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猫猫事件帖 とある探偵の追走編 最終話

 


「どこまで行くつもりなのよ!!」

 ハイヒールで走るのは危ないからやめた方がいいんじゃないかな。

 壱川の言葉が脳裏にチラつく。それでも水守綾は走るのをやめなかった。

「止まりなさいって……言ってんでしょ!」

 息が切れる。思えば自分は、明乃のような身体能力も、東雲のような才能も、壱川のような過去も何も持たない人間だ。

 だからこそ諦めないことだけは一人前になろうと、そう思うことがある。

 だが、もうどれほど走ったかわからない。追いかけている男も疲れ始めているからか最初よりかなり減速している。だからこそ見失わずにここまで来れたものの、気付けば見知らぬ風景にたどり着いていた。

「……どこ、ここ……!」

 思わず足が止まる。男は一瞬こちらに振り向いて、チャンスと言わんばかりにまた走り始めた。

 目の前にあるボロい倉庫の中に入っていくのが見えた。

「はあ、はー……もう、最悪……」

 額から滴る汗を拭っても、どんどん溢れ出てくる。だがここで止まるわけにはいかない。目の前の建物に入っていったということは、ここが男の終着点らしい。一体なぜ彼が逃げたのか、走りながらにさまざまなことを考えた。

 もしかして、アシュリーは家出じゃなくて誘拐されたんじゃ……

 その考えを遮断するように、ポケットの中でスマートフォンが鳴り始めた。しばし無視しようかと考えたが、いつまでも鳴り続ける音に苛立ちが勝ってスマホを手に取る。

「何!? 今忙しいんだけど!!」

「ちょ、そんな大きな声出さないでよ。今どこにいる?」

「猫探してんの!!忙しいって言ってるでしょ!」

 半ば怒鳴るような声を出すと、電話口にいる男、壱川は困ったように唸った。なんとしてでもあの男をここで捕まえなければいけない。なぜ逃げたのか、彼はアシュリーの居場所を知っているのではないかと思えば思うほどに苛立ちが募っていく。

「一旦、止まってくれない? 事情は後で話すから」

「はあ? 意味わかんないこと言わないで。こっちはこっちで仕事してんの!」

「わかってる、わかってるんだけどさ」

「わかってんなら後にして!」

「そん……」 

 壱川が何か言いかけていたが、乱暴に通話を切る。この時間で男に逃げられでもしたら溜まったものではない。

 水守は足が痛むのも忘れて、倉庫に向かった。今は使われていないのか、廃材が積み上げられていて埃も酷い。

「ったく、なんでこんなことに……」

「ん?」

 文句を垂れる隙もなく。水守に痛いほど視線が突き刺さった。

 先程逃げていた男がそこに立っている。怒りで声を荒げそうになったが、しかしそういうわけにもいかない。

「なん……」

「なんだ、こいつは」

 パーカーの男の近くには、複数人の男たちが取り囲むように立って、水守を睨みつけていた。

 

 

 

 猫猫事件帖 とある探偵の追走編

 

 

 

「この女です!この女が、俺のことをつけ回して!!」

「あー、わかったわかった、下がっとけ」

 追いかけていた男は、強引に肩を押されて奥へと引っ込んだ。スーツ姿の男と、その周りにいかにもチンピラ風の若い男が何人も立っている。

 そしてその全員が、水守に攻撃的な視線を向けていた。

「ちょっと……アタシが用あるのはそこのパーカー野郎なんだけど」

「威勢がいいなあ、ん? アンタどっかで見たことあるな」

 スーツの男が水守に近付く。流石にまずいとわかっているが、水守は一歩も引かない。

 逃げなければいけないが、こんな人数を相手に疲れた足で逃げ切れるわけもないとわかっていたからだ。そうなれば、後は虚勢を張る他に選択肢がなかった。

「アンタ、水守綾か? ほら、探偵の……新聞に載ってたよな?」

「知っててくれてありがと、ちょっとどいてくれない?」

「探偵さんがこんな汚い倉庫に何の用かな?」

「それはこっちのセリフなんだけど、アンタらこそここで何してるわけ?」

 壱川はもしかして、この状況を知っていたのだろうか。だとすればなぜ、という疑問は浮かぶが、先程の電話はこの男たちに対する警告だったのかもしれない。

 額に浮かぶ汗が、いつの間にか冷や汗に変わっていた。水守は猫を探していたはずだ。まさかこの男たちは、金持ちの猫を人質ならぬ猫質にでもしようというのか。

「で? なんでここに来たって?」

「……猫を探してここまで来たの。白い猫なんだけど……」

「ほー、なるほど」

 男が煙草に火をつける。後ろにいるチンピラ風の男たちはそれぞれ顔を見合わせていた。ポケットに手を突っ込んでいる男も多い。もしかしたら武器を持っているかもしれないと、脳は冷静に動いている。

「そりゃ誰かに頼まれて?」

「当たり前でしょ、依頼じゃなきゃこんなことしないわよ」

「そいつは誰だ?」

「は?」

 そんなの飼い主に決まっている……と言おうとするが、返事を待つまでもなく男は水守の腕を掴んだ。

「おじさんもねえ、商売でやってるから。邪魔されちゃ困るんだよね」

「ちょっと!触んないでよ!」

「あんま暴れられたらほら、痛い目にあっちゃうよ」

 馬鹿にするような声色に、ついに頭の中でプチンと音がする。水守は目の前の男に一発入れようと心に決め、拳を振りかぶるーーー……が。

「コラアアアア!!!」

「あが!?」

「うわあ!?」

 その拳が男に当たるより速く、男が勢いよく吹き飛んでいく。そのまま廃材に突っ込んでいった男は、上から落ちてきた無数の埃とガラクタに埋められて姿を消した。

 水守が顔を上げる。そこにいたのは以前、似たような状況で水守を助けた男ではなかったがーーー……

「大丈夫か水守さん!!オレが来たからにはもう安心!!!」

「……えーっと……」

 照明を反射し光る頭皮。他の男たちに負けないほどチンピラ風のファッション。いや、なんなら図体の大きさと目付きの悪さも相まって、さらに凶悪な見た目をした男、浅野大洋が立っていた。

「ありがとう浅野さん……その」

「いいっていいって!ピンチの時はお互い様だろ!!」

「いや、そうじゃなくて」

 水守がスーツの男が吹き飛んだ方を指さす。なんとかガラクタの山から引き抜かれた男だが、頭から血を流して完全に気絶していた。

「流石にやりすぎ」

「あれえ?」

 というかよく、大の男をあそこまで吹き飛ばせたものだ。明乃や常盤社のような超人を見てきたから慣れてきたとはいえ、規格外にも程がある。

「まあいいんだよ、男なんてそんくらいの扱いで!あっ、そうだそこのパーカー野郎!!」

 びくり、と大袈裟な程にパーカーを着た青年の方が揺れる。

「お前に用があんだよ!そこ動くんじゃねえぞ!!」

 言って浅野は自分の拳同士をぶつけた。だが、それをすんなり聞き入れてくれるような雰囲気でもない。

 多少驚いていたものの、他の男たちがわらわらと集まってくる。周りを囲まれた水守と浅野は、それでも焦ることなく冷静だった。

「なんでこんなことになったんだっけ?」

 水守綾は呟いた。

「いやーほんと、なんでこうなったんだっけ!」

 浅野大洋は笑いながら答えた。

「……なんていうか、巻き込まれることに慣れてきたって自覚が嫌でも湧いてくるわ」

 諦めに似た溜息。目の前に立ちはだかる複数人の男たちは、今にも水守と浅野に襲いかかりそうな雰囲気を放って彼女たちを睨み付けている。

「話し合ってわかってくれる雰囲気でもなさそうね」

「まあ、仕方ねえさ!生きてりゃこういうこともある!」

「……ずいぶん落ち着いてるけど、浅野さんってもしかしてめちゃくちゃ強かったりするわけ?」

「お? どうだろうな、少なくとも明乃ちゃんにはボコボコにされたけどな!!」

 浅野が拳を握る。

 水守は彼が口にした人間のことを思い出した。超人的な怪力と身体能力。それはあまりにも人から外れすぎていて、正直なんの指標にもならない。

「まあ、こいつらに負けるほどではねえな」

 破裂音。いや、浅野の拳が目の前の男の顔にめり込んだ音だ。流石に水守も驚いて目を見開くが、浅野はそのまま体を回転させて後ろにいる男にも思いきり拳をねじ込んだ。

「ちょっ……」

 やりすぎ、と言いたいが、今はそんなことを言っている場合でもない。幸いなことに男たちの視線は浅野に釘付けになっていた。

 それは明乃のように超人的でもなく、常盤のように洗練されてもいない。だが、荒々しく振り回す拳がどんどんと男たちをねじ伏せていく。

 強い、と確信した。彼は間違いなく、喧嘩に強い男だ。安心して水守は男たちの間を縫って走り出す。この混乱に紛れて逃げようとしている、一人の男を捕まえるために。

「来るな!!」

 パーカーの青年は震える声で叫びながら、ポケットから小さなナイフを取り出して水守に向けた。だが、今更そんなものに怯むこともない。

 明確な殺意も、手慣れた動きも何もない。水守はわかっていた。なぜならそれに実際に触れてきたからだ。

「来るなって言ってるだろ!!」

「そういうのは……」

 ナイフを突き出した手に、自分の手を添える。そのまま思い切り青年の手を捻って体重をかける。

「イ"ッッ」

 痛みから逃げようともがく体を、そのまま地面へと誘導するのは容易かった。そのまま腕を捻って青年の背中に馬乗りになる。例の一件の後、壱川に仕込まれた逮捕術の一つだ。

「危ないからやめときなさい。痛い目見るわよ」

 涙目になりながら青年は唸った。しばらく逃れようとしていたが、それも諦めてしまったらしい。

「ねえ、なんか知ってるんでしょ?速く言わないとどうなっても知らないけど」

「痛、いたたたた!!!痛い!!ごめんなさい!!ポケット、ポケットに!!」

「ポケット?」

 そんなところに猫が隠れているはずもない。不思議に思いながら水守は彼のポケットに手を突っ込んだ。

「……USB? 何これ、一体なんの……」

「綾ちゃん!!!」

 青年に聞く暇もなく、倉庫に男の声が響く。聞き覚えのある声に水守と浅野は顔を声の方に向ける。そこには汗を垂らしながら、走ってここまで来たであろう壱川遵の姿があった。

「ちょ、ほんとに、君ねえ、一回止まってって俺……」

「ちょっと、なんでアンタここが……」

 脱力する青年から手を離して、水守は彼の元へ向かう。膝に手をつき、切れる息を隠そうともしない壱川に思わず言葉が止まった。

 ……もし彼がこの事態を察知していたのだとすれば、あの電話を切った自分がこうさせたに等しいのでは……

 水守は頭に浮かんだ言葉をかき消すようにぶんぶんと頭を左右に振る。どちらにせよ、なぜ自分の居場所が分かったかの方が問題だ。

「まさかアンタ、アタシにGPSでもつけてないでしょーね」

「ちが……」

「あーいやいや、GPSついてんのはオレの方!」

 ニカっと浅野が笑う。手にはすでに伸び切った男がぶら下がっているが、浅野は無慈悲にその手をパッと離した。

「はあ? なんで浅野さんに……」

「俺がつけた」

 倉庫の外から、また新たな声がする。そこに立っている男、深海京佑は汗の一つもかいていないところを見ると、どうやら心配でここに来たわけではないらしい。

「よー!京佑!サンキュー!」

「馬鹿、汗臭いから近寄るな」

「? ごめん、全く話が読めないんだけど……」

「あー……えっと、綾ちゃんは猫探してたんだっけ」

 苦笑いする壱川を睨み付ける。だが、どうやら自分が思っているような状況ではないことがよくわかった。

「じゃあ何? この男は別に猫の居場所を知ってるわけでもなんでもなくて……」

「顧客データを売り捌いてる連中の下っ端だ。そこで伸びてるオッサンが大元だろうな」

「…………じゃあこれ……」

 青年のポケットに入っていたUSBを見る。どうやらここに、その大事なデータが入っているらしい。

「おかしいと思ったんだよ、水守さんがインターホン押した部屋、家具の一つもなかったんだぜ」

「どうせ空き室を勝手に取引現場に使ってた口だろうな」

「でも、アタシちゃんと白い猫探してるって……」

「ああ」

 深海のスマホが顔の近くに押し付けられる。少し顔を引いてみると、そこには知らぬ企業の概要ページがあった。

「有限会社ホワイトキャット……?」

「ははは!なんだあそりゃ」

 あっけらかんとした態度で、浅野は大きく口を開けて笑った。水守はまだ納得していないようで、唸りながらスマホと睨めっこしている。

「まったく、こんな偶然たまったもんじゃないよ」

「そうか? 俺はラッキーだったが」

「何言ってんの」

 壱川が水守の手からUSBを取る。どうやら警察で回収するらしい。

「大方、盗まれた方の企業から依頼があったんだろ? どうにもきな臭い会社みたいだし……この中によくないデータも入ってるのかな?」

「それを調べるのは警察の仕事だろ」

「はは、間違いないね。頼ってくれてありがとう」

 壱川のトレードマークと言っても過言ではないコートも、暑さには敵わないのか今日は着ていない。途中で脱いだのかジャケットも手元にあるため、壱川はUSBをシャツの胸ポケットにしまった。

「……別に。どうせそれを回収して渡したところで、中身を見てようが見てなかろうが、回収した時点で何か言われるのは目に見えてわかっていたからな」

「懸命な判断だ。危ないことに首を突っ込むもんじゃない」

「ちょっと!!」

 水守が壱川を睨み付ける。

「じゃあアタシは走り損ってわけ!? そっちで回収するんだったらアタシ何にも成果が……」

「猫なら見つかったって連絡来てたぞ」

「はあ!?」

「家出したと思ってたら、タンスの中にいたって写真付きで……ほら」

 深海が差し出したスマホを見る。慌てて自分のスマホを開けば、たしかに新着メールが一件入っていた。

 そこには深海が言った通りの内容と、それから白い猫がタンスの中で眠っている写真が添えられている。

「……じゃあそもそも猫違いだったんじゃない!」

「はは、いやー、こんなこともあんだなあ」

「あーもうやだ!今日損しかしてないし!!」

「まあまあ、この後飯でも行こうよ、奢るからさ」

「いいっすねえー!!オレも一緒にいいっすか!?」

 大袈裟に肩を落として、水守は深いため息を吐く。むしろため息を吐かずにどうしろというのか。

「いや、でも、かっこよかったぜ水守さん!マジで!あんな囲まれても怯まねえなんて!」

「……囲まれてたの?」

「…………ちょっとだけ」

 気まずそうに視線を逸らすが、壱川がジリジリと向ける視線が痛い。どうせこの後、また危ないことには突っ込むなとか、一人で突っ走るなとお説教タイムに入るのだろう。予感がして水守は苦い顔をする。

「まあまあ!良かったよオレは!水守さんとも仲良くなれてさ!」

「そうね。今日は助かったわ、ほんとに。また今度お礼でもさせて」

「おうよ!!あ、そうだオレも綾ちゃんて呼んでもーーー……」

 ぽん、と水守の肩に浅野の大きな手が乗る。大型犬のような雰囲気で、尻尾を振る幻影すら見えるようだ。だが、その手は瞬時に水守の肩から引き剥がされた。壱川が水守の肩を自分に引き寄せ、引き剥がしたのだ。

「ありがとな浅野さん、水守さんに怪我がなくて良かった。助かったよ」

「いやーー!それほどまででも!? あるか!? 今回は!!」

「ちょっと、暑いから触んないで」

「ええ……いや、ごめんね」

「それより飯どうします!? この前焼肉行ったし、今日は魚とかどうすか!?」

「いいわね魚、なんかさっぱりしたもの食べたいわ」

「俺はとりあえず、これ持ち帰らないといけないから……」

 気付けば日が暮れ始めている。空気も少しずつ涼しくなって、全身に受ける風が気持ちがいい。

 水守は大きく伸びをした。こんなつもりではなかったが、結局人の役に立ったならそれでいいだろう。

「……ま、いっか!」

 これは魔法の言葉だ。水守を取り巻くありとあらゆる非日常を片付けて、日常に戻るための言葉。また明日はきっと、いつも通りの一日が訪れるだろう。

 壱川にも、浅野にも、深海にも。

 たまにはつまらなくて騒がしくない一日が訪れるといい。水守はそう思って、今日食べる晩ごはんのことで頭の中をいっぱいにした。