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猫猫事件帖 最終章 そして怪盗はいなくなる 四

 


「…………」

「どうした? 京佑」

 手に持ったトランプと睨めっこしながら、浅野大洋は隣に座る深海京佑が物思いに耽っていることに気付いた。真剣にババ抜きをしているというよりは、心ここに在らずと言った雰囲気だ。

 宮山紅葉が浅野の手札から一枚トランプを引き抜く。見事にジョーカーを手にした宮山は、あからさまにショックそうな顔をして、それから何事もなかったかのように東雲宵一の方を向いた。

「……いや、遅いな、壱川さん」

「ん? そういやそうだな、っつっても仕事も忙しいだろうしなあ」

「ほっとけ、あんな奴。その内来るだろ」

 東雲は半ば呆れながら、宮山の手札から一枚引く。揃ったハートのキングをテーブルの上に捨てれば、東雲の手元からトランプはなくなった。

「おし、俺の勝ち」

「えーー!? またあ!? なあやっぱ大富豪とかにしようぜ!!」

「お前らが弱すぎんだろ。忘れんなよ? 負けた奴がコンビニに買い出しだからな」

 ニヤリと笑いながら東雲はソファの背もたれに体を預けた。交代で寝て、誰か一人ずつが起きているようにしようと提案したのは東雲だったが、存外ここには夜行性の人間が多い。結局誰も眠ることなく、深夜になってもまだトランプだなんだと全員で遊んでいる。

 そしてここに、壱川遵も混じる予定だ。仕事で遅れると連絡は来ているものの、時刻は午前一時を回っていた。

「刑事ってやっぱ大変なんかなあ」

「そうなんじゃないですか? 特に今はほら、通り魔事件もありますし」

 言いながら、宮山の手は震えている。もう深海と浅野の手札も残り少ない。だが、ジョーカーはまだ宮山の手元にあった。

「……まあ、あのヒゲ野郎なら大丈夫だろ。まあまあ強いぞ、うちの明乃ほどじゃねえが」

「そういえば壱川さんって元怪盗なんでしたっけ」

「え!? そうなの!?」

「…………」

 深海は黙ってカードを差し出した。浅野は大して考えもせずに一枚カードを引き抜く。

「おし、オレもあーがり!……で、壱川さんが怪盗だったってマジの話?」

「大マジだよ。今となっちゃそんな面影もねーけどな」

 不機嫌そうに東雲が言う。ここにいる中で、彼が怪盗であった時期を知っているのは東雲だけだ。それもまた、今からすれば最早懐かしい話だが。

「んじゃあきっと大丈夫だな。あの人デキる男って感じだし」

「そうですね、そんなに心配する必要もないかと思います」

 宮山が真剣にカードを見る。ここは逆にジョーカーを少しズラして取りやすい位置に置くことで、深海の裏をかこうと画策する。……が。

「俺はもう寝る」

 深海はアッサリとジョーカーではない方のカードを引いた。宮山の手元にはジョーカーだけが残り、東雲と浅野がやんややんやとヤジを飛ばす。

「明日大学だったか?」

「ああ、夕方には帰ってくる」

「そっか!んじゃ行こうぜ宮山さん、コンビニ」

「え? でも……」

「こんな時に一人で外なんて行かせるわけねーだろ!な、行こうぜ。東雲センパイは何飲みてえんだっけ!」

「コーラ、あとチータラ」

 深海が最初に席を立つ。東雲はじっとそれを見ていたが、何も言わずに彼を見送った。

 次いで浅野と宮山も、コンビニに行くために外に出る準備をする。

「気を付けろよ」

「大丈夫大丈夫!な、宮山さん!!」

「まあ……多分……」

 言って二人も部屋から出て行った。取り残された東雲は急激に静かになった部屋で、体の力を抜く。

 あまり難しいことは考えないようにと思っていた。木野宮きのみに何があろうと、自分には関係ない。ただ、知り合いのよしみと、彼女に何かあっては明乃が悲しむだろうと、ただそれだけだ。

「…………」

 ただ、それだけなのだが。

 

 

 

 


 猫猫事件帖 そして怪盗はいなくなる

 

 

 

 


「お前のことは覚えているぞ」

「それは光栄だな」

 壱川遵は、木野宮を背中側に回して男を見た。正直半信半疑ではあったのだ。なんせ、件の怪盗、陽炎は壱川の目の前で捕らえられている。

 それはかつて壱川が激しく憧れと好奇心を向けた男とは思えなかった。だが、脳裏に焼き付いている彼の姿そのままでもある。

 頭のてっぺんから、爪先まで真っ黒に染まった衣装。肌を見せないために巻いた包帯と、不気味にこちらを見据えてくる目。

 なんとか出し抜いてやろうと思って、まるで手が届かなかったあの怪盗が、また目の前にいる。

「あの時、邪魔をしようとしてきた小僧だな?」

「本当に覚えてるのか、すごいな」

「忘れるわけがない。あの日のことはーーー……」

 そりゃあそうだろう、と壱川は笑う。壱川が陽炎を出し抜いてやろうと考えたあの日、確かに壱川は目の前の男に簡単にあしらわれ、邪魔をするどころか手を伸ばすことすら許されなかった。

 だが、その日はそれだけじゃない。今となっては伝説の名探偵、木野宮きのりが、この男を捕まえた日でもある。

 当時まだ名を馳せていなかった彼は名前や写真こそ載らなかったものの、陽炎捕縛のニュースはかなり世間を賑わせた。盗品の数も、得体の知れなさも、当時で言えば彼がズバ抜けていたからだ。真似をする人間も、支持する人間もいた。逆に躍起になって捕まえようとする輩もいたし、警察もかなり手を焼いていたらしい。

「お前のことは調べた……今は刑事になっているらしいな」

「そんなことまで知ってくれているのか? 勝手に調べられるのは嫌な気分だ」

「怪盗には飽きたのか? それとも怖気付いたか?」

 煽るような言葉に壱川は何も返さない。陽炎の目が憎悪と怒りに染まっていくのを、ただ冷たく見ている。

「お前が何になろうと、俺には関係のないことだ。だが……」

 ゆらりと影が揺れる。それは怪盗というより、何か得体の知れない不気味な生き物のように見える。

「そのガキは知っているのか? お前とあの男が、手を組んで同志達を捕まえていたことを」

 壱川の顔が曇った。木野宮はこっそり壱川の背中から陽炎を覗いている。

 そんなことまで知っているのか、と。口から出そうになるが一度耐える。木野宮の前で話すべきことではないと、強く思ったからだ。

 いや、だが既に彼女は知っている。木野宮きのりが探偵として名を馳せる裏側で、怪盗と手を組んでいたことを。そしてその相手が、壱川であることを。

 少なくとも、怪盗の暗黙のルールに則るならそれはタブーも甚だしいことだった。勿論、世間にバレても相当なバッシングを受けるだろう。壱川がしていたことといえば、怪盗という立場からのアドバイスと、怪盗を実際に追い詰める役割や、捕縛することだ。どれをとったとしても、あの名探偵が怪盗と手を結んでいたと知られるだけで相当な反応があるはずだ。

 娘であるきのみも、それを知ったのなら相当なショックを受けたことだろう。

「お前は何がしたい? 目立ちたいわけでもなく、怪盗を捨て、刑事になり、それでお前に今何が残っている?」

 掠れた声が壱川を責める。壱川は誰にも答えられない。

「我々からすればお前はただの裏切り者だ」

「俺は今も、身も心も怪盗のつもりだよ」

「なら何故怪盗であることを捨てた?」

 答えられるわけがない。自分の中にある数多の言い訳と答えが混じって、すべて溶けて消えていく。そこに対する正しい答えを、壱川は未だ出せていない。

 誰かが傷付くのが嫌だった。少なくとも、目の前で人が死ぬようなことは。だが世間はそんな壱川の考えと反してより過激に、より熱心になっていく。それが怖かった。いつか必ず報いを受ける日が来ると思った。自分の行動のせいで誰かが傷付き、誰かが悲しむことなど容易に想像できた。

「お前のような男が存在していること自体が、不都合だ、認められない」

 陽炎は熱を帯びた声色で言った。全身にその拒絶を浴びて、壱川は苦い顔をする。影は踵を翻し、闇夜に消えようと揺めき始める。

「必ず木野宮きのりを引き摺り出す。そのために、またお前を狙いに来る」

 宣戦布告を受けて、木野宮は壱川のコートを強く握りしめた。同時に陽炎は大きく揺めき、忽然と姿を消す。

 静かになった夜道で二人は、まだ男が立っていたその場所を見つめていた。

「…………家に東雲君達がいるんじゃなかったか?」

 先に口を開いたのは壱川だ。木野宮は彼を見上げて、こくこくと頷いた。

「窓から出てきちゃった!」

「危ないだろ? 狙われてるのは君なんだから」

「…………うん」

 木野宮は大人しく頷く。困ったように壱川はため息を吐いたが、同時に安堵もあった。

「……帰ろうか。大丈夫、君がこっそり抜け出したことは内緒にするよ。でももう二度としないこと、いいな?」

「うん!」

 そうして二人は帰路に着いた。道中、木野宮が晩御飯をみんなで食べた話やお菓子を作った話を楽しそうに壱川に語った。

 お互い、本当に話すべきことは何も話さなかった。きっと、聞きたいことも、話さなければいけないこともあった。だが今は、二人ともがそれを避けるように、何もなかったかのように日常に帰っていく。

 

 

 

* * *

 

 

 

「おー!おかえり壱川さん!!」

「よお、遅かったな」

「お疲れ様です、おかえりなさい壱川さん」

 なんだか妙な気分だった。木野宮が梯子を登って窓から自室に入ったのを見届けてから、壱川は正面の玄関から木野宮邸に入った。

 リビングでトランプに励む東雲、宮山、浅野はテーブルに広げたお菓子やらジュースやらを手にしながら楽しそうにしている。

「…………」

「どうしました?」

「ああ、いや……」

 おかえり、なんて言葉を聞くのはいつぶりだろうか。なんだかくすぐったいような、変に照れ臭いに気持ちになって、壱川は誤魔化すように咳払いをした。

「ただいま、遅くなってすまない」

「いやいや、マジで仕事ご苦労さん」

「やっぱり忙しいですか?」

「まあね、色々立て込んではいるかな」

 浅野がバシバシとソファの空いた席を叩くので、コートも脱がずに座る。一度体から力を抜けば、ドッと疲労感が襲ってきた。

「あ、壱川さん飯食う? 簡単なんでよかったら作れるぜ」

「いや……今日は大丈夫」

「あ? いいからなんか食っとけよ。そんで疲れてんなら今日は寝ろ」

「いやいや、みんな起きてるのに俺だけ寝るってのも気が引けるし」

「うるせえな、俺たちは暇してるからいいんだよ。お前明日も仕事あんだろ」

 東雲が自分の手札を並び替えながら、壱川にそう言った。どうやらみんなで大富豪をしているるしい。

「そういや、水守さんには声かけなかったのか?」

「いや、一応かけてみたけど仕事が立て込んでるみたいで……まあ、気をつけるようには言っておいたよ」

「おーそっか、水守さんとも大富豪でバトルしたかったぜ」

 手渡されたコーヒー牛乳を開けながら、壱川は天井を見上げた。口に入れると、久しぶりに感じる甘さに気持ちが落ち着く。こんなに甘いものを口に入れたのは本当に久しぶりだった。

「そんで、なんかわかったのかよ」

 相変わらず目線の先はトランプだが、東雲は淡々とした口調で聞いた。壱川は何から話し始めようか迷ったが、今はそれを精査できるほど脳が回転していない。

「東雲君のいう通り、陽炎で間違いなかったよ」

「本当ですか?」

 食い付いてきたのは宮山だ。なんだか彼だけどこか嬉しそうにも見える。

「なんでそれがわかんだよ、本当に本人か? あんだけ騒がれてたんだ、模倣犯って可能性も十分あるだろ」

「……あー、それは……」

 隣に座る浅野の手札を見る。真剣に何を出すか考えているようで、壱川は思わずその中から一枚のカードをちょいちょい、と指先で突いた。

「さっき本人に会った」

「はあ!!?」

 東雲の大きな声に、一同が驚いて彼の方を見る。勿論浅野や宮山も驚いてはいたが。

「いや、まあいい。とりあえず突っ込まねえ、俺も会ったからな。でもなんで会って本人だって確証があんだよ、あんな格好じゃ写真と比べても本物かどうかなんて……」

「いや、前に会ったことがあって」

「ハア!!!!???」

「ぜひ詳しく聞いてもいいですか?」

「おいバカオタクは引っ込んでろ!!」

 ヘラリと笑う壱川に、東雲は一瞬次の言葉を失った。それが彼の過去に繋がることなのであれば、この場で言わせるべきか迷ったのだ。

 なんせそれは、木野宮きのりに関することに違いない。東雲の隣にいる男、宮山紅葉はその木野宮きのりから仕事を受けているようなものだ。どこまで突っ込んで話していいのかわからない。

「まあ、会ったことあるって言っても本当にちょっとだけね」

「ていうか、怪我とかしてないですか?」

「ん、ああ、大丈夫。案外すんなり引いてくれたから」

 どうして、とは言わなかった。彼の目的が木野宮きのみであり、応戦が来たから引いたであろうことを話せば、木野宮と内緒にすると約束したことを破ることになる。

「いやあ、散々な言われようだったよ」

「それって、壱川さんが怪盗やってたって話か? ……ってのをさっき東雲センパイから聞いたんだけどさ」

「ああ、そうだね。まあ俺も若かったからなあ」

 それだけじゃないだろ、と東雲は思わず突っ込みたくなった。が、詳しいことを浅野に話したところでなんの意味もないだろう。東雲は減っていくカードを見ながら次の手を考える。

「……やっぱり俺って、君らから見てもおかしいか?」

「? 刑事をしてることがですか?」

「うん、まあ……そうだね」

 東雲は知っていた。壱川がなぜその道を選んだのか。それを東雲の口から語る必要もないと思いつつも、彼が何に悩んでいるのかもなんとなく察しがついた。

「立派だと思います。少なくとも、それで助かってる人がいる。壱川さんが選んだ道なら、それでいいと思いますけど」

「オレもそう思うぜ、刑事なんてすげえよ、マジで。ちゃんと目標があってそうなったんだろ?」

「はは、ありがとう。……でもまあ」

 褒められたことではないのだ。少しでも罪が償えればと思った。少しでも傷を負う人間が減ればいいと、そう思った。だけど裏切り者だと言われてしまえばそれで終わりだ。そこに壱川はなんの反論もできない。

 怪盗という立場で、怪盗を捕まえることに貢献した。今度は刑事という立場からそれを守ろうとしている。だけど彼らは何度も壱川を裏切り者と言った。壱川がどれだけ自分は怪盗で、同志の味方だと今更言ってももう遅い。

 それは東雲が一番わかっていることだろう。視線を向けると、目が合った。相変わらず、東雲は興味なさそうな顔をしている。

「お前が結局何したいのかによるだろ、んなもん」

 カードをテーブルに置きながら、東雲が言う。

「お前が自分をまだ怪盗だって言うのはなんでだ? お前が未だになりたいのが怪盗だってんなら、おかしい話だとは思うが」

「…………」

「やめたいならやめりゃいい。アンタなら今から怪盗に戻っても十分やっていけんだろ」

「そうかな」

「未練があんだろ」

 その一言は、壱川に深く突き刺さった。怪盗になりたいかと聞かれて、イエスもノーもどちらもしっくりと来ない。今更またあの衣装に袖を通して、無茶をしたいと思うわけではないからだ。

 だがたしかにノーとも言えない。あの時感じていた好奇心と興奮を、未だに忘れられていないのも事実だ。

 だが、やりたいことを聞かれると困る。やりたいことなんて明確だ。人が傷付かないように、ただそれだけだ。その選択肢として刑事になる道を選んだが、壱川にはそれが正しかったのかわからない。

「…………そうかもなあ」

 壱川は頬杖をついた。自分のことがこんなにもわからない。ただ、思い描いた理想に少しでも追いつけたらと思ってここまで走ってきたのにだ。

 考えることをやめてしまったのか、もしくは考えたくないと自分で蓋をしているのか。

 考えながらゆっくりと瞬きをする。視界の端に写った時計は、既に午前二時を指し示していた。