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猫猫事件帖 最終章 そして怪盗はいなくなる 最終話


「……後悔した方がいい。私たちがやったことは八百長のようなものだ。君と手を組んでいなければ、きっと私はこんなに有名になれなかった」
「そんなことは―――」
 壱川遵は言葉に詰まった。彼が言いたいことも勿論わかっていたし、それに反論するのもおかしなことだと知っていた。
 だけどどうしても否定したくなった。壱川は知っている。彼の願いも、本質も、その日々に悪意などなかったことも―――
「…………俺は、間違えていましたか?」
 今にも押し潰されそうな声だった。選択を間違えたと自分で思ったことはない。人生の中で一番心が躍る日々だった。楽しくて、刺激的で、それの何がいけなかったというのか。誰でもいいから、間違っていないと言って欲しかった。木野宮きのりと過ごした日々は、すべて正しいものであったと。
 木野宮きのりは何も言わなかった。それが答えなのだと思って壱川は自身の手で顔を覆った。無邪気に、子供のように、楽しいというそれだけが罪になった。世間は二人の手を離れ、ひたすら残酷に熱を帯びていく。今こうしている瞬間にもまだ、彼らは熱をぶつけ合い、互いに潰そうとしあっている。それは意図したものではなかったし、勿論そうなってほしいなんて思ったこともない。だけど彼らにとってそんなことは関係がなかった。
 今こうしている間にも、誰かが血を流しているかもしれない。そう思うだけで、小さく指先が震えた。
 その発端となったのは間違いなく壱川と目の前の男だ。もう言い逃れなんてできるはずもない。自分たちの行いが、怪盗と探偵の対立を煽ることになってしまったのは事実だ。
 だけどそんなのあんまりだ、と叫んでしまいたくなった。今すぐにここから逃げ出してしまいたい気持ちと、どうにかあの楽しかった毎日を正当化したい気持ちで胸が潰れそうになる。
「壱川くん、大丈夫だ」
 木野宮きのりはいつの間にか、壱川の前に膝をついていた。やめてくれ、と声に出そうになる。
 自分はあなたに膝をつかれるほどの男じゃない。
 今にも泣きそうな壱川の手を、木野宮は取った。それはまるで、子供をたしなめる親のように。
「間違えていたのは私だ、君じゃない」
 強い瞳だった。彼は今、世間がこうなっても尚まだ立ち向かえる勇気を持っていた。彼が探偵を辞めたいわけがない。だけど、壱川は彼の選択を止めることはできない。その決意が絶対に揺るがないものだと知っていたから、彼の隣に立っている自分を奮い立たせるしかない。
 もう会うことはないのだろう。二度とあの日々は戻らないのだろう。自分があの衣装に袖を通すことも、この男の隣に立つことも。
「木野宮さん、それでも俺はずっと―――」
 

 


 猫猫事件帖  そして怪盗はいなくなる

 

 

 

「まったく君も無茶するな、みんな心配してるよ」
 壱川は手に持ったナイフで木野宮きのりの腕を縛り上げていたロープを切る。木野宮は自由になった腕をぐるんぐるんと何度も回して、バッと壱川を見上げた。
「ありがとう!!」
「うん、元気そうでよかった」
 木野宮はじっと壱川を見る。どうやら、衣装が物珍しいらしい。それもそうだろう、この衣装に袖を通すのが何年ぶりか、壱川自身すらも覚えていない。
「……ちょっと恥ずかしいから、あんまり見ないでもらえると助かるんだけど……」
「すごくかっこいいよ!すっごくかっこいい!怪盗みたい!!」
「まあ、そうだからね……」
 木野宮の帽子から生えるリボンが嬉しそうにぶんぶんと回り続ける。壱川はそれを見なかったことにしてから、陽炎の方に視線を送った。
 怒り、憎しみ、それ以外の何かだったとしても、決して良いものではないだろう。陽炎はそのすべてを渦巻かせた瞳で、壱川を睨み付けた。何かを小さく呟いて、唸る。その繰り返しの中で、彼はようやくハッキリと言葉を口にした。
「お前のような男が……お前がいたから、木野宮きのりは……」
「…………」
 突き刺さるような言葉だった。それを無責任だとも、理不尽だとも思わない。壱川は確かにわかっていた。あの男と出会ったことが、あの男と手を組んだことが、確かに自分だけではない様々な人間の運命を狂わせてしまったことを。壱川は確かに認めていた。誰もが熱狂した名探偵・木野宮きのりの裏側に、自分という真っ黒な影があったことを。
 それでも壱川は否定し続けた。あの時、あの男と過ごした毎日は間違ってなどいなかったと。
「一人で逃げれるか?」
 壱川は木野宮に耳打ちした。木野宮は何度も頷くが、少し陽炎のことを気にするように視線を行き来している。きっと彼女は本気なのだろう。木野宮きのりの代わりに勝負を受けると言っているのは、彼女なりの覚悟であり、彼女の夢に追いつくための一歩だ。それを否定するつもりはない。だが、実行するにしてはあまりにも彼女は幼かった。
「さあ、行ってくれ。ここは俺に任せてさ」
「……わかった!」
 彼女もそれをわかっていたはずだ。心のどこかで、自分では敵わないということくらい、知っていたはずだ。それでも逃げなかった彼女を叱らなかったのには理由がある。
 あの日を思い出してしまった。彼が引退を決意した日を。お互いがここまでなのだとわかっていた。それがつまりは彼と自分の引退を意味するのだと知っていて、尚も木野宮きのりは力強い目で訴えかけた。
 だからそれに応えたかった。それだけの話なのだと、言い聞かせて壱川はゆっくりと息を吐く。
「お前が彼に執着するのもわかるよ」
「わかるわけがないだろう、お前ごときに」
「いや、わかるよ。俺も同じだ、お前と」
 いつまでも、既になくなってしまったものに縋った。意味があるのかないのか、自分でもよくわからないまま。何度も血の流れない世界を祈ったし、何度も許してほしいと願った。
 ただ怖かっただけだ。人が傷付くのも、自分が傷付けられるのも、何よりもそれがあの男のせいだと言われる日が来てしまうことが。
 だけど壱川遵は知っている。世界はそれだけで構成されていない。壱川の知らない人間が、物が、景色が、世の中に溢れ切っていることを知っている。世間がどうなろうと、何が起ころうと、例えそのすべてが変わらなくても、壱川を取り巻く人間も景色もすべて変わっていってしまうのだと。
 そしてその中には喜ばしいものもあるのだと。いつも壱川に不機嫌な顔を向ける女性を思い出すと、口元が緩んだ。
「まあ、いいじゃない。可愛い後輩にご指導くらいしてくれても」
「お前のような男がいたから!!」
 陽炎は怒鳴りながら手を振った。小さなナイフが壱川に襲い掛かるが、マントを翻せばその中に飲み込まれるように消えていく。木野宮を追われるのが一番まずいが、仲間がいないとも限らない。壱川は脳内で様々なことを考えながら、手に持っていたナイフを投げ返そうと腕を上げた。
 だが、腕が上がり切ったところで止まる。止めたわけではない、動かないのだ。何かに引っかかったかのように、壱川の体が制止する。
「…………」
「あの時と変わらないな、何も変わらない、その程度で私に挑もうとすることがそもそも―――」
 醜悪な笑みを浮かべて、陽炎は揺れた。あの日、あの時、この場所で。まるで同じようにあしらわれて、まるでお前には興味がないと言うように彼は壱川を見ることすらなかった。
「成る程、確かに腕はあるな。あの時の俺じゃ敵わないわけだ」
 軽く腕を引っ張ってみるが、動かない。陽炎は不気味に揺れながら、壱川の元へとたどり着く。
「だが、時代遅れだな」
 バツンと何かが引きちぎれるような音。同時に壱川は動かなかったはずの体を思い切り動かして、その足を彼の腹に叩きこんだ。陽炎の体は容易く吹き飛び、窓のない壁に思い切りぶつかる。今度こそナイフを彼に向かって投げれば、陽炎の服が床に縫い留められるような形で突き刺さった。
 何も話すことなどない。何も教えることなどない。事実も、現実も、あるいは壱川が知るすべての真実も。だから何も言わなかった。彼の罵声を浴びても、今は何一つ響かない。
「……クソ!クソ!クソ!」
 掠れた声を響かせながら、それでも狂気に駆られた目は未だ諦めていなかった。彼は心のどこかで知っているのだろう、と思った。
 どこにいるのかも、何をしているのかもわからない男は、きっとここへは来ない。誰が呼ぼうと、何を盗もうと、もう決して表に現れることはないと。
 壱川は目を細める。その事実に叫びたくなることが、壱川もある。心のどこかでまたあんな毎日が訪れるのではないかと思えば思うほど、二度とない事実に言葉を失う。
「お前じゃあの人と、滝で心中なんてできやしないよ」
 あとは縛って警察にでも引き渡せばいい。思いながら立ち上がろうとする男に近付く。
「……ふざけるな、俺が望むのは木野宮きのりとの再戦だけだ……」
 壱川の耳に、その声は届かなかった。だが、彼が何をしようとしているのかすぐに気付く。止めようと駆け出すがそれも虚しく、陽炎はその体を歪めて波のように揺れた。
 目の前で彼が消えるまでは一瞬だった。縫い付けられたマントだけが床に残る。焦燥がせり上がるが、なんとかせき止めて壱川は振り向いた。
 彼が向かうとしたら、今まさに逃げようと走っている少女のもとしかありえない。今度こそ、無事ではいられないかもしれない。考えるよりも先に体が動く。走り出しながら、壱川は頭の片隅で気付いていた。
 今感じているこの焦燥は本物だ。誰も傷付いてほしくないと願ったことは、形を変えて、方向を変えて、それでも壱川の中に残っている。
 この感情には言い訳も理由も何もない。これが自分に残った、唯一本当であることなのだと。
 怪盗であることは、もう彼にとって必要ではなかった。それは、過去に縋りつくために用意したたった一つの言い訳だったから。それがなくとも、残るものがあるとわかったのなら、もうこの服に袖を通すことはないだろう。

 


 * * *

 


 木野宮きのみは停止した。走って疲れたのもあるが、それだけじゃない。
 廃墟と化したビルの階段を下り続けて、息が上がったからでもない。彼女は感じ取っていた。自分の背後に誰かが来ること、自分ではない誰かを求めて、あの男がまたここに来るのだと。
「…………」
 上がった息を整えながら振り向いた。やはりそこには、どこから現れたかわらかない全身を闇に包んだ男が立っている。
 ここに来た時よりも冷静じゃない顔付きだった。血走った目が木野宮を捉えて、離そうとしない。
 木野宮はわかっていた。逃げられないことを。例え逃げたとしても、またこういうことが何度でもあるのだろう。父が残した縁は、きっと彼がいない今自分に降りかかって纏わりつく。
 宿命のように、逃げても逃げても追いかけてくるだろう。だから木野宮は逃げないことを選択した。ならばすべて自分が背負っても構わない。そうして立ち向かい続けた先に、きっと父の背中がある。
 面白いことも、楽しいこともたくさんある。だけど悲しいことも、苦しいことも数えきれないほどあるのだろう。少なくともあの日、見知らぬ男と話していた父は悲しそうにしていたから。
「お前を連れ去る、皮の一枚や二枚剥げばあの男も青ざめて飛んでくるだろう」
「………………」
 木野宮は陽炎を見上げた。彼にもきっとあったはずなのだ。楽しいことも、悲しいことも。たくさんのことがあって、ここにいるはずなのだ。
「そうだといいなって思うよ」
 だけど今現在、彼は苦しんでいるようにしか見えなかった。それがどうすれば晴れるのか、家の中でずっと考え続けていた。答えは出ない。自分ができることなんて、ほんの小さなことしかない。
「でも、させないよ。例えお父さんが飛んでくるんだとしても、それってすっごく嬉しいことだけど」
 いつも助けられてばかりだった。宮山に、もしくは他の友人たちに。木野宮きのみは普通の少女だった。ずば抜けた身体能力も、頭脳も、何も持たない至って普通の少女だ。
 そんなことは知っている。だけどそれは、目の前に立ちはだかる男から逃げる理由にならない。
「もう少し、待ってくれないかな」
「何?」
「わたしね、今できることって全然ないの!あ、でも事件解決したことはあるよ!前に教会で、ステンドグラスが割れちゃって、それでね、そのステンドグラスが消えちゃったんだけど―――」
 少女は心底楽しそうに語った。父の背中を追う内に、自らにある好奇心がどんどんと膨れ上がっていった。
 事件も、怪盗も、助手も、すべて木野宮にとっては夢の世界の憧れの出来事だったが、今ではそうじゃない。そのどれもが現実で、確かなことで、近くにあることなのだ。
 とんでもなく楽しかった。目に見えるものすべてが素晴らしいもののように思えた。だから木野宮は臆せずにいられる。父の背中に追いつけるのかどうかなんて、自分にできることがないなんて落ち込む暇がないほどに、木野宮の世界は常に騒々しく、新鮮なことの連続だから。
 きっとみんなそうなのだ。うつむいていては見えないものを、見落としているだけなのだ。だから木野宮は誰にでも手を差し伸べる。誰にでも笑いかけるし、誰とでもたくさん話がしたい。
「大人になったら、きっともっとできることが増えてるから」
 その時に父と並べるほどになっているのか、追い越すほどの探偵になれているのか。それは今の木野宮にはわからないが、そうであってほしいと願う気持ちがある。
「だから、その時になったら遊ぼう!」
 陽炎は、木野宮に向かって伸ばしていた手を止めた。
 それは確かにあの日の記憶だった。人生で唯一自分を捕まえるに至った男が、膝をついて呆然とする陽炎に確かに言ったのだ。
 君は頭がいいんだな、今度会う時はチェスでもしよう。
 彼は笑っていた。馬鹿にされたのだと思い怒りに狂った。だけど独房の中で、その言葉を何度も反芻して何度も思い出した。そんな日が来るのだろうか。それはきっと刺激的な毎日とは程遠いだろう。だけど魅力的だった。彼はきっと、本気でそう言っていた。彼は、ずっと楽しそうにしていたのだ。対峙した時も、トリックを見破った時も、捕縛したその時でさえも。それはまるで子供が、純粋な好奇心と冒険に身を投じているような。
 彼と、同じだった。無邪気で純粋な、ただひたすらに何かを追いかけているような目が。決して逸らされない、陽炎自身の内側を射抜くような目が。
「……どいつもこいつも」
 苛立ちに似た何かが内側からあふれ出てくる。木野宮きのりは、表の世界から消えていた。それが今の陽炎にとってのすべてであるはずだ。
 沸き立つ感情に呼応するかのように、ビルが揺れる。天井からは小さな破片が無数に落ちてくる。木野宮はあたりを見渡したが、陽炎はそれを何一つ気にせずに佇んでいた。
 ビルの揺れは止まらない。次第に揺れも、地響きのような音も大きくなっていく。
「木野宮きのりでないといけないのだ!!あの男でないと意味がない!!人生で私を捕まえたのはあの男だけだ!!」
 自分を奮い立たせるような声。まるで、無理やり怒りに包まれようと藻掻くような悲痛な声だった。
「私のトリックを見破ったのも、捕まえたのも、あの男にしかできなかった!!あの男でなければ……!!」
 木野宮が驚いたような顔を見せてすぐに彼の後ろに黒い影が重なる。同時に、階段の踊り場から陽炎は吹き飛んだ。大げさな程に飛んだ体は、木野宮の後ろへ転がって地面に叩きつけられる。
「……しぶといなあほんと」
「刑事さん……!!」
 息を切らして追いついてきた壱川が彼を吹き飛ばしたのだと理解するまでに時間はかからなかった。だが、木野宮は壱川が負傷していないことを確認して、すぐに後ろに吹き飛んだ陽炎の元へ駆け寄ろうとする。
 が、壱川がその手を掴む。木野宮は引っ張られるような形でその場に留まらざるを得なかった。焦って振り返る。壱川は汗をかきながら、彼女の目を見た。
「逃げよう、ビルが崩れる。何か仕掛けられてたのかもしれない」
「でも……」
「わかってる。だけど今は君が怪我をせずに、ここから脱出するのが優先だ」
 木野宮の手を引いて、壱川は出口へ向かおうとする。彼女はそれに抗おうとしなかったが、小さく口を開いた。
「壱川さん」
 壱川が振り返る。何を聞かれても、何を言われても、仕方ないという覚悟はあった。だけど彼女は責めるような目をしていない。むしろ、小さな輝きをいくつも携えた目で、彼を見上げていた。
「お父さん、嘘じゃなかったの?」
「…………」
「カゲロウさんが言ってたこと、ほんと? お父さんは……」
「ああ、そうだ」
 木野宮の手を包み込む。壱川は彼女の前で膝を付いて、ゆっくりとその眼差しに応えた。
「お父さんは、本当にすごい人だったの?」
 泣きそうな目にも、喜びに満ちた目にも見えた。疑う気持ちも、期待する気持ちも。きっとたくさんのものがその目に詰まっている。
「……ああ、そうだ。君のお父さんは、すごかったんだ。俺はずっと―――」
 脳裏に、あの日のことが蘇る。彼女の父は言った。間違えていたのは私なのだと。認めるような、懺悔するような、それでもまだ抗おうとしている、そんな彼の視線を思い出した。
 だから壱川は言った。あの日彼にも言った、その言葉の続きを。
「俺はずっと、誇りに思っているよ」
 ビルが大きく揺れる。壱川は彼女の返事を聞かずに体を持ち上げて、ひたすらに出口に向かって走った。正直、床で呻いている男のことなど気にしている暇はない。
 木野宮だけは未だに彼を気にして視線を向ける。不意に視線がぶつかった気がしたが、それもすぐに遠くなって自信がなくなった。
 だけど予感がしている。彼はきっと、ここから出られるだろう。そしてまたいずれ、木野宮の前に現れる時が来る。その時は―――
 その時はもっと、たくさんのことを話せるだろうか。

 

 

 * * *

 

 

 揺れるマントも見えなくなった頃に、男はなんとか立ち上がった。体中が痛むが、動けないわけではない。
 いずれビルは崩れるだろうが、その前に脱出するくらいは容易だった。むしろ、自分が仕掛けたわけでもないのに唐突に崩れ始めたビルに疑念が渦巻くが、今は脱出を優先した方がいいだろう。
 生きていれば何度でもチャンスはある。
 陽炎は独り言のように悪態を何度も何度も呟きながら、出口に向かうべく痛む体を動かし始めた。
 目的は達成できなかった。だが仕方ない。今度は必ず邪魔の入らないように、念入りに作戦を練って、また必ずあの男と対峙せねばならない。
「……クソ、邪魔ばかりしやがって」
「おや、それはすみません」
 独り言のはずだった。誰に対して言ったわけでもない言葉のつもりだ。先ほどまで会話をしていた人間はすべてこの場から消えているはずで、返事など返ってくるはずがないのだ。
 陽炎は振り返る。まるでそこに、最初からいたかのように佇む白い影―――常盤社は、崩れ行くビルの中心で、涼しい顔で彼を見ていた。
「お前の仕業か」
「誰の仕業かと聞かれたらそうかもしれません」
「相変わらずつまらないことをする」
「それは貴方の方では? たかが一人の男に執着して、一般人まで巻き込むなんて―――」
 感心しませんね、と。
 影は笑っていた。だがそれが笑顔ではないことを陽炎は知っている。何も感じさせず、何も読み取らせない。常盤の目は、確かに笑っていない。
「なんだ、まだ秩序だ、制裁だと言っているのか?」
「ええまあ、それが私の成すべきことですから。……悲しいですよ、貴方のような方が、こんなことに手を染めてしまうなんて」
 常盤は少しずつ、ゆっくりと陽炎に向かって歩いた。まるでビルが崩れている方が嘘のように思う。一度不気味さに気付いてしまえば、恐怖に支配されるのは簡単だった。
「それで私を制裁に来たのか!? 始末すると言うなら、私も全力で―――」
「ああいえ、それもありますが」
 気付けば常盤社は、男の目の前に立っていた。いつの間にと声を出す暇もない。不穏な風が男を取り巻いて、視線を逸らすことすら許さない。
 だと言うのに、常盤はにこやかだった。
「今日はほとんど私情です」
 男の体が飛ぶ。本日三発目の蹴りを体に食らって、肌を隠すように巻いた包帯に血が滲んだ。
 逃げなければ。
 本能が告げる。逃げろ。どこにでもいい。今すぐに動かないと、次の瞬間には死んでしまう。
 陽炎は冷静になろうと息を吐きながら出口に向かう。常盤の方を見る余裕もなく、壱川たちが向かった方と同じ出口であることを気にする余裕もなく。
 だが、それさえも阻まれる。まだ出口が見えてすらいないというのに、そこには一人の少女が彼を待っていた。
 セーラー服に、真白なマント。黒髪を手で弄びながら、少女は男を見る。
「……私に言うこと、あるよね?」
「そこを退け!!」
 壁から背を離して、少女は溜息を吐いた。頭に巻かれた包帯を指先で撫でて、それからにっこりと端正な顔に笑みを張り付ける。
「私がやられっぱなしで黙ってる女の子に見えた? そんなにか弱くて可愛く見える?」
「なん……」
 陽炎はそこで思い出す。木野宮きのみに関わる人間を少しずつ狙っていた時のことだ。
 ほんの少しでよかった。多少傷つける以上のことをしようとは思わなかった。だがその少女は魔法のようなあらゆる手を使い、陽炎を翻弄しようとしたのである。
 結果手加減ができなかった。想像以上の負傷をさせてしまったという後悔はあった。だが、彼女が同業者であることも勿論わかっていたし、この程度で死なないことも知っていた。
「ムカつく、消えて」
 その少女が今、自分の目の前でマントを翻している。
 反応するよりも早く、海のように広がるマントに影は飲まれた。叫ぶ声すらも吸収して、マントはどこまでも広がっていく。そしていきなり収縮したかと思うと、マントは陽炎の体を思い切り締め付けた。
 全身に痛みが走る。負傷した部分がえぐられるような感覚にもだえる。少女は涼しい顔をしてそれを見ながら、自身の髪をたなびかせて出口へ体を向けた。
「おや、この程度でよかったのですか?」
「一発でいいって言ったでしょ」
「無理はなさらず。まだ傷が痛むんでしょう」
 いつの間にか隣に立っていた常盤を睨み付ける。彼は未だに口元に笑みを浮かべて、しかしどこか満足そうにも見えた。
「後は貴方の仕事でしょ? 私もう帰るから」
「そうですか。帰ったらティータイムにしましょう。お腹が減っているでしょうから」
 常盤が指を鳴らせば、崩壊するビルの中には誰もいなくなった。音を立てて崩れていくその場所には、最早何も残っていない。

 


 * * *

 


「みややまくーーーーん!!!」
「木野……ぐはッ!!」
 顔や服を盛大に汚して、それでも木野宮は嬉しそうに走って宮山紅葉の体に体当たりした。
 なんとか受け止めようと踏ん張ったが、宮山の力で受け止めきれるわけもない。彼は簡単に地面に倒れて、それでもしっかりと木野宮のことを抱き締めていた。
「すごかったんだよお!あのね怪盗がいてね!それで怪盗と怪盗が戦ってね!!あとねそれとねお父さんがね昔あそこで―――」
「ちょ、待って、暴れないで」
「壱川さんがねかっこよくって、それでねそれでねお父さんってね本当はあんなこと言ってたけどやっぱりすごくって―――」
「ま、痛、暴れないで、木野宮、ちょ」
 暴れる木野宮をなんとか静止しようとするが彼女は止まらない。それはまるでいつも通りの日常のようで、宮山は全身から力が抜けていくのを感じていた。
「すごいでしょ!?」
 木野宮が言う。しっちゃかめっちゃかすぎて何を言っているのかわからなかったが、とにかく彼女が無事であることと嬉しそうなところを見ると、なんとかなったらしい。
 宮山は体中に溜まっていた緊張を深く吐き出した。近くでビルが崩れ始めたときはまさかと思って焦ったが、どうやらそのまさかだったらしい。
 彼女を見上げる。やはりいつも通り、危険な目に遭っただろうに嬉しそうで楽しそうに、彼女は笑っているのだ。
 怒る気にもならない。いや、怒ってもきっと仕方がない。彼女は何度叱ろうと、何を言われようと今後もこうして立ち向かおうとするのだろう。
 そこにあるのが好奇心だけなのか、はたまたもっと深い何かがあるのか。宮山は知りえないが、しかしそれでもよかった。
「……無事でよかった」
 大の字で寝そべる。外だということも、人の視線も気にならなかった。たったそれだけが宮山にとって大事なことだったから、それ以外はもう何でもいいと投げ出してしまおう。
 木野宮はまだ聞いてほしいことがあるようで、それでねそれでねと話をひたすら必死に続けている。
 気の済むまで話せばいい。彼女の顔を見れば、大抵のことは解決したのだろうと察しがついたから。それから、満足したら家に帰ればいい。きっと、ご飯を大盛食べながら彼女はまた同じ話を繰り返し聞かせてくれるだろう。
 宮山は自分の上でひたすら楽しそうに喋り続ける少女を見上げて、ほんの少しだけ微笑んだ。

 


 * * *

 


 夜が深まって、事務所のカーテンを閉めて数時間が経った頃だった。
 水守綾は宮山から木野宮が無事であったという連絡を受けて、しばしの間眠ってしまっていたらしい。
 慌ててヒールで街中を駆け巡ったが、成果はほとんどなかった。東雲がつけたという発信機を追ってもそこには何もなく、全員が思いついた場所や近くをひたすらに捜索していたのだ。そりゃあ眠ってしまっても仕方がないと言い訳しながら、水守は気怠い体を起こして今日やる予定だった仕事を始めようと椅子に座る。
 それとほとんど同時に。窓を叩くような音がした。水守は自分の耳を疑う。なんせこの事務所はビルの二階にあるのだ。普通、外から窓を叩くなんて石でも投げない限り難しい。
 緊張が走る。あんなことがあったばかりだ。聞いたところによれば陽炎の行方はまだわかっていない。木野宮きのみの知り合いが狙われる中で、自分が狙われない理由なんて何もない。奇跡的に今まで難を逃れていただけだ。
 ゆっくりと窓に近寄る。それから一切音がしないところを見ると、やはり何かの罠かもしれない。だが放っておくわけにもいかないだろう。
 水守は意を決してカーテンに手をかける。目の前に怪盗が現れたとして、自分にできることは何か必死に考える。そしてその手を思い切り横に引いて、水守はカーテンの向こうにいる正体を見た。
 そしてそれは、やはり予想通り、怪盗の姿ではあったのだが。
「……何? それ」
「えーっと……」
 素っ頓狂な声が口から出る。窓を開けると、そこには見知った男がいた。どうやって二階に登って来たのかよりも、ずっと気になることがある。
 壱川遵は照れたように頬を掻きながら、そこにいた。ただし水守の知った姿からは程遠い。彼はまるで怪盗のような衣服に身を包み、ご丁寧にシルクハットとモノクルまでついている。まるで言い訳を探すかのように壱川は視線を泳がせた。
「……ちょっと、色々あってね」
「それって木野宮さん関連?」
「うん、まあ、そうだな」
「で、何、その格好」
「これは……その……えーっと、いや、大した理由はないんだ、ほんとに」
 全く意味がわからないが、物珍しくてじろじろと彼に視線を向ける。笑えばいいのか、怒ればいいのか。ところどころ汚れた服や頬が、どうにも彼をかっこよく見せてくれない。
「なんで来たのかって言われたら俺も困るんだが、いや、見て欲しいとかそういうんじゃないんだよ、本当に」
「…………それで?」
「……まあ、もう二度と着ないだろうから」
 きっと水守の知らないところで何かあったのだろう。そこで彼がどんな活躍をしたのか、どんなことを考えていたのかは想像もつかない。いつもならきっと、また一人で行くなんてだとか、色んなことが思い浮かんで怒っていたことだろう。
 だがそういう気分にもなれなかった。いつもより少しだけ気が晴れたような顔をしているものだから、怒鳴るのも気が引ける。
「君に、見せておこうかと思って」
 風に煽られて、カーテンとマントが揺れる。それは水守を包むように揺らめいたが、不思議と不快にはならなかった。
 二度と着ないと彼が言うならそうなのだろう。それを止めるつもりも、ましてや肯定するつもりもない。壱川は変わらず困ったような、照れているような顔で視線を泳がせて、それからちらりと水守を見た。
「……変かな」
 きっと、たくさんの言葉を選んだのだろう。だけど何も出てこなくて、水守も何も言わないものだから困って言ってしまったのだ。
 そんなことはすぐに想像がついた。なんだかおかしくなって、思わず笑ってしまう。
 珍しく目を細めて、口を開けて笑う水守を見ながら、壱川はやはり恥ずかしそうに眉を下げた。見せたことを後悔しているのか、それとも別のことを考えているのかはわからない。
 水守は壱川に言う。彼の思っている言葉とはかけ離れていて、だけど確かにそれは彼を日常に戻すために必要な言葉だ。彼女は笑っていた。心底おかしそうに、それでいて、心底楽しそうに。
「全ッ然似合ってない!」