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猫猫事件帖 最終章 そして怪盗はいなくなる 参

 

 東雲宵一は心底苦い顔をしていた。
 高校生の時から一人暮らしを始めたから、家が静かであることにはもう慣れていた。ある日明乃と出会って、共に生活をするようになってから多少騒がしくなったものの、最近ではよく出かけるから部屋が静かな日もよくある。
 明乃一人くらいであれば、騒いでいても気にはならなかった。勿論怪盗なんてしているものだから家に人を招くこともない。一般人を招こうものなら、何かの間違いで盗んだ物を見られてしまえば一発アウトだ。
 そんな生活を送ってきたから、東雲はあまりにも騒がしい環境であることに苦い顔をしていた。必要なものは全て持ってきていると言えど、ゆっくりメカをいじるほど落ち着けないし、パソコンをいじるにしてもうるさくて集中できやしない。
「明乃ちゃんのご飯美味しい!!すっごく美味しい!!」
「えへへへ、良かったあ!これ結構練習したやつだけどちょっと緊張しちゃった」
「いや、ほんとに美味しいよ。お店開けそうだ」
「えへへへへへ、そんなあ、それほどでもお」 
「美味いな」
「うんうん、めちゃくちゃ美味い!!すげえ美味い!!人の作る飯ってなんでこんなに美味ぇかなーー!!」
「えへへへへへへへ」
「おかわりいただけるだろうか!!」
「勿論だよ!よそってくるね!いっぱい食べてね!!」
「お、オレもおかわりしたいからオレが行くぜ!」
「じゃあ私お茶持ってくるね!」
 食卓が賑やかなのはいいことだ。明乃も楽しそうだし、ご飯もいつも通り美味しい。
 東雲はもくもくと食べながら、木野宮邸で少しずつ溜まるストレスをなんとか精算しようとさまざまなことに思いを馳せる。
「あーー!!宵一さんまたトマト残そうとしてる!ダメだよう、いっぱい食べないと大きくなれないよう!!」
「うるせー、トマト出すなっていつも言ってんだろうが」
「宵一氏、好き嫌いはいけませんぞ!!」
「そうだよ東雲君、頑張って一口食べてよう」
「なんだ、その歳になってまだ好き嫌いか、アンタ」
「おいおい、うちの京佑は出されたものなんでも食べるぜ? ピーマン以外」
「ちゃんと食べやすいように味付けしてあるよ? いっぱい食べないと大きくなれないよ?」
「…………あーー!!もううるせーーー!!!!」
 東雲宵一は吠えた。これがあと何日も続くと思うと、頭を抱えたくもなる。

 


 猫猫事件帖 そして怪盗はいなくなる

 

 


 壱川から連絡を受けた東雲は、そのまま明乃を連れて木野宮邸に向かった。話は途中で終わったが、陽炎と呼ばれる怪盗が木野宮きのみを狙っていることくらいは察しがついた。
 明乃が当時新聞やニュースを見ていたかわからなかったから軽く説明したが、彼、もしくは彼女は案の定陽炎についてまったく知らなかった。
 木野宮邸に着き、東雲は二人にきちんと説明をした。どうやら木野宮きのみが狙われていること。その犯人は陽炎と呼ばれる人物であろうこと。その人物を知っていたのは宮山だけだったが、話がわかるなら十分だ。重い空気に包まれた居間には、静寂が漂っていた。
「……じゃあ」
 最初に口を開いたのは、木野宮だった。あからさまにいつもと違う声色に、宮山も明乃も困った顔をしていた。
「……彰ちゃんが入院してるのも、わたしのせい……?」
 宮山が急いで口を開こうとするが、何も言葉が出てこない。本当のことはわからない、ただその可能性が高すぎることくらいは、木野宮も理解していただろう。明乃はぎゅっと膝の上で拳を握った。友達が傷ついている時にかける言葉がわからなかった。だが、わからないなりに何かを必死に考えているようにも見える。
「いいか、お前がやるべきことは自分の身を守ることだけだ」
 東雲だけは表情を変えず、じっと木野宮を見据えていた。傷付けようとも思わないが、甘やかす気もなかった。
 だが東雲は知っている。陽炎が誰の手によって捕まえられたのか。宮山も勿論知っているだろう。つまり、奴の狙いが木野宮きのみではなく、木野宮きのりにあることも。
「怪我した事実は変わんねえし、泣こうが喚こうが時間は戻らねえ。わかるな?」
「……うん」
 小さく木野宮が頷く。本当に小さく、だが悔しさや悲しさで口元をぎゅっと結んで。
「でもこれでお前までどうにかなっちまったら、それこそ思う壺なんだよ。だから俺らはここに来た。おい明乃」
「えっ、あ、はい!」
「お泊まりを許可する」
「ええ!? あ、ええー!? いいの!?」
「ああ、当分ここに泊まる」
「ええ、えっと、でも、宮山さんとかって、その」
 その、あのう、と明乃が言葉を選んでいる。宮山は一瞬呆然としていたが、すぐに言葉の意味を理解して口を開いた。
「むしろ助かるよ。俺たちだけじゃ不安で夜も眠れないし。……ね、きのちゃん」
「……おとまり?」
「うん、明乃ちゃんが当分泊まってくれるって」
「…………ほんと?」
 顔は俯いたまま、木野宮がちらりと明乃の方を見る。明乃は必死に首を上下に振って、うんうんうんうんと何度も頷いた。
「私、ご飯作れるよ!お洗濯とかもできるし……お菓子も作れるし!そうだ、浅野さんたちも呼んで、お菓子作りとかもしよう!」
 それは、明乃の精一杯の励ましだった。それで木野宮が少しでも笑顔になればいいと、心の底からそう思ったのだ。
「……だから、お泊まりしてもいいかな?」
 ソファに座る木野宮の前で膝をつく。優しく手を握れば、いつも通り子供のように熱い体温が伝わってきた。
「……うん、お泊まりしたい!お菓子も作りたい!」
 木野宮がようやく顔を上げる。誰よりも宮山がホッとした顔を見せるが、明乃も同じくホッとして笑顔を見せた。
「何かあったら絶対守るからね!それに、私もお泊まりすっごく嬉しいから、いっぱい遊ぼうね!」
「うん!ご飯も楽しみ!!」
「何食べたい? なんでも作っちゃうよー!」
「唐揚げ!!唐揚げ食べたい!!」
「えへへ、それじゃ買い物行かなきゃねー」
「丁度いい、お前ら二人で買い物行ってこい、財布渡すから」
「はーーい!お菓子も買ってもいいですか!」
「……あんま無駄遣いすんなよ」
 ぽいっと投げられた財布を明乃がキャッチする。わーいわーいと手を合わせて喜ぶ二人は、早速買い物に行こうと手を繋いで部屋から出て行った。少なくとも明乃が一緒であれば、退けることくらいは容易だろう。
 東雲は溜息を吐いてソファに身を投げる。既に疲れたが、この後家から必要な物を持ってこなくてはならない。
「……急に悪かったな」
「いや、助かったよ。……ほんとに」
 宮山は、何かを考えているようだった。きっと木野宮のことを案じているのだろうが、東雲には関係のない話だ。
「お前も知ってんだろ」
「……ん? ああ、陽炎のこと?」
「ああ」
「まあ……当時木野宮さんもそんなに有名じゃなかったから、新聞とかに名前が載ってたわけじゃないけど、ファンの間では有名な話だよね。……もしかして東雲君も……ファンなのか?」
「いや違えよ!!怪盗なんだからファンとかあるわけねえだろ!!」
「いや、逆にファンだから対峙したくてとかあるのかなって思って……」
「発想がキメェんだよオタクの!!昔調べたらたまたま出てきただけだ!!」
 まったく、と東雲は脚を組もうとするが、痛みが走って不自然な動きになる。負傷した腕とは別に、昔に負った傷が今更痛む。
「案の定、木野宮きのりへの復讐だとかそういうのだろ。その張本人はどこにいるんだよ」
「……それは」
「? 家族なんだろ?」
 宮山は口をつぐんだ。知っているとしか思えない態度だが、東雲はそれを追求しない。この広い別荘のような家にはどうやらいないらしい。
「連絡したところで、すぐには来れない。と思う。正直あんまり詳しくは知らない」
「……怪しいな」
「いや、ほんとだよ。途中まで二人とも一緒に住んでたんだけど……」
 そう、最初は宮山がこの家に通う形だった。木野宮きのりは、たしかに娘のきのみと住んでいた。だがある日忽然と姿を消した……というわけでもなく、宮山にここのゲストルームを貸すから、代わりに木野宮の面倒を見てくれと頼まれたのだ。
「だから普段は俺が一階、木野宮が二階、みたいな感じで住んでるんだけど……ご飯だけはいつも一緒に食べてる感じかな。風呂とかトイレも別々だし」
「無駄に広い家だとは思ってたが、そんなんまであんのかよ。で? 張本人はどこに行くって?」
「いや、それが……」
 勿論、宮山も聞いた。いつ帰ってくるのか、どこに行くのか。
 木野宮きのりは答えなかった。遠くで、当分帰れない。だからその間木野宮を守ってほしい、彼女を支えてあげてほしい、と。
 最初は娘を心底甘やかす父親という印象だった。だがどうやら彼にも事情があるのだと伝わってきて、宮山は何も言わなかった。既に木野宮きのりとも、きのみとも短くはない付き合いになっていたからだ。
 彼が宮山を信頼してくれていることはわかっていたし、宮山もそれに応えたいと思った。
「つまり……マジでいねえってことかよ」
「そうなるね」
「じゃあどうすんだよ、どう考えたってアイツは木野宮きのり目当てだろ……って、まあいいか、ぶっ飛ばして縛ってまた牢屋にぶち込んでやる」
「……怪盗は同業者を売らないんじゃなかったか?」
「バーカ、んなもん向こうから喧嘩ふっかけてきて殺されかけたんだから通用するわけねーだろ。先にルールを破ったのはあっちだ」
 東雲は頭の片隅で、あの有名な探偵のことを考える。わからないことも、知らないことも多すぎる。だが、その余波を受けている木野宮きのみには少し同情した。
 彼女はこういうことがあるかもしれないということを、わかっていたのだろうか。
「とにかく、当分ここに住まわせてもらうからには家にも色々仕掛けさせてもらうぞ」
「いいけど爆発とかはやめてね」
「俺のことなんだと思ってんだよ!しねえよ人ん家にそんなこと!!」
「でも廃墟とか爆破させてたし……」
 ぎくりとして、東雲は誤魔化すように視線を逸らす。宮山は呆れたような顔で彼を見ていたが、次第に気持ちが落ち着いていることに気付いた。
「当分、よろしくお願いします。……俺はそういう襲撃とかあった時、何もできないと思うんで」
「おう、わかってる」
 こうして東雲たちが、木野宮邸で数日を過ごすことになった。
 宮山は木野宮きのみの心中を思い、しばし黙っていたがーーー……やはり同時に、自分がここにいれる理由を、何よりも憧れていた彼の存在を、思い出しす。
 彼はいったい今、どこにいて何をしているのか。
 わからない以上、宮山もここから逃げるわけには絶対に行かなかった。いや、わかるとしても絶対に逃げないだろう。
 宮山にとって、この場所は最も自分の目標に近い場所であり―――今となっては、それだけでは説明のつかない場所だから。


 * * *


 スマートフォンの明かりが、暗い夜道で深海京佑の顔を照らす。等間隔で並んでいる街灯の下をできるだけ歩きながら、深海は昔のネットニュースや掲示板を見ながら歩いていた。
 陽炎、と聞いて思い出したのは父のことだ。当時、やたらと父が忙しそうにしていてなかなか家に帰ってこなかったのを覚えている。同時にニュースで陽炎関連のことを騒がれていたから、なんとなく紐づいて覚えていた。浅野大洋もなんとなく覚えはあったらしく、先日助けた東雲宵一から説明された時は驚いているようなそぶりを見せていた。もしかしたら、過去の仕事で繋がりがあったのかはしれないが詮索はしなかった。
 ふと振り返るが、浅野はいない。一緒に買い出しに来たものの、途中で買い忘れがあると言って彼だけスーパーに戻って行ったのだ。浅野には強く一緒に来いと言われたが、深海はそれを拒否した。目的地がすぐそこだったこともあるし、何かあっても浅野が飛んでくるだろうという直観があった。
 もしも今襲撃されたら、という考えは頭に浮かぶ。この道をずっと真っすぐ行けば、先日東雲を助けた場所になる。だが不思議と怖くはなかった。その瞬間までは―――
「こんな夜に、一人で出歩くのは感心しませんね」
 不穏。
 それは、不穏と言わざるを得ない風。
 身に覚えのない感覚。今ここで、ただ立っているだけで存在感を放つ異常な存在。目的地に向かおうと前を向いた瞬間に現れた影は、深海に話しかけている。
 コツコツと、ゆっくり地面を踏む音。同時に影は、己の真っ白な姿を深海の瞳に映し出した。
「ご存じありませんか。最近この辺りで起きている事件を」
 その影、常盤社。真っ白な髪に、真っ白な燕尾服。夜を歩くにしてはあまりにも目立つのに、あまりに堂々と、あまりにも当たり前かのように影はそこに立っている。
「……誰だ、お前」
 深海は自分の額に汗が浮かんでいることにも、鼓動が速まっていることにも気付いていた。だがそれがなぜなのかはわからない。目の前の存在が、そこにいるだけで自分を圧倒しているという現象に脳の思考が追いつかない。常盤は柔和な笑みを浮かべて、深海の目の前に現れた。
「いえ、怪しい影が通るのを見かけたものでしたから」
「それはお前のことか?」
「ふふ、そうですね。十分私も怪しいでしょう」
「俺に何か用か?」
「いいえ? 言ったでしょう、怪しい影が通るのを見かけたのだと―――」
 常盤は変わらず笑顔で、深海の顔を見ている。深海も視線を逸らさないが、じっと彼を見れば見るほど操られてしまうのではないかと思ってしまう。
 だが不思議と脳は冷静だった。目の前の男は、先日会った陽炎とは似ても似つかない。他の目的があるのだとしても、そのうち浅野が飛んでくるから時間を稼げば何とかなるはずだ。
 深海も何でも屋なんていう仕事をしている以上、危険と隣り合わせになることはわかっていた。できるだけそのリスクを削ってきたつもりだが、いつかは危険な目に遭うだろうということも理解していた。
 だから浅野大洋がいる。
 絶対に自分にはできないことを、ありえないパワーでやってのける存在が。深海は無意識に後ろに神経を集中させていた。速く来い、と頭の中で呟く。
「そう警戒しないでくださいよ。これは先日の恩返しです」
「先日?」
「ええ、どうも知り合いが世話になったようでしたから」
 深海は考える。だが、いったい何のことを言っているのか見当もつかない。
「私に貴方と敵対するつもりはありません。今のところは、ね」
「だったら何の用があって―――」
「私、常盤社と申します。どうぞお見知りおきを―――」
「おーーい!京佑ぇ!」
 急いで振り返る。それは確かに、浅野の声だった。まだ姿は見えてないが、走って追いかけてきたらしい。
 大洋、と。口を開こうとした途端に、体に纏わりついていた不穏な風が消える。ふと視線を戻すと、そこにいたはずの常盤社は元から何もなかったかのように消えていた。
「一人で行ったら危ないって!なんもなかったか!?」
「いや―――……」
 今起きたことを伝えようか迷う。しかし結局深海は口を閉ざした。
 今この場にいた存在を、この場の空気を、あの異様な光景を伝える術がない。少なくとも言葉では、何一つ伝わらないまま終わるだろう。
「なんだ、汗かいてんのか? 今日そんな暑ィかなーーー」
「……別になんでもない、行くぞ」
「おー!チビどもが待ってるしな!!今日は泊まってっていいって言ってたぜ!」
「何作るんだ?」
「チーズケーキ!!きのみちゃんが好きなんだと、やっぱ元気ねえって明乃ちゃんが電話で言ってたよ」
 二人は既に、あらかたの事情は東雲から聴いていた。その上で、明乃から急に電話がかかってきたのだ。
 木野宮の元気がないから、どうにか元気づけてあげたい。一緒にお菓子を作りませんか。なんて可愛いことを言うものだから、浅野は考えなしに二つ返事で了承した。
 だから今日はこのまま、木野宮邸に向かってお菓子作りをする予定だ。
「いいな、チーズケーキ」
「あとモンブランも作りてえってんで色々買っちまったよ!まあ楽しみにしとけよ……って、京佑?」
「なんだ」
 浅野が深海の顔を覗き込む。深海は足を止めずに、スタスタと歩くのをやめない。
「大丈夫か? 顔色悪いぞ」
「平気だ」
「体調悪いのか? なんだったら今日は断って―――」
「いや、なんでもない」
 言って、素知らぬ顔をしつつも深海はわかっていた。まだ体に少しだけ残る異様な空気に酔っている。まるで自分が見たことがないような存在に、ずっと心臓を掴まれているような。
 浅野が来たとして、戦って勝てたのだろうか。いつもなら容易に描けるはずのビジョンが、まったく頭に浮かばない。
 深海はできるだけ考えないようにした。アレが何であったのか―――一体、何をしに来たのか。常盤社。その名前を何度も頭の中で反芻しているうちに、気付けば二人は木野宮邸の前にたどり着いていた。

 

 * * *


 深夜一時。あんなに賑やかだったのが嘘のように木野宮邸は静かになっていた。
 ベッドの中で木野宮きのみは思い出す。あんなに大人数で食べるごはんは久しぶりだった。唐揚げは美味しかったし、作ったケーキも美味しかった。明日になれば、まだ寝かしているチーズケーキだってある。
 考えると自然と笑顔になった。大好きな人たちと同じ屋根の下で生活できるなんて、なんて嬉しいんだろう。まるで修学旅行のような気持ちになって木野宮の心は踊る。
 結局、寝るのはいつも通り一人にすることにした。大人たちはまだ起きていて、できるだけ一人は起きているから何かあれば声をかけていいと言われている。相棒のクマのぬいぐるみを抱き締めて、木野宮は目を閉じる。
 だが、目を閉じて眠ろうとすると、静かであることが気になった。脳裏に彰の姿が思い浮かぶ。彼女が病院で横たわる姿も、学校の友達が怪我したことも、東雲がたまに腕を上げると痛そうに顔を歪めるのも、すべて脳に焼き付いて離れない。
「……お父さん」
 自然と呟いていた。大好きだった父。いつも優しくて、仕事熱心で、木野宮に仕事の話を聞かせてくれた。
 宮山がここに住む前までは、忙しくて家にいない時間も多かったが。それでも父は木野宮に丁寧に接してくれた。できるだけ時間を作り、それでもたまに申し訳なさそうに笑うのだ。
 木野宮はベッドから起き上がった。壁にかけているチェック柄の帽子とポンチョをとる。これも父がプレゼントしてくれたものだ。いつも探偵ごっこをする木野宮に、ある日特注で作ったのだと言って贈ってくれた大切なもの。
 パジャマの上から帽子とポンチョを羽織る。自室にある全身鏡に映る自分は、なんとなく不格好だ。とても名探偵には見えない。
「やはり女子高生探偵として制服は必須……!」
 夜中であるにも関わらず、木野宮は制服に袖を通した。そしてまたポンチョを羽織る。いつも通りの自分が、鏡に映っているのを見ると安心する。
「やはりこれですな!」
 腰に手を当てて自慢げに独り言を呟いた。当たり前だが返事はない。
「…………」
 あの時。東雲が家に来て、事情を説明した時。もしくは、廃墟のような場所で彰と対峙した時。
 その時の宮山の顔が脳裏に浮かぶ。驚いたような、困惑したような、どこか傷付いているかのような。一つ思い出せばまた次々と浮かぶ。楽しかったことも、そうでないことも、すべて含めて。
 木野宮は頭を左右に振り乱して、それから窓を開けた。夜風がとても気持ちがいい。少しの間風に揺られて、それから木野宮は決心したように窓から体を乗り出した。
 広い屋根を少し伝うと、庭から屋根にかかる梯子がある。屋根の修理をするときにかけたものを、そのまましまい忘れているのだ。木野宮はそれを宮山には黙って、時折夜中にコンビニに行くのに使ったりする。まだ、梯子はかかっていた。慣れた様子でするすると降りる。すぐに庭に着地して、それから木野宮は門を静かに開けた。できるだけ音を立てないように気を配ると、悪いことをしているようで心がむずむずする。
 そして、自分が住む家を見上げた。
 まだいくつか明かりがついている部屋がある。彼らはまだ起きているのだろう。だが静かなところを見ると、誰も木野宮が外に出たことに気付いていない。
 逃げるように夜道を走る。行く当てがあるわけではない。最後には家に帰るつもりだ。だが直観が木野宮を動かしていた。ここで外に出れば、やみくもに走っていれば、それで「出会える」という直観が―――
「……わたしだよ」
 アスファルトに木野宮の影が映る。街灯だけでは少し心もとない暗さだ。怖くないわけじゃない。だけど声は震えなかった。
「わたしだよ!!ここにいるよ!!」
 目いっぱい叫んだ。他になんと言えばいいのかわからなかった。だがそれに応えるように、アスファルトにもう一つの影が映る。
「…………」
「……こんばんは!」
 真っ黒な影。頭のてっぺんからつま先まで、真っ黒な衣装に身を包んだ影そのもの。異様な雰囲気に恐怖がせり上がるが、木野宮はそれをせき止めて拳を握った。
「あなたが彰ちゃんに酷いことしたの?」
「……」
「……わたしのことを狙ってたの?」
 影が木野宮に近付く。だけど木野宮はひるまない。何も考えていないからではない。そこに、明確な決意と意志があるからだ。
「違うよね」
 目が合った。木野宮は絶対に目を逸らさない。影も負けじと、その視線をずっと逸らさない。
「お父さんを、探してるんだよね」
「……わかっていて出てきたのか?」
 掠れた男の声だった。影は呆れたような声を出しながら、木野宮を見降ろしている。
「うん、わかってた」
「なら、どうするつもりだ? この場でお前の父を呼ぶか?」
「ううん、呼ばないよ。呼べないもん」
 男はぼりぼりと乱雑に頭を掻いた。どこか人間らしく見えるが、顔は包帯が巻かれていて表情が読めない。
「ここまですればお前が父親に泣きついて、あの男が出てくると思っていたんだが……」
「しないよ、できないもん」
「攫われるとは思わなかったのか」
「わかんない、でも今会わなきゃって思ったから」
「俺がいるとわかっていたのか?」
「ううん、勘!!」
 陽炎は溜息を吐いた。どうやら呆れているらしい。だが木野宮は変わらぬ声で、変わらぬ態度で、自分よりもはるかに背の高い男を見上げていた。
「わたしじゃダメかな」
 それは優しい声だった。まるで自分の敵に話しかけているとは思えない、少女の素直な声だった。
「わたしが、あなたの勝負を受けるのじゃ、ダメかな」
「本気で言ってるのか?」
「うん、本気だよ。お父さんは何しても出てこないよ、きっと。だからわたしが―――」
 本気で言っているということくらい、目を見ればわかった。彼女の目はかつて対峙したあの男―――木野宮きのりが、陽炎の腕を掴んだ時にそっくりだった。
「わたしが勝負を受ける」
 気迫があるわけではない。何か策があるようにも見えない。だが、苦し紛れに言っているというようにも見えなかった。しばし沈黙が続く。不思議な光景であったが、木野宮はその場から動かない。
「……馬鹿を言うな、俺はあの男でなければダメなんだ」
 陽炎は、震える声でそう言った。憎しみや怒りに近いものが、声を震わせているのだとわかる。しかしそれはどこか喜びも混じったような、あまりにも人間らしく、あまりにも残酷な。
「お前には餌になってもらう、必ずあの男を、俺は―――!」
 男の影が伸びる。何も持っていないその手が、木野宮を連れ去ろうと彼女に向けられる。
 何もされないと思っていたわけではない。誰かが助けに来てくれると確信していたわけではない。だが木野宮は、怖がらなかった。
 陽炎は不気味に思う。年端もいかない少女が、なんの力もない少女が、服を掴まれ今まさに連れ去られるというその瞬間に、それでも怯えずに目を見ていることに。
 ほんの一瞬だ、ほんの一瞬それに戸惑っただけだ。だがその隙に、力が抜けた手から木野宮が消えた。
「……ッ」
「まったく、あんまり冷や冷やさせないでくれ」
 影が増える。だが陽炎は、その影にも見覚えがあった。勿論木野宮も見覚えがある。木野宮は陽炎の手から離され、いつの間にか別の男に肩を支えられていた。
 見上げれば逆光で顔が見えない。だが印象的な髭と、いつも決まった格好をしているからすぐにそれが誰かわかった。
「刑事さん!!!」
「やあ、こんばんは木野宮さん」
「……お前ッ!!お前!!!」
 陽炎が唸る。男―――壱川遵は、木野宮を後ろに下がらせて、彼を睨み付けた。
「若い子に手を出すのはよくないな、いい大人だろ? 俺も、お前も、あの時に比べたら」
 街灯に照らされて、二人の視線がぶつかる。
 静かに、冷たく、だがどこかに怒りを秘めたような声で、壱川は言った。
「嫌になるね、本当に」

 


つづく