋敷。その裏口で、たった二人っきりだ。
「少し短いね、まあ、踏んでこける心配がないからいっか」
 彰が明乃の肩からかけられたマントを手でもてあそぶ。真っ白なマントで、内側の色は鮮明な赤。それは、彰が身に着けているものと全く同じだ。
「別にこけたりしないもん!……多分?」
「こけたら私が支えてあげる」
「こけたりしないってば!……多分」
 変わらずにこにこと笑みを浮かべている彰は、どこか楽しそうだ。
 それは、明乃が想像していた彼女とは少し違う。何を考えているかわからない、目の奥が笑っていない彼女の姿しか今までは思い浮かべられなかった。
 だけど久しぶりに見た彼女は、以前より年相応に見える。それこそ明乃や木野宮と変わらない、悪戯好きの同級生のような印象。
 ……騙されているんだろうか。あるいは流されているんだろうか。ふとそんなことを考えるも、明乃に他人の企みを読む能力は備わっていない。
「ま、ささっとやろうよ。向こうで私たちの探偵さんが待ってるんだし」
「そうだね!よーし、頑張っちゃうぞお!」
 明乃は思い切り息を吸い込んだ。ゆっくり吐き出せば、不思議と緊張もほぐれた気がする。
 東雲宵一が言っていた。こういう時は深呼吸が大事なのだ。何度か深く息を吸い込んで、明乃は真っすぐ前を向いた。
 これはある日の怪盗たちのお話。
 正確に言えば、怪盗と探偵と、それから何でも屋のとある放課後のお話。

 


 猫猫事件帖 

 


 木野宮きのみは上機嫌だった。いや、そもそも上機嫌じゃない日なんてほとんどない。
 だが、友達と遊ぶ約束をしている日はいつもの何倍も上機嫌だ。人といなくてもにこにこしているような彼女だが、この日は周りに音符が飛び交うの幻しが見えるほどの上機嫌だった。
「クレープってなんでこんなにおいしいのかなあ、これは謎の味がしますぞ!」
「確かに、食べるたびにびっくりするよねえ」
「しかしクレープ屋さんでまさかのハムとチーズを頼むとは……さすが明乃氏、大人ですな!」
「えへへ、甘いのとすっごく迷ったんだけど、今日はこっちの気分だったから」
「むむ、それならこの先にもう一件クレープが食べられるところがあったはず!そっちで甘いのも食べようよ!」
「ええ、2個も食べたら晩ごはん食べられなくなっちゃうよう」
 毎度おなじみと言っても過言ではない、明乃は木野宮の顔にクリームがついているのを見つけて、くすくす笑いながら歩いた。
 今日は近くの商店街で食べ歩きをする約束の日だ。特にそれ以外にやることは決まっていない。木野宮が学校を終えるのを待ち、二人は商店街の入り口で合流した。
 学生たちで賑わうクレープ屋に並ぶのはなんとも言えない気恥ずかしさがあったが、今となってはどうでもいい。自分のクレープを頬張りながら、明乃も思わず笑顔を浮かべる。
「そういえば、この前観た映画の続きやるらしいね!」
「なんと!プンプンがまたスクリーンに!?」
「うんうん、また一緒に観に行こうねえ」
 明乃にとって、木野宮は唯一の友人と言っても過言ではない。本来なら学校に通う年齢であるが、様々な事情があって行っていないからだ。
 生活のほとんどは東雲宵一という青年と過ごしており、それ以外の人間と関わる機会なんてほとんどなかった。
 最近は木野宮をはじめとして様々な人間と関わる機会が出てきたものの、こうして誘い合って遊びに行く友人は木野宮ただ一人だけだ。
「あの日は楽しかったねえ!!ポップコーンも美味しかったし、何でも屋さんの襲撃もあったし!!」
「それ、楽しかったですませていいのかなあ……」
 まあいっか、と言いながら明乃は最後の一口を平らげた。明乃の認識では件の何でも屋も、今となっては仲間のようなものだ。
「明乃ちゃん、かっこよかった!」
 屈託のない笑顔で木野宮が言う。思わず照れるような、恥ずかしいような気持ちに襲われる。
 木野宮は、明乃のそういった一面を知っていた。簡単に人をねじ伏せられるだけの腕力と身体能力。東雲に言わせれば人知を超えているレベルだが、明乃はそれが普通の人間にとってかなりの脅威であることを知っていた。
 だが、木野宮はそれをかっこいい、なんて言うのだ。そしてそれがお世辞や気遣いでないことも十二分にわかっている。
「わたしもいつか超人バトルに参加してみたいなあ!食らえ!ファイナルスペシャルヘブンズラストアルティメットセカンドパーーーンチ!!!」
 言いながら木野宮が手を前に突き出した。と、同時にその拳の先に二人の視線が誘導される。
 それは、偶然としか言いようがない。少なくとも、この二人にはそれが必然かもしれないという勘繰りはできない。
 いや、それにしたって本当に、これに関してはただの偶然なのだが―――……
「ん?」
「あーーーーー!!!!」
「あっ!!」
 さらりと伸びた、緑がかった黒髪。普通の人間に比べて整った顔つき。身長の割に存在感のある少女。
 木野宮が突き出した拳の先に、彼女、黒堂彰は立っていた。
「あれ、探偵さんと……ああ、東雲宵一の助手の……明乃ちゃんだっけ?」
 彰は笑った。まるで当たり前かのように笑った。普段ならきっと、明乃はすぐに戦闘態勢に入っていただろう。なんせ彼女は宿敵と言っても過言ではない男の仲間だ。
 それに、木野宮を狙って何度も目の前に姿を現している。それを知っているから、本来なら戦闘モードに入るべきだし、すでに入っているはずだった。
 だが、明乃がそうなれなかったのには理由がある。彼女、黒堂彰のトレードマークと言ってもいいセーラー服と白いマントがなかったのである。
「彰ちゃんだーー!!!」
「久しぶり。まさかこんなとこで会うなんてびっくりだけど」
 普通の女の子のような格好。彼女の私服なのだろう。それを前にして明乃は判断力を失っていた。今、彼女は怪盗ではないと本能で察知したからだ。
 木野宮は彰に駆け寄り、彼女の手をぎゅっと両手で握った。
「き、きのみちゃん!あ、危ないよ!」
「危なくないよ?」
「そうだよ、危なくないよー」
「で、でもでも、その子前にきのみちゃんのこと狙ってたし!」
「友達だから大丈夫!!」
 一瞬、彰が驚いたような顔をする。しかしすぐに笑顔に戻って、彰は明乃を見た。
「そうそう、私たち友達だから大丈夫だよ」
「だ、騙されてるもん!危ないって宵一さんも言ってたもん!」
「この前友達になったの。ねー」
「うん!!!」
「で、でもでもでも!!」
 なんとか木野宮を取り戻そうと明乃は必死に言葉を探す。だが、木野宮は不思議そうに明乃を見るばかりだ。
 正直、信じていいのかわからない。だが、木野宮が友達だとはっきり自分で言っているのだ。いやしかし、木野宮が何か騙されている可能性だってある。
「二人で遊んでたの?」
「うん!明乃ちゃんとクレープ屋さんに行って、今からお買い物しながらまたクレープ屋さんを目指します!!」
「へー、そうなんだ」
「彰ちゃんも来る?」
「あはは、じゃあ一緒に行こうかな」
「きのみちゃあん!!」
 思わず明乃は木野宮を引っぺがす。相変わらず木野宮は不思議そうな顔をして明乃を見ている。
 そんな顔で見ないで、と言いたくなるが、言葉を選べずにぐぬぬぬと口をつぐんだ。
「探偵さんがこう言ってるんだもん、私も一緒にいてもいいよね?」
 挑発的ともとれる声色に、明乃は涙目で彰を睨んだ。いざとなれば、自分が木野宮を守るしかないのだと、決心する。
「わーーい!今日は三人でお買い物だ!!」
 そんな心に気付きもせず、木野宮だけは楽しそうに笑顔で両手を上げるのだった。


「よく二人で遊ぶの?」
「うん!この前は映画観に行ったよ!」
「ふーん、今度私も連れてってほしいなあ」
「ダメ!」
「なんで? 仲間外れにしないでよ」
「う、それは、だって、でも、宵一さんが怒るもん」
「また東雲宵一の話?」
 木野宮を挟んだ状態で、二人の攻防は続く。
 ずっと笑顔のままの彰と、ずっと必死な表情の明乃。そして間には、何も知らずに嬉しそうにしている木野宮がいる。
「東雲宵一が言ったことは絶対なんだ?」
「……宵一さんは間違ったこと言わないもん」
「へー、じゃあ、東雲宵一に何言われても絶対言うこと聞くの?」
「そんなことないけど」
「東雲宵一と意見が合わなかったら、彼の意見を優先するの?」
「そ、そんなことないけど!!」
 楽しそうにイジワルを言い続ける彰に、なんとか反論しようとするも虚しく終わる。その繰り返しだが、どうも彰は楽しそうだ。
「あ、ねえ。あそこ寄っていもいい?」
 涙目になっている明乃に目もくれず、彰は商店街の一角にある店を指さす。古そうに見えるが、外から中を覗ける窓には人形や服や食器や……とにかくいろんなものが並んでいた。
「たまに来るアンティークショップなんだけど、可愛いものもいっぱい置いてるから気に入ると思うよ」
「アンティークショップ!素敵な響きですな!!」
「でもたまにぼったくり商品とかもあるから気を付けてね。店主もカモ見つけたらしょうもない物高く売りつけようとする馬鹿だから」
「カモ?」
 何のためらいもなく木野宮が彰に着いて行く。急いで後を追いながら、明乃は店自体を警戒して落ち着きのない様子だった。
 だが、それもすぐになくなってしまう。入口に置いてあったイルカのぬいぐるみに目が留まり、心が奪われてしまったのだ。
「わーー!それ可愛いねえ!」
「ね、ね、可愛いねえ!わあ、本当に可愛いなあ、いいなあ、今度宵一さんにお願いしてみよっかな……」
 言いながらどんどん声が小さくなっていく。先ほど彰に言われたことを気にしてしまっているのだと自分でもわかった。
「でも、古そうな割に高くない?」
 横から彰がずいっと顔を近づけてくる。驚いて離れようとするも、隣にいる木野宮のせいでその場から動けない。
「べ、別にこんなもんじゃないかなあ」
「そんなことないよ。ぼったくりもあるって言ったでしょ」
「そ、そうかな、でも、もしかしたらすごくいい物なのかもしれないし……」
「店主に言ってあげよっか、安くしてもらえるかも」
 何を考えているのかわからない。だが、安くなるのなら今自分で買えるかもしれない。
 明乃の心は揺れ動いていた。木野宮が友達と言うくらいなのだ。彼女にも事情があるのかもしれないし、本当はいい人なのかもしれない。
「ね、聞くだけタダなんだし、聞きに行こうよ」
「…う、うん」
 彰の白い手が、明乃の手をとる。反射的に振り払うようなことはしなかった。何故かその瞬間、彼女が木野宮と友達だと言うのが、本当のことのように思えたのだ。
 ……ダメダメダメダメ!
 頭をぶんぶんと左右に振って、明乃は彰を見る。東雲にも散々注意されてきた。それに、彼女が自分たちに害をなそうとしていたことは事実なのだ。
 これだって何かの罠かもしれない。そう思って手を振りほどこうとした瞬間……
「あれ?」
 彰が止まった。その視線の先には、二人の男が立っている。
 一人はどうやら店主のようで、カウンターの向こう側から何かを熱心に話している。もう一人の青年は客のようで、真剣に店主の話を聞いているようだった。
「どうしたの?」
 後ろからぴょこりの木野宮の頭が出てくる。三人はカウンターの方を見るが、よく見れば店主の手には古いボールペンが握られていた。
「実はこのボールペンもいろいろあってなあ、本当なら店に出していいやつじゃないんだよ」
「……」
「どうもこのボールペン、持ってるとテストの答えがスラスラわかるとか、急に大金を拾っただとか、とにかくいいことが舞い込んでくるって言われてんだが」
「……」
「前の持ち主が死んじまってなア、それを譲りうけたんだが、ほら、おじちゃんももう歳だろう? だから誰かに貰ってもらった方がいいと思って出したのよ」
「…………」
「兄ちゃん見たとこ学生だろ? ま、兄ちゃんのような若者になら、俺も喜んで買ってほしいと思えるってもんよ。本当にすごいんだぜこいつは、なんせあの聖徳太子が使ってたって言われてんだから」
「…………」
「ま、でもタダってわけにはいかねえ。そんな代物だから本当ならもっとするんだが……まあこれもめぐり合わせだ、3万円でいいぞ!」
「わかった、買わせてもらう」
「ねえ、ちょっと」
 一連の話を聞いて、彰はようやく明乃の手を放す。冷たい声で言いながら、青年の隣に立った。
「嘘ばっか言ってまたぼったくりしてるの? 大体、聖徳太子がいた時代にボールペンなんてあるわけないじゃん」
「あーー!馬鹿!いいとこだったのに邪魔すんじゃねえや!」
「引っかかる方もどうかと思うけど」
 じろり、と彰が青年を見る。背の低い少女に見上げられる形で睨まれている青年―――深海京佑はしばし瞬きをしてからゆっくり口を開いた。
「それもそうだな」
「普通に考えたらわかるでしょ。何探しての?」
「ボールペンがなくなったから新しいのを探しに来ただけだ」
「それで3万のボールペンなんて買わないでしょ、馬鹿なの?」
 後ろからそーっと木野宮と明乃が顔を出す。どうやら二人も深海に気がついたらしい。
「あーー!!何でも屋さんだ!!」
「深海さん!」
 呼ばれて深海が振り返る。
「なんだ、遊んでたのか」
「たまたま会ってね」
「へえ」
 嬉しそうな彰を見ながら、深海は珍しいこともあるもんだ、と考えたが口に出さなかった。わざわざ上機嫌な彼女に水を差すこともないだろう。
「深海さんもお買い物ですか?」
「ああ、新しいボールペン買いに」
「買うの!?幸せを運ぶボールペン!!」
「いや、あれは偽物らしいから買わない」
「普通のでいいでしょ、普通ので」
「文房具屋さんならあっちにあるよ!!案内してあげる!!」
 意気揚々と木野宮が店の外を指さして、早速店から出て行った。どうやら深海も一緒に連れて行く気らしい。
 その場に残された一同は顔を合わせる。だが、誰も何も言わなかった。

 これはそんな、ある日の放課後の物語。
 正確に言えば、怪盗と探偵と、それから何でも屋が出会った、騒がしい一日の物語。

 

  猫猫事件帖 とある学生たちの放課後編