「やられた……!」
切れる息を落ち着かせようとするものの、上手くいかない。ここまで長距離を走るのは久しぶりのことで、水守は滴る汗を拭くだけで精一杯だった。
白い猫を追いかけ走り続けたものの、浅野と水守はマンションの前で止まっていた。
猫、アシュリーは颯爽と駆け出し、器用に曲がったり塀に登ったりを繰り返した挙句、一棟のマンションに入り込んでいってしまったのだ。
「仕方ねえよ、猫、速えわマジで……」
同じく汗を垂らしながら膝に手をついて、浅野は大きく息を吐く。
だが、見つけただけ儲け物だ。まだこの近くにいるなら、探す他ないだろう。
「……とりあえず、マンションにまだいるかもしれないし探しましょ」
「そうだな、それがいい……」
ようやく呼吸が落ち着いてくる。二人はゆっくりと階段を登り、各階の廊下を捜索した。捜索といっても狭い一本の通路しかない。左右を見て、いなさそうなら更に階段を上がる。そうするとすぐに最上階までたどり着いた。
だが、猫の影は見えない。あんなに真っ白な猫であれば、見つけやすいはずなのだが。
「部屋に入ったとか?」
「んー……もしくはベランダ側にいるとか? ……とりあえず人に聞いてみましょうか」
「急に行ったら怪しまれねえかなあ……オレこんな見た目だしよ」
「大丈夫でしょ。アタシこれでもちょっと有名だから」
言いながら、水守は躊躇いなくインターホンを押した。偶然、水守がいた目の前の部屋だ。人がいるかどうかもわからない部屋。出なければ隣の部屋に行けばいい。そのくらいの気持ちで、水守はもう一度インターホンを鳴らす。
「はい……」
すると、インターホンから男の声がする。弱々しい、覇気の感じられない声だった。
「あ、すいませーん、アタシたち探し物してて、見かけてないか聞きたくって……」
言うと、扉が少しだけ開く。髪の長い男は、恐る恐る隙間からこちらを伺っていた。
何かを疑うような目だが、それも仕方ないだろう。急に押しかけてきて、探し物をしているなんて言われたら怪しまれても仕方ない。水守はできるだけ丁寧に、物腰柔らかく聞こえるようにと注意して笑顔を見せた。
「すいません、アタシたち白い猫を探してて……」
だが、男の血相が変わる。顔面から血の気が一気に引いて、何かに怯えるような顔になる。
水守は気付いていない。アシュリーの写真を見せようと、ポケットから紙切れを出そうとしている。
浅野は首を傾げた。男の顔が真っ青になるのを見ていたからだ。だが浅野が声をかけるより先にーーー……
「あ!? ちょっと!?」
男は勢いよく扉を開け、水守の肩にぶつかるのも気にせずに駆け出した。
「はあ? なんだってのよ!」
「おい水守さーーー……」
「ちょっと待ちなさいよ!!」
反射的に水守が男を追いかけていく。
逃げられたから追いかけただけだ。怪しい人間だと思われたのか、それとも何か事情があったのか。そんなことは関係ない。水守はただ、無理矢理肩にぶつかられて逃げられたことに憤っていた。
取り残された浅野は、ぽかんと口を開いて立ちすくんだ。水守を追いかけなければいけないが、開きっぱなしになったドアも気になる。それにあの男の表情の理由もーーー……
「これは……」
開きっぱなしの扉に手を掛ける。閉じる前に一度部屋の中を確認して、それからスマートフォンを取り出し耳に当てる。
「おい、京佑。急いで調べて欲しいんだけどさあーーー……」
猫猫事件帖 とある探偵の追走編
「参ったなあ」
「壱川さんでも参ることがあるんですか」
「やだなあ、毎日参ってるよ。特にこういうのは嫌な気分になるね」
缶コーヒーを片手に、壱川はチラリと紙束を見た。目の前に座っている後輩は、真面目に資料を読み耽っている。
「そういえば噂に聞いたんですが」
ズレた眼鏡をなおしながら、スーツの若い男が壱川を見る。壱川の後輩にあたる男は、彼に言わせれば真面目すぎるほどの男だった。
「壱川さんが例の探偵とお付き合いがあると」
「ん、水守さんのことかな?」
「そうです、水守綾……さんと親密な仲だとお聞きしたんですが」
壱川は質問の意図を考えた。資料に目を通すフリをしながら、彼が何を言いたいのか考える。
水守綾は署内でも有名だ。なんせ、数年前に彼女は警察に届いた犯行予告をもとに、見事犯人を捕まえた張本人だ。それも壱川の入れ知恵だったが、今となっては探偵としてしっかり本人も活躍もしている。
彼女とは元からの知り合いでその人脈や推理力を壱川が借りているーーー……というのが、もっぱら表向きの設定である。
つまり、彼女と壱川に関係があることは大抵の人間が知っていた。彼が聞きたいのは、そういうことではないのだろう。
「誰に頼まれたの?……小野さんか、いや、杉本さんかな」
「えっ、あ、いや、えっと」
「はは、嘘が下手だな」
笑いながら資料をめくる。何人かの顔写真や、小さく地図が載っていた。どれも若い人のように見える。
「まあ、収穫なしで帰ったら文句言われるのは君だろうしな。そうだな……いっそこの際、仕事以上の関係らしいって言っておいてくれない」
「そ、そんな……!!」
そんな恐ろしいことを自分の口から言わせるのかと男が立ち上がる。壱川はおかしくなって笑い始めるが、男は切羽詰まったような焦った顔で壱川を見ていた。
「冗談だよ。ビジネスパートナーってだけだから、そう伝えたらいい。今はね」
「は、はあ……」
最近はどうも、この辺りをかぎ回りたい人間が多くなってきた。正直、プライベート周辺を勘ぐられるのは面白くない。もちろん普通の意味でもあり、自分の過去の経歴のこともある。
とは言え、そうやって壱川の周辺を知りたがるのは大抵昼ドラの好きな女性達だ。彼女達は壱川だけではなく、さまざまな人間のプライベートを知りたがっては楽しそうに休憩時間を過ごしているだけだから、咎めることもないだろう。
「と、とにかく、今回は壱川さんと組めて自分も嬉しいです」
「嬉しいね、そういうこと言われると」
「深海さんも、壱川さんのこと褒めてましたから」
「そんな褒められるようなことしてないんだけどなあ」
この辺はプライベートを隠しに隠し続けてきた弊害だった。実際大した仕事はしていないのだが、様々なことをはぐらかしていたら、噂に尾ひれがつきまくって有能な人間のように扱われている。その分、壱川を嫌う人間も多いのだが。
「壱川さんなら何から始めますか? この件は」
「んー、まずはこのマンションに確認取らないとね」
手元の資料を指で小突く。
そこにはここからそう遠くないマンションの地図と、そこに出入りする男の写真が載っていた。
「それにしても悪質ですね。企業からデータを引き抜いて、それを売り捌く手段に若い子を使うなんて」
「まあ、最近よくある話だけどね。……確かに、わざわざUSBに入れて若い子に運ばせるっていうのはいただけないな」
その受け渡しに使われているであろうマンションの空室が、資料に載った地図の場所だ。ここに届けられたデータの行き先も、ある程度目星はついているようだった。
「……この部屋に出入りしてる男を捕まえたところで大元は別だろうしなあ」
呟いたところでスマホが鳴る。誰かから電話がかかってきたらしい。先程話題に出た女性のことが頭に浮かぶが、しかし壱川の予想を反した名前がそこに写っていた。
「悪い、電話に出てくる」
「あ、はい!了解です!」
男にひらひらと手を振って、壱川は通話ボタンを押した。スマホを耳に当てると、知っている声が聞こえてくる。
「はいはい、どうしたの?……うん、……………え?」
そして伝えられた内容に驚きを隠せないまま……壱川は、急いでとある場所へ向かった。
* * *
「……はい深海。……何?」
「だーかーらー!今オレがいるところの近くにあるマンション調べて欲しいんだって!」
「なんでだ」
そっけない返事をしながら、深海京佑はパソコンに映る位置情報を確認していた。スマホのスピーカーから流れてくる浅野の声が部屋に響き渡る。
「猫探してたろ!」
「ああ、それがどうした」
「あの猫探してたら水守さんと会ってよおー、で、このマンションに入って行ったから探しに来たんだよ!」
通話の音に激しい風の音が混じっている。どうやら浅野は話しながら走っているらしい。
浅野の位置情報を確認すれば確かに近場にそう新しくないマンションがあった。
「んで住人に話聞くかってなって、インターホン押したら男が出てきたんだがオレらのこと見てすぐに血相変えて逃げてったんだよ」
「お前が怖かったんじゃないか」
「バーカ!そういう話じゃねえって!そいつが逃げた後部屋の中確認したんだけど……」
浅野の位置情報は、ものすごい速度で移動していく。どうやら町から外れたところへ向かっているようだ。
「何にもなかったんだよ!空っぽ!家具の一つもねえでさ!」
「……なるほどな、どんな男だ」
「髪は長めで黒!紺色のパーカー着てて背はお前とおんなじくらい!」
「わかった」
深海は浅野から電話がかかってくる直前に出していた写真を見る。彼が言っている内容とほとんど一緒だ。
「おい、絶対にそいつを捕まえろ」
「ああ!? なんで!?」
「別件だ。そいつは多分USBを持ってる、絶対に取ってこい」
「何が入ってんだ!?」
「知らなくていい。ただ仕事には変わりない」
「了解!!なあもしかして、水守さん危ない!?」
「一人で行ったらそうだな」
深海は落ち着きを保ったまま、マグカップに入ったコーヒーを口に入れた。浅野が一日中外出しているから、インスタントコーヒーだ。正直あまり美味しくはなかった。
「とにかく絶対捕まえろ。じゃあな」
「おい!!ど……」
浅野が何か言いかけたが、無慈悲にも通話終了ボタンを押す。深海はしばし考えながら、パソコンの画面が動くのを見つめていた。
浅野が男を追いかけているとするならば、この後行き先もかなり絞られてくる。そうなった時、自分がすべきことはなんなのか。
「……相変わらず悪運がいいな、お前」
点滅している光に話しかけながら、またコーヒーを一口飲む。浅野につけたGPSは、どんどん町から離れていく。
水守が更にその前を走っているとしたら、男の目的地はもうすぐそこだろう。
水守綾。彼女の姿を思い出す。詳しいことは知らないし、しっかりと話をしたわけではないから彼女のことはあまりよく知らない。だが、彼女の近くにいる男のことはある程度知っていた。
壱川遵。彼に言われたことが脳裏によぎる。
「…………」
デスクに頬杖をついて、スマホの画面を見つめる。深海は賢い人間のつもりだ。この先この事業を続けるにしても、リスクは背負い続けなければならない。だが、大きなリスクを背負うのは今じゃなくてもいい。
「利用するだけだ、別に」
呟いて、深海はスマホを操作した。壱川の名前が表示された後、しばらくして彼の声がスピーカーから聞こえてくる。
大きく息を吐いて、深海は口を開いた。それと共に、浅野の位置を示す赤い光が停止する。
「……俺だ。アンタに手伝って欲しいことがある」
つづく!