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猫猫事件帖 最終章(嘘) そして怪盗はいなくなる 壱

 

 女の声がする。耳の中にそのまま入っていって、脳を溶かすような声だ。
 その声の中には喜びも、怒りも、悲しみも何もない。ただひたすらに自分の脳を揺さぶるために発せられた声だ。
 なのに、何を問われたのかわからない。直前に一体何を聞かれてこんなに動揺しているのか、皆目見当もつかない。
 だがそこは見覚えのある場所だった。亀裂の入った床、妙に暗い照明、目の前に立つ少女と煌びやかなドレスをまとった女性。
「それは」
 壱川遵は口を開いた。妙に唇が渇いている。何を問われたかわからないのに動悸がする。そしてそれに、自分は何か答えようとしている。
 一体何を?
 いや、知っている。自分はこの状況を、この記憶を、何を問われ、何を責められているのかを。
「それは…………」
 そして、この続きも知っている。目の前に立つセーラー服の少女はまるで感情のない笑みを浮かべてこちらを見ている。ああ、そうだこの続きを知っている。どうか違う結末であってくれと願っても、この先に起きることは壱川自身が過去体験したことだ。
「お父さんが嘘吐きだから」
 凛とした声だった。確信を持ったその声は、何の疑いも悲しみも持っていない。壱川はゆっくりと振り返る。
 探偵帽を被った少女が、そこに立っていた。その瞳は真っすぐにセーラー服の少女、黒堂彰を見据えている。彼女は知っているのだ。父親が何をしていたのか。彼女は知っていたのだ。壱川が何を隠していたのか。
 最初からそこに、なんの意味もなかった。膝から崩れ落ちそうになる。口から言い訳がこぼれ出そうになる。だが、どれも叶わない。何を言おうと、何をしようと、事実は変わらない。きっと彼女は何も信じないだろう。
「違うんだ」
 声が震えていた。今更少女に何を訴えようというのか。自分でもわからないが、口が勝手にそう言っていた。
「違う……」
 木野宮の視線が、壱川を貫く。決して言い訳がしたいわけじゃない。伝えたいことはそんなことではないはずだ。なのにどうして言葉が出ない。
「……!………!!」
 壱川は何かを叫んだ。だが声が出ない。確かに何度も叫んでいるのに声が出ない。夢なら醒めてくれと何度も願った。だってこんなのあんまりだ。こんなのは、こんな風に彼女が―――


「ちょっと」
「…………ん?」
 目を開けると、見知った女性の顔がすぐそこにあった。どうやら夢を見ていたらしいと気付くまでに時間はかからなかったが、起き上がるのには時間を要した。
 ゆっくりと体を起こすと、多量の冷や汗をかいていることに気付く。汗に濡れてへばりついた白いシャツと、前髪が気持ち悪い。
「大丈夫? アンタ、うなされてたけど」
「……悪い夢を見てた」
「でしょうね」
「ていうか今何時……」
「まだ朝の5時よ」
「はは、早起きだな、綾ちゃん」
 言われた水守綾は腕を組んで、相変わらずのしかめっ面で壱川を見下ろしていた。
 ああ、だんだん思い出してきた。昨日は浅野や深海と共に外食をして、それから結構な酒を飲んで全員が壱川の家に転がり込んできたのだ。 
 最初は変わらない顔色をしていた壱川も、体の疲れには逆らえず眠ってしまったらしい。なんせ昨日は、なかなかの距離を走り続けた。
「先に帰ろうと思って。……あの二人置いて帰っていい?」
「ん? ああ……」
 水守の先には、床に丸まって寝ている深海と、盛大ないびきをかきながら大の字になっている浅野がいる。どうやらあの二人も眠ってしまったらしい。
「じゃ、アタシ先に帰るから」
「……あー、待って、車で送る」
「はあ? そんな顔面真っ青な人間に送られても迷惑なんですけど」
「大丈夫だって、ほんと。昨日はちょっと疲れてて……」
 水守が苦い顔をした。どうやら自分のせいだという自覚があるらしい。
「いや、いい!歩いて帰れる!」
「まあまあ、待ってよ。そんな急がなくてもいいでしょ、仕事が忙しいわけでもあるまいし」
「悪かったわね仕事が忙しくなくて」
「嫌味のつもりじゃないんだけどな」
 重い体を動かして、煙草に火を点ける。ようやく冷や汗も止まり、視界もクリアになってきた。少しずつ頭が回り始める。そうして自分がなんの夢を見ていたのか鮮明に思い出しながら、小さく煙を吐いた。
「ちょっとだけ待っててくれない?」
「なんでよ、車はいいって……」
「シャワー浴びるからさ、その後朝ごはんでも食べに行こうよ」
 あの二人は置いといて、と付け加えて笑いながら、冷え切った心がなかなか元に戻らない。
 まだあの日の夢を見るのだ。それは、とある人生の転機である美しい日であったり―――知りたくなかったことを押し付けられるような、言い訳すらできない罪悪感に押し潰される日だったり。

 

 

 

 猫猫事件帖 最終章 そして怪盗はいなくなる

 

 


「ただいまーー!!」
 毎日、ほとんど同じ時間だ。夕方頃になると、決まってこの声が聞こえてくる。
 そしてその日に何が起きても起きなくても、木野宮きのみは必ずこんな楽しそうな声でそれを言うのだ。宮山紅葉は少し不思議に思う。どうやって生きたら、こんなにも毎日楽しそうでいられるのかと聞いてみたくなる。だが、実際に聞いたことはない。なぜなら聞いたところで彼女は何一つまともなことを答えないだろうから。
「おかえり、きのちゃん」
「お手紙きてたよ、お手紙!!」
「手紙?」
 本から目線を木野宮に向けると、確かにその手には封筒が握られていた。白い封筒に、金色の枠がついている。宛先や送り主が書いていない時点で宮山は嫌な予感がしていたが、しかし木野宮は何一つ気にせずにその封を破った。
「ちょ、ちょっと待ってセンセ」
「ん-!?」
「俺が開ける、俺が開けるから貸して」
 中身まで破りそうな勢いで手に力を込める木野宮から、なんとか手紙を奪取する。手に持ってわかるが、どうやら中には紙きれ一枚くらいしか入っていないらしい。
 宮山は何度かこういう封筒を開けた覚えがあるが、そのどれもがあまりよくない内容であった。例えば怪盗からの予告状であったり、あとは怪盗からの予告状であったり。
「はやく!はやく開けて!!」
「まあ待ちなさい。こういうのはなんていうか……いや、まあ慣れてきちゃったんだけどさ」
 でもやっぱり、心の準備はいるもんだ。
 宮山はゆっくり息を吸い込んで、よしと意気込んで封筒から一枚の紙きれを取り出した。二つ折りにされた白い紙きれを開くと、真ん中に綺麗な文字が綴られている。
 それは予告状ともとれたが、いや、そうではないのだろうとなんとなくわかった。
「旅行券!? 旅行券だった!?」
「いや……」
 何故ならそこに綴られていた住所が、病院だったからだ。あからさまに怪しいものの、件の怪盗たちが病院なんかに自分たちを呼び寄せるだろうか。
 もしかしたら依頼か、それとも公にできない話がしたいのか。宮山は考えるが、送り主の情報なんてこの綺麗な文字ひとつくらいだ。考えたところで答えは出なかった。
「これどこ? 病院?」
「みたいだね。……うーん」
「行ってみようよ!!どうせ今日も暇でしょ!?」
「失礼だな。いや、暇なんだけどさ……こういうのは一回壱川さんとか、水守さんに言ってからの方が……」
「いーから行こうよ!!事件のかおりがするんだよお!!」
「こら、駄々こねない」
 えーんえーんと床に這いずり回りながら木野宮が大声で訴える。次第に面倒になってきて、宮山は溜息を吐いた。
「見に行くだけね」
「やったーーー!!!」
「なんかあったらすぐ帰るからね?」
「おやつは何百円までですか!?」
「何百円でもダメです」
「そんなあああ……」
 まあ、実際行ってみるしかないだろう。ご丁寧に病室まで書いてあるが、ここに誰がいるかなんて受付に聞こうものなら怪しまれて警察でも呼ばれかねない。
 宮山は重たい腰を上げて、病院へ向かうことにした。せめて危険のないことであってくれと、頭の片隅で願いながら。

 

 * * *

 

 平日だというのに、病院は随分混んでいた。とりあえず書かれてある病室を探しに行くが、どこも老人ばかりだ。
 こうなってくると、お金持ちの老人が暇つぶしに試練を与える……なんて言い出してもおかしくはない気もしてきた。いや、全然ありえるな。なんならそれよりもっとすごいことに巻き込まれたこともあったし。
 宮山はそう思いながら、走ろうとする木野宮の首根っこを掴んで制止する。ここまで病院にいない方がいい人間もそういない。
「宝さがしかな!?」
「なくはなさそうだなあ……」
「そこに行ったらさ!次の場所が書いてあってさ!? それで最後にはトクガワのマイゾーヒンが……!!」
「それ、昨日テレビでやってたやつでしょ。大きい声出さないの」
 まあ、実際ありえそうな話ではある。それこそ知り合いの怪盗がやりそうな気もするし、金持ちの酔狂かもしれない。そんなことすら「あり得る」と思ってしまうようにいつからなったんだろうか。不思議に思いながら、宮山は病室の横にあるプレートの数字をひとつひとつ確認していった。
「お、ここだ」
「おおお……この中にマイゾーヒンの手掛かりがまた一つ……!」
「まあ、ほんとにそうだったらいいよなあ」
 なんて呟きながら扉に手をかける。そこまで大きい部屋でもなさそうだが、個室だろうか。これはいよいよお金持ちの老人説も出てきた。
「たのもーーー!!!」
「あ、こら!」
 宮山が扉を引き切るより先に、木野宮が勢いよく扉を開ける。再三ここに来る前に大声を出さないようにと注意していたはずなのだが。
 溜息を吐きたかった。だがいつの間にか引っ込んでいた。大きな声で、いつも通りの笑顔で、つい先ほどまで目の前にいた木野宮が制止している。
「木野宮……?」
 彼女は、部屋の中を見つめていた。いや、部屋の中にあるベッドを見ていた。そこにいる人物が誰なのか、宮山も覗けばすぐにわかる。
 そして木野宮が、彼女らしからぬ顔で固まっていることの理由も。
「……彰ちゃん?」
 黒堂彰。緑がかった綺麗な黒髪に、端正な顔立ち。見間違えるわけもない。彼女こそが木野宮を狙った張本人であり、宮山たちを始末しようとしたメンバーの一人だ。
 そして、木野宮曰く友達でもあった。
「……何かのドッキリか?」
 一番最初に疑ったのはそれだった。近寄った瞬間に彼女が飛び起きるだとか、警報が鳴るだとか。実はすべて演技なのではないかと疑って部屋の中を確認する。
 少なくともそれができてしまう少女だ。悪戯な笑みを浮かべて、残念でしたなんて言う顔がすぐに思い浮かぶ。だが、表情を失くした木野宮が駆け寄っても、何度名前を呼んでも、その白い手を握っても―――……彼女が反応することはなかった。
「彰ちゃん? わたしだよお、きのみだよ……」
「…………」
 唖然とするしかない。彼女は頭に包帯を巻いていた。いや、なんなら体の何か所かに巻かれている。何かに巻き込まれたか、いや、今考えるべきはそこではない。
 一体誰が彼女がこうなったことを自分たちに知らせたのか。
 少なくとも、宮山の頭に浮かぶ人物は一人しかいない。これを知りえて、なおかつ宮山達に知らせることができる人物。更に宛名を書けないとなると、それは―――
「お久しぶりですね」
 静かな声。怒りも、悲しみも、喜びも何もない。だが、なぜか優しい声だった。少なくとも聞いたことのある声だが、宮山の印象とは全く違う。 
「ああ、落ち着いてください。敵意があって呼び出したわけではありませんから」
 振り返ると、予想していた通りの男―――常盤社がそこに立っていた。彼はゆっくりと扉を閉めて、こちらを見る。
 息を吞むが、不思議と緊張はしない。それは常盤が燕尾服ではなく、チェスターコートを着ていて長い髪をまとめていたからかもしれない。想像にない眼鏡をかけていたからかもしれないし、手に花束を持っていたからかもしれない。だが、まるで彼の雰囲気にのまれてしまったかのように警戒心が湧かない。やはりこの男異常だ。気付いて宮山は冷や汗を流した。
「先日、何者かの襲撃を受けたようでして。勿論私じゃありませんよ」
「……なんで俺たちをここに呼んだ?」
「それは勿論」
 常盤が、ベッドの横にある花瓶に花を挿す。まるで慈しむかのように、悲しんでいるかのように。
「友達に、会いに来てほしいと思っているのではないかと思いまして」
「彼女が、か?」
「他に誰がいるんです、おかしい人だ」
 常盤は微笑んだ。相変わらず、意図の読めない笑顔だった。本当に笑っているのかどうかもわからない。まるで笑っていると認識させられているような感覚。
「犯人の目星くらいはついているんです。でも確証もないし、理由もわからない」
「それを俺たちに伝える理由は?」
「ただの世間話ですよ。そうなんでもかんでも疑われては会話にもならない」
「疑わなくていい間柄ならよかったんだけど」
 彼が、彰を一瞥する。そこにどんな感情があったのかわからない。やはり仲間である以上、思うところがあるのだろうか。
「せいぜいお気を付けを。最近この辺りで通り魔事件もありましたしね」
「あ!!ミユちゃんが言ってたやつだ!!」
「ミユちゃん?」
「うん!学校の友達!この前帰りに襲われかけたんだって、でもたまたま警察の人が通りかかったから大丈夫だったって!」
「そうですか、それはよかった」
 宮山は、部屋から立ち去ろうとする常盤を目を細めて見た。どうやらこのまますんなり帰ってくれるらしい。
「世の中物騒ですからね。何もないことを祈りますよ」
「どの口が……」
「あ!!ねえ!またお見舞い来てもいい!?」
「どうぞ。きっと彼女も喜びます」
 言い残して、常盤はドアの向こうへ消えていった。まるで何事もなかったかのように病室に静寂が戻る。
 彰はやはり動かなかった。深い眠りについているように、小さく呼吸をしていることしか確認できない。木野宮がそっと彰の手を握る。彼女は心底心配しているようだった。
「大丈夫かなあ」
「大丈夫さ、その子がすごいのはきのちゃんが一番知ってるだろ?」
「うん……」
 嫌な予感だけがする。だけどそれが一体なんなのか、宮山にはわからない。
「彰ちゃん、今度また来るね、お菓子持ってくるね!それで一緒に、隠れて食べようね……」
 ただ、木野宮が彼女に語り掛けているのを聞いているしかなかった。宮山は彼女のことも、常盤社という存在のことも、まだほんの端っこしか知らないのだから。


 * * *


「ったくよお、大丈夫だって言ってんだろお? なんだよ馬鹿にすんなガキじゃねーんだから!買ったよ!!だーかーらー牛乳とサラダ油だろ!? 買ったって!!あ? ゴマァ? 知らねえよそんなん言ってたか? 明日でいいだろ別に、なくても死なねーし」
 東雲宵一は怒り半分に声を荒げながら、スマートフォンの向こう側にいる人物に話しかけていた。手にはエコバッグを携えて、一人夜道を歩いている。
 ちょっとコンビニに行くだけのつもりだったのだ。それを同居人である明乃が、あれもこれもと追加のお使いを頼むものだから、結局スーパーまで歩く羽目になった。
「もういいだろ、切るぞ。オイだからガキじゃねえんだから大丈夫っつってんだろ!!また後でな!!」
 通話相手がまだ何か言おうとしているのを聞いて、乱暴にスマホの電源を切る。東雲ももう成人している男なのだが、いつまで経っても子供のような心配ぶりを見せる明乃には困ったものだった。
 きっと明乃からすれば、東雲はか弱い生き物なのだろう。いや、明乃から見れば大半の人間がそうなのだ。だから過剰に心配してくるが、そんなものが必要なわけもない。
「ったく、馬鹿にしやがって……」
 文句を垂れながら立ち止まる。今ならまだ、踵を翻してスーパーに向かっても問題ない距離だ。だがこれ以上歩けば、きっとそのまま帰宅することになるだろう。
「……ゴマは美味いしな」
 独り言のように呟いて、結局東雲は進行方向を変えた。今行って明日に明乃が買い物に出なくてもいいというのなら、これくらいはいいだろう。
 体を反転させて一歩踏み出す。が、東雲はそれ以上進まなかった。後ろから嫌な視線を感じる。それはどちらかというと勘のようなものだ。こういう直観はよく当たるから大事にしろとおばあちゃんも言っていた。
「今度はなんだよ」
 あまりにも冷静だった。実際に死を身近に感じてから、こういったことに心が揺さぶられることが減ったと思う。
 それは自分の経験でもあり、成長でもあり、もしくは慢心かもしれないが―――
 東雲はいとも簡単に、背面から飛び出てきたナイフを避けた。と同時に首からぶら下げていたゴーグルを目に装着する。
「俺が一人の時を狙うなんて随分用意周到だな?」
 言いながら東雲はポケットからいくつものボールを取り出した。メチャマッシロ君5~10号だ。
「そういう危ないモンは反則だろうがよ!!」
 手に取ったメチャマッシロ君をすべて地面に叩きつける。同時に白い煙幕がそこら一面に広がった。だが東雲はゴーグルのおかげで視界を奪われずに済んでいる。さあ、自分を襲撃した奴の顔を見てやろうと覗き込む、が。
「あ?」
 影はほんの少しも怯みもせずに、東雲にまたナイフを振るった。見えた瞬間に体を逸らすが、激しい運動に片足がついてこない。なんとか直撃は避けたものの、東雲は確かに自分の腕から痛みと熱を感じ取っていた。
「……なんだァお前」
 血が滴る。大した傷ではない。そして恐怖もなかった。いや、ないわけではないのだが、やはり怒りの方が勝っている。
 こんなもの、銃に囲まれるのに比べればピンチでもなんでもない。
 だから東雲は冷静だった。いや、今にも頭が沸騰しそうなほどの怒りには襲われているのだが。
「何がしたいか知らねーが、後悔すんなよ」
 ゆらりと影が揺れる。長身の男が煙幕の中から姿を現した。東雲は目を細める。何の目的があってだとか、いったい誰だとか、そんなことは後でいい。
「やられたことは百倍にして返さねーと気が済まねえんだよ俺は!!」
 大きく吠えて、東雲もまたゆっくりと立ち上がった。
 影はまた、沈黙を貫いて東雲を見据えている。

 

 

 

つづく