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猫猫事件帖 最終章 そして怪盗はいなくなる 六

 久しぶりにいい夢を見た。
 夢の中で自分は、懐かしい衣装に袖を通して笑っていた。それはまるで子供が悪戯に成功した時のような気持ちで、純粋にただ楽しい、という気持ちだけが壱川遵を突き動かしていた。
 目的なんてなんでもよかったのかもしれない。怪盗になって最初の頃は、それはもう刺激的で毎日が輝いていた。順風満帆でなんの不満もない人生だったが、退屈じゃないと言えば嘘にはなった。だけどリスクを背負って冒険ができるほど子供にもなれず、ただひたすらに日常の中で自分は満足だと言い聞かせて生きていたような気がする。
 だが、なんでもやれば慣れは生まれてくるものだ。
 案外自分にはリスクを冒す才能があった。怪盗になってから、捕まるかもしれないというスリルは少しずつ薄れていった。自分なりに色々考えて試行錯誤するのは楽しかったものの、この世界に自分が求めていたものは少しずつ削れていって形を変えた。一年もしないうちに、壱川は自分でも呆れるほどに慣れていた。追ってくる警察のライトにも、監視カメラを避けることにも、面白いトリックを閃くことにも。
 あの男、木野宮きのりと出会うまでは。
「木野宮さん」
 夢の中で壱川は笑っている。男、木野宮きのりもまた、柔らかい笑みで彼を迎え入れた。
 お互い、子供のようだったと思う。考えたことが上手くいくと、スリルなんて目じゃないほどに嬉しかった。様々な視線をかいくぐった二人だけの秘密と、それに翻弄される世の中が可笑しくてたまらなかった。壱川が欲したのはそれだけだ。富も名声も必要なかった。身を削るスリルも、他人に追われることも、目立つことも必要なかった。
 ただ、楽しいことがずっと続けばいいと思っていたような気がする。いつか大人になって辞める日が来たとしても、あんな楽しいこともあったものだと酒の肴にして笑っていたいと思った。そうしてその話をするとき、必ずこの男が隣にいて、あの頃は若かったなんてことを言うのだ。
「上手くいきましたね、今回も」
「ああ、君のおかげだよ」
「何言ってるんです、全部貴方が考えたんでしょう」
 派手な演出と演技の中に、それでも本当のこともあった。木野宮は頭がよくキレる男であったし、壱川も器用な男だった。この二人でなければ、きっとここまで楽しいとは思えなかったはずだ。
「そういえばニュース観ました?」
「……ああ、また取材が来たよ。最近は娘といる時間も減ってしまって、嬉しいような困ったような、少し複雑だ」
「はは、そりゃあいい。娘さんも誇らしいでしょう」
「どうかな。私が怪盗と組んでいると知ったら、どう思うか―――」
「そんなのは」
 真っ黒なマントが揺れる。随分気に入った衣装だった。
「バレなきゃいい話でしょう。まさか、今更バレるのが怖いんで?」
「……君とやってる限り、その心配もなさそうだ」
 木野宮きのりは笑った。それもまた子供のようだと思った。怪盗だ探偵だの賑わっていく世間に壱川の胸は躍る。自分たちがこの社会現象を巻き起こしたのだと思うと、人生はなんと面白いのかと人に訴えたくもなる。
 いつまでも覚めない夢であってほしかった。楽しい部分だけを切り取って、ずっとそこだけを眺めていたかった。
 だけど壱川は夢から覚める。その後、世間の賑わいは異常な程の熱を帯び、死傷者が出る事件も少なくはなくなった。途端に思い知らされるのだ、自分が一体何をしてしまったのかを。まさかこんなことになるとは思わなかった、なんて言い訳をする相手はもうどこにもいない。
「…………」
 何度も鳴り響くスマートフォンの通知に目を覚ます。何か楽しい夢を見ていたような気がしたが、あえてそれを思い出そうとはしなかった。
 壱川は気怠そうに起き上がりながら、スマホの電源を付ける。
「……はい、もしもし。うん、ちょっと寝てて……」
 向こうから聞こえる声は、平静ではなかった。焦りと怒りが伝わってくる声に、壱川の顔色も変わる。
「……何?」
 急いでテレビを点ける。そこにはちょうど、街の様子を映し出したニュースが流れていた。
 アスファルトを埋め尽くす白い紙の山。そのうちの一枚をキャスターが手に取りカメラに見せる。
 ―――それは、あからさまな挑戦状だった。無数のカードにはすべて木野宮きのりの名前が書かれている。誰の仕業かなんてすぐわかった。そして、どこに行けば彼に会えるのかも。
 呆然とした頭の片隅で考える。彼、木野宮きのりは来るだろうか。あの場所に行けば、また彼に会えるのだろうか。
 楽しかった日々がフラッシュバックする。だが本能的にわかっていた。彼は来ない。きっと、泣こうが喚こうが、あの場所にはもう誰もいないのだ。
 頭が回らない。何をすべきか、何がしたいのか。何をすれば許されて、何をしなければ幸せでいられるのか。
 考えようと藻掻いても答えは出ない。だが壱川は知っていた。今この場において、選択肢なんてないに等しいのだと。

 

 


 猫猫事件帖 そして怪盗はいなくなる

 

 

 

 
 目が覚めてもすぐには声を発しなかった。辺りを見渡せば、薄汚れた床や壁が目につくばかりで、他には何もない。
 木野宮きのみは捕らえられていた。背中側で手を縛られているのだろう、木野宮の力ではびくともしない。早々に諦めて、木野宮はもう一度自分がいる場所を見渡す。
 もう随分と使われていない部屋のようだった。埃っぽいし、物はほとんど置かれていない。あるとすれば木野宮が今まさに座っている辺りが大きな台座のようになっているくらいで、他には何もないに等しい。扉も窓ガラスもなく、ぽっかり穴が開いているような状態だ。
 外から吹き込む風に髪を揺らされながら、木野宮はゆっくり立ち上がった。連れ去られることはわかっていた。あの時、ビルの屋上から何かが光って見えたときから。それは勘には違いなかったが、木野宮はわかっていてここに来たのだ。
「……起きたか?」
「うん、起きたよ!」
 部屋に入ってきた男が、呆れたように肩を竦める。それは先日会った陽炎に違いなかった。木野宮は相変わらず怯えるわけでもなく、彼を見据えていた。
「外に紙をばら撒いておいた。あれは予告状だ、木野宮きのりへのな」
「お父さんは来ないってば」
「そうか? だとしたら来るまでお前を監禁するだけだ。その間に死んでも文句は言うなよ」
「平気だもん」
 じっと、怪盗の目を見る。視線に耐えられず陽炎は目を逸らした。ここまでくると、彼女には何かすごい能力でも備わっているのではないかと思わされる。女子高生といえど、木野宮きのりの娘には違いない。
「わたしが勝負を受けるってば」
「捕まってる身分で何を言う。勝負も何も、お前は今何もできんだろう」
「こういう勝負がしたいんじゃないでしょ?」
 言って、木野宮は踏ん張った。なんとか縄を解けないかと顔を真っ赤にして引きちぎろうとするが、できるわけがない。
「わたしは逃げないし、嘘もつかない。受けるって言ったら絶対受ける!」
「…………」
 転んだり、引っ張ったり、床にこすりつけてみたり。木野宮がその場で暴れまわりながらなんとかしようと精一杯藻掻く。男はそれをじいっと見ていた。
「わたしの方がすっごい探偵になるんだもん!」
 その言葉を聞いて、陽炎は木野宮の目の前に立った。そのまましゃがめば、また目が合う。木野宮きのりとは似つかない子供だと思った。彼はもっと冷静で、だけどどこか熱いものを秘めたような瞳をした男だった。対して、目の前の子供はその片鱗すらない。陽炎からすれば、ただ駄々をこねている子供に過ぎなかった。
 だが引っかかる。彼女の言葉はまるで、真実を知っている人間のそれだった。
「お前も知っていたんだな」
「…………」
「お前の父が、怪盗と手を組んで有名になったのだと、知っていたんだな?」
 木野宮は暴れるのをやめる。すんなり座り直して、小さく頷いた。
 思えば壱川が現れたときも、大して驚いている様子ではなかった。彼女は元から知っていたのだろう。自分の父親が、何をしていたのかを。
「わたし、お父さんに憧れたんだ。有名になる前からずっと、お父さんはかっこよくて、ずっとずっと大好きだった」
 大して贅沢な暮らしではなかった。だけど、木野宮自身は毎日幸せだった。父と食べるごはんも、その時に語られる仕事の話も。彼が愛読していた探偵の本も、事務所に向かうその背中も。
 木野宮きのみは父親を愛し、目指していた。心の底から、いつか自分も探偵になりたいとそう思っていたのだ。それで誰かを助けている父がとてつもなく好きだった。彼が利益よりも先に、人を大事にするのだと知っていたから。
 だけど、父はあまり家に帰らなくなった。その理由を知ったのは少し後だ。テレビを点けるとそこに父がいた。家に届いた新聞を見れば名探偵だと書かれていた。木野宮は誇らしかった。父がようやく世間に認められたのだ。木野宮にとって、父が名探偵であることなんてとっくのとうに当たり前のことだった。
 自分もいつか、彼の隣に並んで仕事がしたい。彼の背中を任せられるような探偵になりたい。そして父に、たくさん褒めてもらうのだと。
 ずっと、ずっと思っていた。ずっと描き続けていた。寝る前には毎日妄想した。親子探偵なんて言われて、テレビに出て、人をたくさん助けて、それから―――……
「そろそろ、潮時だと思うんだ」
 それは父の悲しそうな声だった。どうしてその日に限って、夜中に目が覚めたのかと自分で自分に怒りたくなった。
 ただの偶然だ。たまたま早い時間に寝て、たまたま途中で起きただけ。なんとなくお腹が空いて、でも眠たくて、それでも木野宮は何か食べることを選択した。リビングに行くと、まだ明かりがついている。きっと父がまだ起きているのだろうと思い、何か作ってほしいと甘えるつもりで木野宮はリビングに身を出した。
「……そうですね、俺もそう思います」
 知らない男の声。慌てて木野宮は身を隠す。こんな時間に人が来るところなんて見たことがないが、もしかしたらお客さんかもしれない。木野宮は息をひそめて、自室に帰ろうと足を伸ばす。
「君はこれからずっと、何も言わなくていい。例え今後何を聞かれても、何を言われても」
「……俺は、刑事になろうと思います。せめて、自分のしたことを少しでも償いたい」
「君らしいな。だが、いいのか? 普通に生きて、そのまま忘れてしまうこともできる」
「いえ、もう決めたことです」
 男もまた、悲しそうな声ではあった。二人が何の話をしているのかも、相手が誰なのかも木野宮にはわからない。だけど、どうしても好奇心がうずいてしまった。
 だから木野宮はその場にとどまった。もしかしたら、すごい事件の話が聞けるかもしれないと、ただの好奇心だけで。
「だが、気を付けてくれ。探偵と怪盗が組んでいたなんて知られたら、何を言われるかわからない」
「ええ、わかってます。だけど俺は貴方といたことは後悔してない」
「……後悔した方がいい。私たちがやったことは八百長のようなものだ。君と手を組んでいなければ、きっと私はこんなに有名になれなかった」
「そんなことは―――」
 木野宮の頭は真っ白になっていた。信じがたい内容を何度も何度も反芻して、それからその場に座り込んだ。
 探偵と怪盗が組んでいた?それは父と、あの男が?八百長とはなんだ?嘘を吐いていたのか?怪盗と組んだから有名になれた?どうして――――
 尽きない疑問に涙が零れた。そこにあるのは父が世間に嘘を吐いていたという事実だけだ。それから連日はテレビを観ることを辞めた。ニュースに映る父の姿が、どうにも嘘吐きに見えて仕方がない。ごはんを食べる時も、朝仕事に向かう時も。何もかも信じられなくなってしまった。
 だが、それでも。
 木野宮きのみは、父を嫌いになれなかった。なれるわけがなかった。テレビに映る前の父が、嘘であるはずなどなかった。テレビに出なくても、父は自分にとっての名探偵であったし、いつか自分もそうなりたいと強く思っていたことは本当なのだ。
 探偵に憧れていた。嘘をついていたとしても、父の姿はやはりかっこよかった。木野宮は父に怖くて何一つ聞けなかったが、憧れだけはずっと捨てずに胸に持っていた。
 探偵になりたい、と。最後に父と会話した時にハッキリと言った。証明したいと思った。父は嘘吐きではなく、本当にすごい探偵だったのだと。父を超える探偵になりたいと今まで以上に強く思った。それはきっと、父がすごい探偵だったという証明になるはずだと。彼が何を思い、何をしたかったのか。同じ立場で同じ景色を見て、その時にきちんと答えを出したいと。
「お父さんが嘘つきだったとしても」
 木野宮は立ち上がる。こんなところで止まっていられない。こんなことで、父を引きずり出そうなんておかしな話だ。彼は言った。木野宮きのみに、きっとお前なら、名探偵になれると。
「わたしの目標は変わらない。わたしはすごい探偵になる、それできっと―――」
 甘えているだけじゃだめだ。憧れているだけじゃだめだ。きっとそれだけでは、隣にすら並べない。
 見ているだけじゃだめだ。頼るだけじゃだめだ。こんな得体のしれない男を、父と対峙させることは許されない。何故ならそれは、それを成し遂げたいのは他の誰でもなく―――
「きっと、お父さんを超えるのはわたしだから!」
 陽炎が何か言うより速く、腹に向かって思い切り体当たりをする。身構えていなかったからか簡単に彼の身体は吹き飛んだが、木野宮も同じように床に倒れた。急いで体を起こして、逃げようとする。もともと扉はついていないから、あとは走るだけだ。木野宮は真っすぐに扉を見た。
 足がもつれる。だが必死に動かす。先の作戦があるわけではない。とにかくこの男を自分に引き付けて、走れるところまで走るのが目的だ。
 だが、扉を潜るより男が立ち上がる方が速かった。怒りに震えている男は、呻きながら大きく振りかぶって何かを投げつける。
 咄嗟に振り向いた。視界がナイフを捉える。勿論避けることなどできない。木野宮きのみは、常人を超えた身体能力も、便利なメカを作る知識も、逃げるための魔法のようなトリックも、何一つ持っていないただの少女だから。
 ナイフが突き刺さる。音もなく、まるで吸われるように。
 青い紙吹雪が舞う。花びらのようにも見えるそれが、部屋一面に舞い上がってゆっくりと散っていく。
 真っ黒に染め上げられたマントが翻る。深く被ったシルクハットの奥から、静かに目が開くのが見える。
 陽炎は知っていた。その姿を見たことがあった。何の脅威にも感じなかった、しかし忌々しいあの時の記憶に付随して襲い掛かるその正体を。
「言ったろ? 俺は身も心も怪盗だって」
 木野宮きのみの前に立つ、その男。過去、木野宮きのりの隣に立った、その男は。
「さあ、あの日果たせなかった挑戦を、もう一度受けてくれるか?」
「壱川遵……!」
 飄々とした表情で、受け止めたナイフを手の中で回して彼は笑った。