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猫猫事件帖 最終章 そして怪盗はいなくなる 伍

 常盤社は静かに病室の扉を開けた。
 そこに眠る少女に、また新しい花を届けに来たのだ。彼女が目覚めたとき、飾られた花を見てきっと不機嫌そうな顔をすることだろう。想像すればなんとなく笑えてきて、常盤は口元を隠すように手を添えた。
「失礼します」
 言っても、返事は返ってこないだろう。今までもそうだった。この病院に通って数日が経つが、挨拶しようと世間話をしようと、憎まれ口は飛んでこない。
 もともと、常盤のことを時折無視する彼女だから、あまり変わらないかもしれないが。
 常盤は小さな花束を持って、彼女のベッドの周りにあるカーテンを開ける。
「おや」
 少し驚いたような顔をしてから、常盤は笑ってみせた。ベッドの上に座っている少女―――黒堂彰はいつもより一層不機嫌そうな顔をしている。
「……遅い」
「それは申し訳ありません。花を選んでいたら夕方になってしまいました」
「何その格好、変」
「病院に来るのに燕尾服では目立ってしまうでしょう。貴方がどこのお嬢さんなのかと噂されますよ」
 言って、常盤はベッドサイドに置いてある花瓶を手に取った。彰は未だに不機嫌そうな顔で、常盤から目を逸らしている。
「いつ起きたんです?」
「お昼。この後検査」
「そうですか。大事に至らなくてよかったですよ、本当に」
「うるさい」
 彼女が何に苛立っているのか、常盤にはわかる。襲撃を受けたこと、負傷したこと、今現在常盤が手配した病院の世話になっていること。きっとそのどれもが彼女をイラつかせているのだろう。
「どこの誰がやったかわかってるんでしょ?」
「ええ、一応」
「教えて。今すぐ殴りに行くから」
「まさか。もう少し安静にしていてください。せめて検査が終わるまでは」
「もう元気だから大丈夫だもん」
 拗ねたような言葉に小さく笑いながら、それでも頑なに彼は口を開かなかった。それ自体にも腹を立たせながら、彰は窓の外を見る。随分眠っていたらしい。起きてすぐにナースコールを押したら、医者が慌てて飛んできた。まるで彰をどこかの令嬢のように丁寧に扱う様子は、常盤がこの病院と繋がっているであろうことを示唆しているようで気分が悪い。
「……一発でいい」
「珍しいことを言いますね」
「いいからここから出して」
 彰が体を起こして常盤の胸倉を掴み、引っ張った。それでも尚余裕の笑みを浮かべる常盤の顔を睨み付ける。
「もう少し素直になれませんか?」
「……可愛くおねだりしろってこと? 趣味悪すぎて吐きそう」
「人にものを頼む時くらいは、もう少し可愛げがあった方がいいと思いますよ」
「…………」
 しばし視線がぶつかったまま、無言の時間が流れる。苛立ちを隠さないまま、彰は常盤の服を掴む手に力を込めた。
「連れ去って、簡単でしょ」
「行き先はどちらに?」
「決まってるじゃん、そんなの」
 彼女の目には、怒りが滲んでいる。珍しそうにそれを見つめても、いつものように視線を逸らされはしなかった。
「やられっぱなしなんて絶対に嫌」
 常盤は彼女の手を引いた。勿論、彼女を連れ去ることなど簡単だった。病院の後処理はまた後日すればいいだろう。余計なことを他言しないようにと医者にはきちんと言ってある。
 彼女を外に出すメリットはなかった。あと数日安静にしていれば、この件は別の人間の手で解決するだろう。
 わかっていて彼女に手を貸すのは、単なる気まぐれか、あるいは―――

 

 


 猫猫事件帖 そして怪盗はいなくなる

 

 


 木野宮邸で明乃が生活を始めてから、数日が経った。たまに元の家が恋しくなるものの、大した不満もなく毎日が楽しい。

 木野宮は学校を休んでいるし、東雲も怪盗業はお休みしている。毎日のようにお菓子を食べながらゲームをしたり本を読んだり、それぞれの時間を過ごしているものの木野宮の調子は悪くなるばかりだった。

 いつも通り楽しそうにしているかと思えば、ふとした瞬間にボーッとしたり、思い詰めるような顔をしたりする。見たことのない表情に焦るばかりで、精一杯励まそうと明乃は様々なことを彼女に提示した。

 それでも、彼女の気持ちは晴れないのだろう。詳しい事情はわからない、ただ、明乃はひたすらに彼女の元気がないことが辛くて堪らないだけだ。

 だから明乃は、思い切って東雲に言った。

「外に遊びに行きたい!」

「ダメに決まってんだろ」

「なんでえええーー!!」

 駄々をこねる明乃のことを全く見ずに、東雲は手元にあるメカをいじり続けている。勿論ダメだと言われることはわかっていたが、ここで折れるわけにもいかない。

「絶対絶対絶対絶対大丈夫だからーー!!」

「バカ、危ないってわかってんのに行かせるわけねーだろ」

「絶対守るもん!!だって、だってだって、だってぇ……」

「…………」

 東雲は困ったように頬をかく。勿論、明乃が言いたいこともわかっているつもりだ。

 日に日に木野宮の様子は落ち込んでいった。そんなことは、彼女のことをよく知らなくても見ていればわかる。それを何とかしようとするたびに、彼女が小さくしょぼくれていくことも。

 必要なのは気分転換だ。勿論わかっているが、外に出るという選択肢を許容はできない。今現在、買い物などは大人組がローテーションしてやっているものの、いつまでもこのままここで生活するわけにも行かないだろう。

 グス、と鼻をすする明乃にギョッとする。だが、慌てて駆け寄ろうとした瞬間にそれが嘘泣きであるとわかって、東雲はわなわなと震えた。

「お前なー……」

「えーん!だってだって!きのみちゃん可哀想なんだもん!学校も行けてないし、お外一回も出てないんだよお!? 気が滅入っちゃうよう!」

「……だからって危ないことには変わりねえだろ。仕方ねえんだよこういう時は」

 あーんあーんと喚きながら東雲の服を思い切り引っ張る明乃を何とか振り払おうとするが、明乃の腕力に敵うわけもなく東雲はひたすら耐える。

「仕方なくないもん!仕方なくないもんーー!!」

「ダメったらダメなんだよ!!お前出かけてる間瞬きせずにアイツのこと見てられんのかよ!」

「できるもん!!本気出したらそのくらいできるもんーー!!!」

「バカ!目乾いて死ぬわ!!」

 ひたすら攻防を続けていると、リビングの扉が開いた。買い出しに出た浅野が帰ってきたのかと思ってそちらを見るが、そこに立っているのは全く違う人物だ。

「……何してんのアンタたち」

「よお、ちょっとコイツ引き剥がすの手伝え!」

 扉から姿を現した女性、水守綾は手に持った紙袋をテーブルに置いて、それからソファに座った。どうやら助けてくれる気は一切ないらしい。

「プリン買ってきたから、みんなで食べて」

「プリン!?」

 バッ、と明乃が手を離す。当然東雲は床と衝突した。

「わーい!ありがとう水守さん!きのみちゃんもきっと喜ぶよ!」

「そう? なら良かった。ケーキと迷ったんだけどね」

「わーいわーい!私、冷蔵庫に入れてくるね!」

 明乃はそそくさと紙袋を持って、キッチンへ向かう。その背中を見ながら、東雲は強打した頭をさすりながら起き上がった。

「……んだよ、ったく。つーかお前、やっと顔出しやがったな」

「仕方ないじゃない、こんな時に限って仕事が立て込んでるの」

「まあ別にお前がいなくても大丈夫だけどな」

 ソファに座って膝を組みながら、東雲は大きな溜息を吐いた。

「そりゃそうでしょ、むしろこんだけいてなんかあったら大問題よ。……で、当の本人は?」

「今んとこは問題ない……って言いたいところなんだがな」

 テーブルに置いていたドライバーと作りかけのメカを手に取る。今東雲ができる暇潰しといえばこれくらいのものだが、彼にとっては十分すぎた。むしろこちらに集中できるから有難いとまで思う。

「あのガキ、あからさまに落ち込んでやがるんだよ。それで明乃が外に行ってリフレッシュしたいってしつけぇのなんの……」

「あら、いいじゃない。明乃ちゃんがいるなら大丈夫でしょ?」

「やっぱりそう思うよねー!!?」

 明乃は手にティーカップを持って帰ってきた。木野宮邸で使われていなかったものを、明乃が綺麗に拭いたものだ。中には紅茶とレモンが添えられている。

「はい!これ水守さんの分!」

「ありがとう……レモンティー好きなの覚えててくれたの?」

「うん!だっていつも紅茶飲んでるでしょ? 好きなんだろうなーって思ってたんだ!」

 ニコニコしながら明乃はティーカップの乗ったトレイを水守の前に出した。

「彼女、学校も休んでるんでしょ? そりゃ気も滅入るわね」

「だよねー!? 私もそう思うんだけど、宵一さん全然いいよって言ってくれないの!!」

「まあ、気持ちはわかるけど……」

 水守は紅茶を口に含む。いつも飲んでいる紅茶よりずいぶん美味しく感じるから、きっと明乃が上手いのだろう。

「流石に高校生の女の子を何日も監禁するのはねえ」

「監禁じゃねえだろ!!外に出てなんかあったら責任とれんのかよ!!」

「まあそりゃとれないけど。なんかあったらその時は全力で立ち向かうまでよ」

「お前なあ……」

 半ば呆れながら東雲がまたため息をつく。だが、東雲自身もよくわかっていた。彼女にリフレッシュが必要なことも、それを守るのは自分たちであるということも。

「……まあ、明るい内なら行けなくもないか?」

「ほんとお!?」

「ただし、三人以上で行くことと、昼のうちに行って明るいうちに帰ってくること」

「うんうん!!」

「あとそうだな、発信機は全員分付けさせろ、それと人が多いところで、あとはーーー……」

「もうわかったよー!気をつけたらいいんだよね!?」

 明乃が嬉しそうにぴょこぴょこ跳ねる。東雲は頬杖をついて、本当に大丈夫だろうかと不安になった。

「私きのみちゃんに言ってくるね!きっと喜ぶだろうなあ!どこ行こうかなあ!」

 言いながら明乃は急いで部屋の外へ消えて行った。早速木野宮に伝えて計画を立てるのだろう。

「……よかったの?」

「お前も賛成してたじゃねーか」

「まあ、そうだけど」

 水守は静かに思い出す。壱川が話していた陽炎という怪盗のことは、自宅で多少調べた。だが、殺傷事件なんて一つも出てこなかったし、あるのは数々の彼が盗んだ物についてと、熱狂的なファンやアンチの話ばかりだ。

「……変なこと聞くんだけど」

「あ?」

「アイツどうしてる?」

 アイツ?と東雲が首を傾げる。水守はしばし返事を待ったが、焦ったくなって口を開いた。

「遵よ、遵」

「ああ、あのバカ刑事のことか」

 相変わらずメカをいじりながら、東雲は言葉を探した。どうしてるも何も、彼はたまにここに帰ってきては見張りを代わってくれるくらいで、東雲と違ってずっとここにいるわけではない。

 浅野はできるだけいてくれてるが、深海もそうだ。勿論東雲は気にしていないし、たまに交代してくれるだけで十分助かっている。むしろ何か起きているわけでもないのに、よく足を運んでくれている方だと思う。

「そんなのお前の方が知ってんじゃねえのか?」

「知らないわよ、ずっと一緒にいるわけじゃないんだから」

「だとしてもお前が本人に聞けば済む話じゃねーか」

「まあ、そうなんだけど……」

 壱川の話を思い出す。彼が嬉々として怪盗に挑みたい、なんて思っているところは想像できないが、当時はそうだったと本人から聞いたのだ。今そうであるとは限らないが、また何か一人で無茶をしようとしているのではないかと勘繰ってしまう。

 流石にもうそんなことはないと信じたいが。

「……ま、いっか」

「なんだよ」

「いや別に? アタシが気にすることでもないなって思ってだけ」

 水守がソファから立ち上がる。

 彼がもしもまた挑みたいと言うのなら、それは彼自身の問題だ。ましてや怪盗業をしようと言うのなら、水守はそれを受け入れるつもりもない。あくまで水守は、刑事である壱川を助けているだけで、犯罪に片足を突っ込むなら辞めると最初から言ってある。

「ま、アタシもたまには来れると思うから。精々気張りなさいよ」

「言われなくてもそうしてら」

 彼が助けてくれと言うならまだしもーーー……

 水守は何となく想像した。

 それにしたって彼が怪盗のような格好をしているのが思い付かない。前に東雲がお下がりで着ていた服と壱川の顔を合体させようとするがどうにもうまくいかない。

「似合うような、似合わないような……」

 呟きながら水守は、木野宮邸を後にした。

 彼が怪盗に戻ると言ったなら、いつかその姿を拝める日が来るのだろうか。

 

 

 

* * *

 

 

 

 東雲から提示された条件はかなり多かった。

 明乃はそれを無碍にするわけでもなく、しっかりと頷いてしっかりと話を聞いてきた。勿論明乃だけではなく、同行する浅野と宮山も同じく話を真面目に聞いていた。

 全員が首に東雲が作った発信機ドコデモオシエル君十七号機から記念すべき二十号機をつけて、いよいよ街に出ることになる。

 木野宮は少しの間しょぼくれていたが、外に出て直接太陽を浴びると、みるみる元気になって行った。

「おっかいものー!おっかいものー!!」

 光合成でもしてるのだろうか。宮山は木野宮の帽子についている赤いリボンが久しぶりに動き回るのを見て、ふと思う。

「えへへ、きのみちゃん、クレープ食べよう!クレープ!!」

「クレープ!!二個食べてもいいかな!?」

「……いいんじゃない? たまには」

「やったーー!!!」

 久しぶりに元気な木野宮を見て、思わず笑みが溢れる。やはり彼女はこうでないと、こちらの調子も狂うというものだ。

 むしろ今まで何一つ気にしない素振りで元気だった方がおかしいのだが、それを考えるに今回はかなり精神的に辛いのだろう。

 なんせ、狙われているのは彼女、もしくは彼女の父親だ。しかもそのせいで友人たちが怪我をし、傷付いている。たった十七歳の子供が体験するにしては、あまりにも酷い話だと宮山は思った。

「ね!あのね!向こうにあるお店に行きたくてね!あっちの方がクリームいっぱいだから!」

「へーそうなのか!んじゃあオレも甘いやつ食べよっかなあ!」

「……ここ最近食べ過ぎじゃないです?」

「筋トレしてっから大丈夫!!」

 白い歯を見せながら浅野が笑う。宮山は走り出そうとする木野宮の首を掴んで、自分の方に引き戻した。

 危機感がないと指摘されたら、それはそうだ。宮山は実際に陽炎を見ていないし、起こっていることに現実感がなさすぎる。だが、東雲は怪我を負っていたし、彰は病室で意識を失ったままだった。

「…………」

 きっと、今まで起こったこと以上に警戒しなければならない。だが、宮山のような凡人に何ができるだろうか。

 以前、同じように木野宮が攫われかけた時だって、何にもできなかった。助けたのは東雲と明乃であり、二人が来なければ木野宮は簡単に連れ去られていただろう。

 もし、同じようなことが起きたとして。宮山はきっと何もできない。明乃のように体を自由自在に操れないし、浅野のように体力もパワーもない。何より人を傷つける度胸も、傷つく勇気も宮山にはなかった。

「みややまくん?」

「……ん?」

 考え事をしていたからか、木野宮が顔を覗き込んでいた。ようやく気付いた宮山は木野宮の帽子にぽすんと手を置く。

 彼女も、普通の女の子だった。いや、バカさ加減でいうと常軌を逸しているが、彼女にも人を傷つける度胸も、傷つく勇気もないはずだ。だから宮山が守っていかなければならない。大人である自分が。それは宮山自身の目標や夢よりも優先すべきことだと、今は強く思っている。

「まあまあそんな緊張すんなって」

 宮山の肩に、浅野が手を置いた。どうやら顔に出ていたらしい。

「こんな真っ昼間で人通りも多いんだ。そんな中で狙ってくるほど相手も馬鹿じゃねえだろうよ。宮山さんも疲れてるだろ? ちょっとはリフレッシュしようぜ」

「……ありがとう、浅野さん」

「いいんだよ!」

 浅野がそのまま肩を組んでくる。嫌とは言えず宮山の体は揺らされるが、気付けば木野宮が宮山よりも数歩先にいることに気付いた。彼女は空を見上げながら、軽く走っている。

 東雲からの注意の一つに、木野宮を挟んでできるだけ並んで歩けと言われている。宮山は木野宮を呼んだ。だが、彼女は止まらない。

 宮山の言うことを聞かなかったわけではない。声が届いていないわけでもない。

 後ろから追いかけようとしていた明乃も違和感に気づいた。彼女はどこかに向かっている。そんな直感に、宮山は思わず走り出した。

「ーーー木野宮!!」

 大きな声を出して、ようやく彼女は止まる。だが視線はまだ、空に向かっていた。不思議に思って宮山も、明乃も、浅野も空を見上げる。

 そこにあったのは、無数の紙切れ。小さなカードのようなものが、辺り一面に降り注ぐ。

 そんなおかしな光景が、普通であるわけがない。宮山は走り出す。それよりも速く明乃が駆け出したが、木野宮は逃げようとも、助けを求めようともしなかった。

「大丈夫」

 彼女がそう言ったような気がする。振り向いた彼女は真剣な表情で、宮山を見ていた。怯えることも、驚くこともせず。まるで最初からわかっていたかのように。

「きのみちゃん!!」

 明乃が手を伸ばす。同時に木野宮は無数の白い紙切れに包まれた。紙吹雪の中に手を入れ、明乃は指先で木野宮を探す。

 だが、そこに何もない。

 先ほどまでそこにいたはずの木野宮きのみが、まるで紙吹雪につれ攫われたかのように。

「…………きのみちゃ……」

 ゆっくりと、紙切れで作られた吹雪が去っていく。そしてそこにはやはり彼女の姿はなくーーー

 ただ大量の紙切れと小さなカードが、雪のようにアスファルトを埋め尽くしていた。