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猫猫事件帖 最終章 そして怪盗はいなくなる 弐


 東雲宵一は冷静だった。焦る必要がないわけではない。生死に関わることはいつまで経っても慣れないだろう。だけど冷静だった。
「んで何だ? 恨みか? 妬みか?」
 言いながらポケットから更に様々なガジェットを取り出す。マウンテンパーカーのポケットにも、ズボンのポケットにも、まだ様々な物が入れられている。いつかこういう日も来ると思っていた。明乃に頼れない、たった一人で戦わないといけない日が。だけどそんな覚悟はとうにできている。もともと、一人でやり切ることのはずだった。
「なんだよ、盛り上がりに欠けんな。ちょっとは発狂したり怒ったりなんなりしろよ、冷めるぜ」
 手に持ったナンデモグルグル君十四号と、追加のメチャマッシロ君を握り締める。目標は殺すことでも逃げることでもない、捕まえることだ。
「……マジでなんか言えよ、気持ち悪ィな」
 先ほど投げた煙幕が徐々に晴れていく。その中心にいる長身の男は、まるで真っ黒な影のように見えた。
 頭のてっぺんからつま先まで、真っ黒に染まり上がった服。顔が見えないように巻かれた包帯。声すら上げない影に不気味さを覚える。だが、彼のことを知っている気がした。なんとなく、どこかで見たことがあるような―――
「お前―――……」
 そうだ、あれはまだ東雲が学生だった頃だ。その男は一時メディアを賑わせており、当時東雲も随分熱心にその情報を追っていた。見たことがあるはずだ。いや、毎日ニュースや新聞をチェックする人間なら、必ず覚えがあるだろう。
 名前は確か、と考えたところで影が動く。手に持ったナイフは東雲を貫こうとしていたが、避けるだけなら容易い。メチャマッシロ君を男に投げつけると同時に白い煙幕が漂う。また煙幕に吞まれた影の居場所は、ゴーグル越しに綺麗に見えていた。あとはこのナンデモグルグル君が当たれば、指先ひとつ動かせないほどにぐるぐる巻きにされるだろう。
 だが、東雲は動けなかった。まさにナンデモグルグル君を投げつけようと腕を振るった瞬間、ピタリとビデオ停止ボタンを押されたかのように静止する。動かそうと思っても、指先ひとつ動かない。
 そこで初めて、焦りが生まれた。なぜ動けないか、冷静に考えようとする。だがその時間を待ってくれるほど、男は優しくない。
「……クッソ、ふざけんな!」
 ゆらりと揺れる影が東雲に一歩ずつ近寄ってくる。無理矢理動こうとすると、体中に耐えられないほどの痛みが走った。その痛みに侵されながらも脳は動く。
 首を動かして顔を上げる。痛みの正体に気付くのは早かった。少し顔の角度を変えれば、宙に光の筋が何本も見える。
 ワイヤーだ。
 理解したが、手を打つ時間がない。脱出の方法を考える、すぐに思いついた、あとは実行するだけだ、なのに男はもう目の前にいる。
 ナイフが振り上げられる。もう逃れられないことを悟るが目を閉じられない。迫りくる刃先が東雲の顔の先までたどり着く。
「オラアアアア!!!」
 心臓が破れるかと思うほどの轟音。同時に破裂するような音。東雲は目を見開いていたから、何が起きたのか一部始終捉えていた。
 死角から唐突に男が現れ、毛の生えていない頭皮がきらりと光り、その男の足が影のど真ん中にぶち込まれた。
「…………」
 おおよそ人間が受けていい音じゃない。東雲はげんなりする。生きていてこうも理不尽に強い人間が周りにいると、何か大事な物を失ってしまいそうだ。
「大丈夫か?」
「おう、ありがとな」
 後ろから現れた青年、深海京佑が東雲の体を支えるようにして立っている。前方にはスキンヘッドの男、浅野大洋が男にもう一発と言わんばかりに拳を握り締めている。
「大丈夫か東雲センパイ!!!」
「だから先輩ってのやめろっつってんだろ!」
「いやーたまたまアイスが食べたくなってよかったぜ!」
「アイツはなんだ、知り合いか?」
「んなワケねーだろ!いきなり襲われたんだよ!!」
「そうか」
 東雲の前に二人が立つ。腕から血を流していることに気がついているのだろう。
「いやーマジでびっくりしたあ、今からアイツぶっ飛ばすんで安心してください!!」
 ムッとして東雲が無理矢理二人の間を通って前に出た。まだやれると言わんばかりにポケットから更に自作のメカを取り出す。
「おい、アンタ怪我してんだろ」
「うるせー、やられっぱなしで帰れるワケねえだろ」
 深海はそれ以上東雲を咎めるようなことは言わずに東雲の隣に立った。浅野も何も言わず、東雲の隣に立つ。
「後悔させてやらねえと気が済まねえ」
「おお、漢気かっけえ!助太刀させてもらいやす!!」
「……放って帰るわけにもいかないしな」
 三人が吹き飛んだ影を見る。どうにも先ほどのキックが効いていないようで、影はゆらりと立ち上がりこちらを見た。
 まるで見定めているような、何かを計算しているような。包帯の隙間から覗く目が不気味にこちらを見つめている。
「……あ、オイ!!」
 そして影はまた波が揺れるように体を動かして、踵を翻す。逃げるのだとわかって東雲は声を上げるが、走りだそうとした瞬間に足が酷く傷んだ。
 深海と浅野が気遣うように東雲を支えるが、その隙に影が消える。まるで夜に溶けるように、走り出したわけでもなく、ゆっくりと消えたのだ。
 痛みを感じるたびに流れる冷や汗が煩わしい。思うように動かない体がもどかしい。だが、東雲はすぐに冷静さを取り戻していた。無理に追う必要はない。奴も、三人相手では分が悪いと踏んでくれたのだろう。
「おい、大丈夫か」
「……平気だ」
「馬鹿言うな、顔色悪いぞ」
 思っていたよりも血が流れていることに気付く。頭がどんどん回らなくなっていくが、気を失うほどではない。東雲は腕をキツく抑えながら、先ほどまで影がいた場所を見つめる。
 彼を知っている。会ったことはないが、何度もテレビの中で見た姿そのままだ。この日本で、怪盗の存在を知らしめた一人。
 あの男の名は―――……

 

 猫猫事件帖 そして怪盗はいなくなる

 


 壱川遵は頭を抱えていた。連日に渡って起こっている通り魔事件を調べるにあたって、資料をまとめている時だった。
 死人こそ出ていないものの、件数が少しずつ増えているだけに警察側も焦っている。発生時刻はバラバラで、一見何の繋がりもないように見えた。
 だが、壱川だけは知っていた。この事件には、警察に届けられていない被害者がいる。
 黒堂彰。怪盗であり、壱川たちを阻もうとする組織の構成員でもある。そんな彼女もまた、通り魔に襲われて入院に至っていることを宮山から連絡を受けたことで知ったのだった。それも、他の人間よりもはるかに重症だ。未だに目は覚めていないらしいし、何かあったとしか思えない。なのに、他は普通の女子高生だったり、商店街の人間だったりするのだからわけがわからない。
 たまたま狙われて、もみ合いになった結果だろうか。だとしてもあの彰が、そんなに簡単に敗れるものか。資料をまとめながら考えている時に、電話の通知が鳴った。
 発信元が東雲宵一であった時点で嫌な予感はしていた。このタイミングなら、聞きたい話より聞きたくない話の方が出てくるだろう。と、勘は告げていたものの、溜息を吐きながら電話に出た。
「はい、もしもし」
「よお、お前に聞きたいことがあんだけど」
 相変わらず、いや、いつもより不機嫌そうな東雲の声が聞こえる。だがいつもより冷静で、いつもより声が落ち着いているような気がした。
「お前、陽炎って知ってるか?」
「現象の話? それとも別の話?」
「知ってんだな?」
 多少苛ついた声だったが、少しいつもの東雲のトーンに戻る。壱川は小さな笑い声を上げるが、目はまったく笑えていない。
「懐かしいね、俺もその人の記事読んでたよ」
 その単語にまつわる情報を脳内でかき集める。それは一時、世間を賑わせていた怪盗の通称だった。
 揺れるように現れ、また揺れるように消える。盗んだ物は数知れず。まるで魔法のようにどんなに大きいものも消え、どんなに困難だと思っていた物も盗む。
 それは壱川がまだ怪盗になりたての頃の話だった。もうずいぶん前の話だ。
「そいつに襲われた」
「……あの人、捕まってなかったっけ」
「ああ、そうだ。俺の記憶でも捕まってる。でも確かにアイツだったんだよ、まあ、熱狂的なファンが真似してるって説もあるけどな」
「君の目から見てどうだったの?」
「消えてたよ」
 彼自身が名乗ったわけではない。しかし現場にいた人間の証言から、彼は陽炎と呼ばれた。だが、世間を騒がせたのもつかの間、彼はある探偵の手によって捕らえられ、今は牢屋の中にいるはずだ。
「目の前から消えた。トリックも何にもわからねえ。そんな芸当できるやつが、日本に二人もいると思うか?」
 壱川は黙る。もし本当だと言うのなら、今すぐに彼が収容されている施設に確認する必要があるだろう。様々なことが頭の中に浮かんでは消える。ノイズのようにそれを繰り返していると、どんどん頭が痛くなっていく。
「……君が襲われたのはどこだ?」
「商店街の近くだよ。あの道真っすぐ行ったらスーパーあるだろ? あの辺だな」
 資料にある地図に、星マークを付ける。それだけでもう頭を抱えるには十分だった。
「俺にわざわざ教えてくれた理由は?」
「どうせ例の通り魔事件調べてんだろ? 関係あるんじゃねえかと思ってな」
「鋭いなあ、もう」
「で? 関係ありそうか? こっちもせっかく情報くれてやったんだ、このまま電話切るなんて真似しねえよな?」
 一枚の紙に目を落とす。町の地図が印刷されたその紙には、壱川がペンで書いた手書きの星マークがいくつもあった。それはすべて、被害者たちが通り魔に遭遇した場所だ。
「……まあ」
 星と星を線で繋ぐ。更に次の星に繋ぐ。それは一本の道のようにも見える。
「お願い聞いてくれるなら教えようかな」
「あ? なんだよ」
 最後に東雲が言った場所へと繋ぐ。やはりそれは道だった。そして東雲が男に遭遇した場所から、更に真っすぐに線を伸ばす。
「今すぐ、明乃ちゃんを連れて木野宮さんのところに行けるか?」
「…………わかった、また後でかける」
 東雲がすぐさまに電話を切る。あらかたの事情を汲んでくれたのだろう。耳からスマートフォンを剥がして、電源切ってからまた視線を落とした。
 東雲がいた場所。そこから真っすぐ線を引いた先。 
 そこは記憶が正しければ、木野宮きのみが住まう家だった。


 * * *


「陽炎? 何その中二病みたいな名前」
「メディアが勝手に付けただけだよ。陽炎みたいに揺れて、目の前で物が消えたとかなんとか」
 コーヒーを飲みながら、壱川は冷静に言った。できるだけ平静を保っているつもりだが、どうにも脳内は雑音だらけで落ち着かない。
 水守綾はふうん、と興味なさげに頬杖をついて壱川を見ている。壱川が深刻な顔をしていることに気づいているのだろう。
「なんか言われてみれば、そういうニュースばっかりの時あったわね」
「結構騒がれてたからな。なかなか有名な人だよ、俺たちの中では特に」
「……それってさあ」
 タルトにフォークを入れる。水守は少し言葉に迷って、しかし口を開いた。
「例の、関係ないのかな。怪盗団だっけ」
「さあ、わからない。だけどその線は薄いだろうな。彼が本当に犯人なら、どちらかと言えば狙われる立場だろ」
 なんせ既に何人もの負傷者が出ている。彼が解答なら、常盤社はその行いを許さないだろう。仲間である黒堂彰まで手にかけられているのだから。
「とりあえず、木野宮さんの家には明乃ちゃんと東雲君に向かってもらってるから。君も何かあるかもしれないから気をつけてくれ」
「ん-、わかった……一個聞いてもいい?」
「ん?」
「隠し事してない?」
 水守と視線がぶつかる。そこでようやく壱川が、自分が無意識に彼女から目を背けていたことに気付いた。
 彼女は責めるような態度も、怒るような態度もとっていなかった。ここで何もないと言えば、嘘だとわかっていても彼女は追及しないだろう。それがわかっていたからこそ、壱川は少し考えてから口を開いた。その間、水守はずっとそれを待っていた。
「……陽炎を捕まえたのは木野宮さんだ。お父さんの方だね」
「ん? じゃあ腹いせかなんかで娘の方狙ってるってこと?」
「あるいは誘き寄せたいのかもな。今木野宮さんがどこにいるかは知らないが、引退して久しいし、ちょっとやそっとじゃもう表に出てこないだろうから」
「ふーん」
 水守の返事は案外適当だった。水守は、木野宮きのりと壱川の関係を大まかに把握している。彼と壱川が組んでおり、怪盗を捕まえるために怪盗として壱川がそこにいたことを。
「それだけ?」
 また、しばしの無言。優しく尋問されているような気持ちになって、壱川は思わず目を逸らした。教えたくないというわけじゃない。ただ、あまり口に出したくないだけだ。
「あのさ」
「うん?」
 彼女は紅茶を飲んで、視線はずっと壱川の方を見ている。彼女が何を知りたいのか、何を伝えなければいけないのか、頭の中で必死に精査するのにいい言葉が出てこない。
「話したくなかったら、話さなくていいのよ、別に。無理矢理聞き出したいわけじゃないから」
「……ありがとう、いや、話したくないとかじゃないんだ……ただ」
 それは、自責の念なども含まれていただろう。だが、それ以上に羞恥もあった。何故ならこれは、壱川遵という男がまだ学生の頃の話であり、まだ怪盗らしい格好をして、ちゃんと怪盗らしいことをしていた水守の知らない自分だから。
 彼女のことだ、もし当時に戻る術があったとして、自分がそんな服を着ているところを見たらきっと笑うんだろう。そんな予感がしていたからこそ、壱川は詳しく過去を話したいとあまり思わなかった。
 彼女に対してなら、口に出してもきっと大丈夫なのだろう。あの時何があって、何を思って、何をしていたのか。わかっていても、少し照れくさくて言葉に詰まる。
「……いや、ただその時、俺もその場にいたんだよ。なんならそれが、木野宮さんとの付き合いの始まりだったし」
「へえ、じゃあ随分古い仲なのね」
「今となってはそうなるな」
 壱川は思い出す。自分がまだ若かったころのことを。大学によく出入りしていた木野宮きのりと仲良くなるまで時間はかからなかった。ミステリー小説の話、世間を騒がせている怪盗の話。壱川もまた、夢追い人のようなものであった。つまらない毎日の中で怪盗の話題は刺激的だったし、すでに模倣犯も多くいた。壱川が怪盗になったのはほんの出来心のようなものだ。自分もそこに行けば、面白いことを見つけられるのではないかと期待していた。
 案の定それは面白かった。日々何をするか、どうやって盗むか、様々なことを考えた。自然とハマっていくうちに、壱川は更に面白いことを求めるようになった。
「その時、陽炎なんて呼ばれてる怪盗がいたんだ、そりゃ挑みたくもなる。俺も若かったからなあ」
「ふーん、なんか意外ね」
「そうかな。俺、案外負けず嫌いだよ」
 そうして考えたのが陽炎の予告状に合わせて、自分も現場に行くことだった。彼よりも先に狙っている品を盗みたかった。確か、絵画か何かだったと思う。彼は新聞を見ていち早く準備し、陽炎が現れるであろうその場所を訪れた。
 そこで木野宮きのりと出会った。大学で顔を合わせていたからお互いすぐにわかった。木野宮きのりもまた、新聞を見て陽炎を捕まえるべくそこにいた。どうやら警察に少しのコネクションがあったらしい。
 彼は見事に陽炎を捕まえた。問題はその後だ。バレたことをどう口止めしようかと考えていたら、木野宮きのりの方から、壱川に打診があったのだ。
 怪盗を捕まえる手助けをしてほしい。
 シンプルな申し入れだったが、最初は意味がわからなかった。話を聞けば、もう体力がないから代わりに怪盗を追い詰めたり、捕まえたり、怪盗の視点でのアドバイスが欲しいという話だった。壱川は面白い、と思った。探偵と組んで、怪盗を捕まえる。まるでダークヒーローのようだとすら思っていたかもしれない。
「まあ、あとは知ってる通りなんだけど」
「…………」
 瞬く間に木野宮きのりは有名になった。それは二人の予想を大きく超えて、連日新聞の見出しに載ったり、果てはテレビ出演にまで至った。勿論壱川の存在は伏せられているから彼は自室でそれを見て、誇らしい気持ちにさえなっていた。毎日楽しかったと思う。新たな予告状が出回るたびに、胸が躍った。今度は何をしようかと夢中で考えていた。
 木野宮きのりの願いは一つだ。彼の娘に、夢を与えること。幼いころから探偵になりたいと父親の背中を見てきた彼女に、少しでも夢を与えてやること。きっと娘も誇らしいだろうと思っていた。あの日までは。
「世間はどんどん賑わっていったよ。怪盗VS探偵なんてことに。いつのまにかその対立を望む人間も多くなった。行き過ぎたんだね、俺たちは」
 世間の声が大きくなる。次第にそれは過激になっていく。肌で感じるようになったものの、体感していたわけじゃない。日々、討論のようなものが行われ、人々は夢中になってそれを追いかけ続けた。
 それが、よくない結果を生んでしまった。
 今も思い出すと手が震える。目の前で殺されそうになっていた人間がいたことに。あの時もしも壱川が助けなければ、あの場にあったのは血の海と一人の少年の死体だけだ。想像するだけで恐ろしかった。そこまで過激な人間を作り出したのが、木野宮きのりと自分であることが。
 だから、なんとかしようと思った。せめて自分の手でできることはしようと。怪盗を必要以上に裁こうとする人間も、それに食らいつこうとする怪盗も、どちらも血を流し死ぬまでのことをしているだろうか。壱川はそうは思えない。彼らはただ世間の熱に押し当てられただけの被害者だと考えた。
 それが、刑事の道を歩もうと思ったきっかけだ。自分が怪盗を捕まえる側になること。できるだけ誰も血を流さずにいられるように努めること。それが、自分にできる精一杯の償いだと。
「……なんか」
 水守は頬杖をついて壱川を上から下まで見定めるような視線を送る。よくわからずに首を傾げると、水守は少しだけ笑った。
「アンタが怪盗やってたのって想像つかないわ、ほんと。東雲宵一みたいな服着てたんでしょ?」
「んん……」
 恥ずかしさにせき込む。今更隠しても仕方がないだろう。なんせ東雲に衣装のおさがりをあげて、水守はそれを見ているのだ。
「まあ、そうだね。ああいう服も着てたし……色々作ったりしてたよ、当時はね、当時は」
「ふーん、それって楽しいの?」
「そりゃあ、楽しいよ。自分が考えたことに大多数の人間が翻弄されて、全員が俺を見てる。なのに俺のことは捕まえられないんだ、おかしいだろ」
 あんなに堂々と目の前に出るのに、と。壱川は屈託なく笑った。
「アンタ怪盗が好きなのね」
「……え?」
「え? って何よ、そうでしょ? 今だって怪盗を守りたくてやってんでしょ? 十分好きじゃない」
「そうなのかな、いやまあ、そうか」
「やめてよかったの?」
「…………」
 予想外の質問だった。面食らって言葉を失う壱川を見て、水守は考える。
 東雲宵一を見ていれば、好きでやっているということがわかる。正直水守に気持ちはわからない。だが、毎日が退屈で刺激が欲しいと思うことは勿論ある。きっと彼らはその中で、刺激を得ることを選択した人間なのだ。
 目の前の男の選択を笑うことはしなかった。馬鹿だと思っても口にはしなかった。だが、彼は複雑な立場である今、いったい何を望んでいるのだろうといつも思う。
「アンタがやりたかったのは怪盗じゃないの?」
「まあ、そうだけど……」
「でも今刑事じゃない。裏で怪盗やってますってわけでもないんでしょ?」
「はは、まあ仕事も忙しいしなあ。それに……」
 思い出してしまう。銃口に囲まれた少年。あふれ出る血。憑りつかれたかのように激昂する老人。あの場にあるすべてが異様だった。少なくともあれは、壱川が望んだ未来ではない。
 衣装を貸してくれ、と東雲に言われた時は驚いた。あの服を捨てずにおいていたのは確かに未練だ。あの時、一番楽しかった思い出を捨てきれずにいる。だがその結果生まれてしまったものを思うと、袖を通す気にもならない。
 自分がこの服を着たから生まれたことだ。それなのになぜ、今もまだあの姿を追うことができるだろう。
「やったらいいのに、したいなら」
 それはシンプルな言葉だった。刑事として存在しているものの、壱川はまだ怪盗のつもりだった。そこにしがみついている自分がいることにも気付いている。だけど彼を怪盗たらしめるものは今何も存在していないということもわかっていた。
 だから水守の言いたいことはわかる。どっちつかずな自分が、今だ怪盗であることを名乗れるわけがないのに執着していることが不思議なのだろう。立場としては完全に怪盗ではなくなったはずだ。もうここ何年も、それを追う側としてここに立っている。なのに、自分を怪盗であると思いたいこの欲求はなんなのか。
「……そうだね、俺はまたあの日に帰りたいのかもな」
 ただ、楽しいだけだった頃に。何も考えず、夢中になれたものに。大人になった今も縋っている。ただ、それだけの話。
「でも今にも満足してるよ。同僚もいい奴ばっかりだし、綾ちゃんといると暇しないし」
「……そう」
 水守はそれ以上何も言わなかった。
 何も言うべきではないと思ったのだ。見透かすように壱川が自分を納得させるための言葉を吐いていると気付いていた。だけどそれが彼にとって必要なことなら言うべきではないと思った。
 勿論、相棒が怪盗なんてごめんだ。これ以上リスクを背負いたくないとは思う。それでも水守は―――……
「じゃあ、別にいいけど」
 彼が背負っているものが、少しでも減る日が来るのだろうかと頭の片隅で考えた。
 きっと今も内側で渦巻いているであろう様々な感情を思う。いつか目の前の男は、そのすべてに押し潰されるのではないかと。
 そんなことを考えながら、解決策の一つも思いつかないことを誤魔化すかのようにまた紅茶に口をつけた。