猫猫置き場

猫猫事件帖の新章をとりあえずアップするためのページ

猫猫事件帳 新章 最終話

 

「なんか、意外だな」
「何がよ」
 意外にも静かな返事であった。水守綾は冷静に、それでいてごく当たり前のように答えた。
「君がこういうことに手を貸すのが」
 頬杖を突きながら胡散臭い微笑みを向ける男、壱川遵はどこか楽しそうだった。前なら無性に苛ついていたが、今となってはこの顔も慣れたものだ。
「別に? 気が向いただけ。というか、なんというか……まあ」
 窓の外を見ながら、水守は手に持ったグラスに口を付ける。明日も平日だから、世の中の人間は皆忙しなく帰路についている。
「大した理由なんてないわよ」
「君も慣れてきたな、こういうのに」
「嫌なこと言わないで。やっぱなんかムカついてきたわ」
 仲間、という言葉にはあまりピンとこなかった。水守は顔見知りであろうと、相手を捕まえることができるなら全力で挑むだろう。それを妥協しようとは今も思えない。
 今回手を貸そうとしているのが宿敵のムカつく怪盗であったとしても……その後、彼らがまた予告状を出し挑戦してくるのであれば、全力で立ち向かうだろう。
「プライドかも」
「君の?」
「うん、そういうのが、できてきたのかも」
 稼げればなんでもよかった。就職できればそれで。あわよくば楽な仕事がしたかったし、面白いことがあるならそれに乗りたかった。だけど現実では、そんなに簡単に現れない。
 と、思っていた時期もあった。ひょんなことから転がってきたこの話が、いつのまにか自分の人生を大きく左右していた。正直、期待もあった。楽に仕事ができて、平穏に暮らせればいいと思うことも、退屈しない刺激的な毎日に憧れることも、どちらもあった。
「どうせなら、ちゃんと現場で、完膚なきまでに勝ってやりたいと思ってるのかも。最近、人の役に立つのも悪くないと思えてきたし」
「探偵らしくなってきたね」
「……そう言われると、染まってるみたいで嫌だわ」
 どこか嬉しそうな壱川が煙草に火を点ける。
「なんだか寂しいな」
「何よ気持ち悪い」
「いや、これから頼られることも少なくなるのかなと思って」
 父親のようなことを言うな、と突っ込もうとしたが口を閉じる。それはどちらの方だと言いたくなるも、それもまたやめる。
「別に」
 実際、この男の手を借りなければいけないことも減った。自分で考えて、自分で行動することもできる。頼れる人間が増えたのもある。
「頼るとか、頼られるとかだけじゃないでしょ」
「それもそうだ」
「ムカつくことに共犯にされたから、やれるとこまでとことんやってやるわよ」
「嬉しいね、そう言ってくれると」
「……まあ」
 大人になって、疲れる日が増えた。だけどそれは言い訳に過ぎない。怪盗だの、探偵だの。本来目にすることのなかったであろう、無数のありえないことの連続。
「案外、悪くないわ」
 それは、あの時先に就職が決まっていた友人たちよりも、刺激的で奇想天外な人生だと、案外気に入っている。

 

 

 

 猫猫事件帳 新章

 


 時刻は深夜十二時の少し前。
 指定したのは金曜日の夜、一同はそこに集まっていた。
 一同と言っても、深海と浅野、それと壱川と宮山だけである。東雲に指定された港近くの倉庫は、街灯以外にほとんど灯りもついていない。今は、深海が持っているスマホのライトだけが頼りだ。中には段ボールや何に使うかわからないガラクタが置かれているが、真ん中は空洞のように何も置かれていない。
「よお~し、準備はこんなもんかな!」
「……これ、本当に一人でやるつもりなんですか?」
「応!!あんくらいなら一人でも大丈夫だから任せてくれ壱川さん!!」
 初対面とは思えない気さくさで浅野が笑う。深海は少し離れたところでスマホをいじっている。
「さてと、もうすぐ時間だな」
「じゃあ、僕らも行ってきます」
 言って、宮山と深海は共に倉庫から出て行った。壱川と浅野は倉庫の奥、積み重なった段ボールに身をひそめる。
 そうして待つこと数分。倉庫の近くから二つの足音と、小さな話声が聞こえてきた。
「ここです、ここ。……本当に行くんですか?」
「ええ、少しでも手掛かりがあるのなら」
「……でも」
「いいんです、いいんです。よければここで待っていてください、私が見てきますので」
 そう言ったのは初老の男性であった。隣にいるのは水守だ。水守はとある噂を聞きつけた、と言って男性をここに誘き寄せた。
「いえ、まさかアタシも噂が本当だなんて思ってないですけど……でも、怖くないんですか?」
「ははは、幽霊なんて数十年生きていて見たことがありません」
 そんなことを言いながら、男性の目は笑っていない。
「探偵さんは、こんなところに怪盗の幽霊が出るなんて噂を本当に信じているのですか?」
「いえまさか!でも、やっぱり怖いじゃないですか、こんな夜中に暗い倉庫なんて……」
 噂はこうだ。金曜日の深夜十二時に、件の倉庫で妙な格好をした幽霊が出る。それが大学生たちの間で広まって、今ではちょっとした心霊スポットになっている。その幽霊というのが……まるで怪盗のような恰好をした、身長160cm前後の、目つきが悪く、態度が大きい男なのだと。
 ……本当に大丈夫なのかしら。
 思わず溜息が漏れる。こんなヘンテコな噂を聞いてついてくる男性もどうかと思ったが、どうやら相当鏡を取り返したいらしい。
 だが一応、ここに来るまでにそれなりの準備はしておいた。偽の都市伝説サイトや、偽の死亡ニュース。どれも東雲が作り上げた偽物だが、それを印刷して男性に見せたのである。
「もしかしたら、この中にあの鏡があるかもしれませんから……」
 と、男性が続けながら、倉庫に足を踏み入れた瞬間だった。
 倉庫の照明がついたり消えたり、激しく点滅を繰り返す。驚いたのか小さな悲鳴を上げると共に、男性はあたりを見渡した。
「……なんだ?」
 そう呟くと、それに呼応するかのように灯りが消える。
「…………まったく、もし驚かせようというイタズラなら、私は……」
 言い切るよりも早く。
 目の前に男が現れた。何もなかったはずの空間に、男が”浮いている”。
「!?うわあ!!」
 さすがに驚いたのだろう。男性は尻もちをついて転び、激しく瞬きを繰り返す。
 黒いマント。黒いハット。まるで絵に描いたような怪盗の姿。身長160cm前後、目つきが悪く、態度が大きい―――……
「私をお探しか?」
 東雲宵一。彼の眼は赤く光り、男性をじっと見据えている。
「……馬鹿な!幽霊なんているわけがない!」
 怒りを強く含めた声で、男性は吠えた。東雲はまだじっと、浮いたまま男性を見つめている。
「お前か!? お前が、鏡を盗ったのか!? どうか返してくれ!!あれがないと我が家は―――……」
「あーーーー本当に幽霊だーーーーー」
「わーーーー、噂は本当だったんだーーーー」
 男性の声を遮るように倉庫に響き渡る声。あまりにも酷い棒読みで、あまりにも目が死んでいる。そこには倉庫の外から中を覗く、宮山と深海の姿があった。
「逃げろーーーーー」
「うわーーーーー」
 男性の額に冷や汗が浮かぶ。そんなまさか、そんな馬鹿なと呟き続けるも、脳が正常に回らない。
「……ッ返してくれ!持っているなら!あれさえあれば!」
「……鏡? これのことか?」
 東雲は静かに笑って、懐からひとつの鏡を取り出した。男性の目の色が変わる。それはかつて自身の家に大事に飾られていた、あの鏡そのものであった。
「それだ!!それを返せ!!もともとは我が家の物だ!!」
「……返すのはいいが、アンタ、知ってるだろ? この鏡が”なんなのか”」
 体を浮かせたまま東雲は、静かに男性に近寄った。手に持った鏡を男性に向けると、そこには焦燥に満ちた男性の顔が―――……映っていない。
「コイツは死者を映す鏡だ。アンタの家は代々、この鏡を使って繁栄してきたらしいな」
「だからそれを返せと言うんだ!」
「経営が傾いた時、この鏡に先祖の顔が映り、助言をするという―――その助言を聞けば、いとも簡単に経営が回復し、富と名声を得られた……という逸話があるとかなんとか」
 男性が手を伸ばす。だがそれをひらりとかわして、東雲は笑った。
 黒いマントが風に揺れる。赤い目がまた光る。どんどんと頭が混乱を極めていく。
「さて、この鏡、死者を映すというのは本当だと思うか?」
「そんなことは私の知ったことではない!」
「なら、確かめて見るか、ほら」
 東雲が男性の胸元を掴んで引き寄せる。途端にどこから現れたのか、白いスモークが倉庫の中を満たした。
「見てみろ、アンタの目で。それが真実なのかどうか」
 全身が震えていた。汗が止まらない。目の焦点が定まらない。恐怖にのまれながらも、まだ男は疑っていた。
 そんなわけがない、そんなことがあるわけがないと。
 心の中で何度も呟きながら、しかし男は見てしまった。
 鏡に映っていない自分と―――鏡に映る、東雲宵一を。
「はへ……」
 パタリ。間抜けな音と共に、男は気を失いその場に倒れた。同時に倉庫の外からひょっこりと頭が三つ出てくる。
「終わった?」
「おーーい!降ろすぞーー!!」
 浅野が叫ぶと同時に、ゆっくりと東雲が地面に着地する。ベルトとワイヤーを繋ぐフックを外せば、一気に体が軽くなった。
「いやあ、お見事」
「あらら、完全に意識失ってるじゃない、これ。なんかちょっと可哀想ね」
「まあ、これだけ驚いてくれてたらさすがに諦めるでしょう」
 全員で唸りながら気を失っている男を囲って見下ろす。なんとも間抜けな姿だが、可哀想と言えなくもない。
「……お前らなあ!もうちょっとマシな演技できねえのかよ!!」
「いやあ、あれでも頑張ったんですけど、心霊スポットに来た大学生の役」
「俺もそれなりに声を張ったつもりだぞ」
「あまりにも棒読みだったろうが舐めんじゃねえぞ!!」
「ふーー、疲れたぜえ!いい汗流しちまった!」
「で、どうするのこれ」
「とりあえず時間が経ってから警察にでも通報するか」
「そういえば、それ」
 深海が東雲の手元を見る。確かに作った資料に載せた通りの鏡が、彼の手元にあった。
「結局アンタが持ってたのか」
「馬鹿言え。偽物だよ偽物。作ったんだよ」
「ふーん、でも死者を映すとかなんとかって話は本当なんでしょ?」
「まあな、実際そういう言い伝えがあって、家に受け継がれてたんだと。深海が調べた限りじゃこいつ、家で続いてる会社の社長なんだが、どうにも経営が傾いてるらしい」
「なるほど、それで焦って鏡のこと思い出して、今更欲しがってたってワケね」
 東雲が鏡を懐にしまい直す。ややこしいから帰ったら燃えないゴミで出すだろう。
「ま、これだけしたんだ。あとは起きてから鏡を探す意欲がなくなってれば最高だな」
 満足げに仁王立ちする東雲のマントが風に揺れる。壱川はそれをなんとも言えない表情で見ながら、頬を掻いていた。
「どうしたのよ」
「いやあ、なんか照れくさくて」
「? どうして」
壱川の視線の先には、やはり東雲がいる。見られていることに気付いた東雲は、マントを翻して壱川の方を向いた。
「これ、そいつのおさがりだからな」
「ハア!?」
「衣装まで用意してる時間なかったんだよ、だからそいつのおさがり貰ってサイズだけ詰めて合わせた」
「アンタこんなの着てたの!? アンタが!? これを!?」
「……いや、まあ、そうだけど、うん。あんまり言わないでよ、照れるから」
「まあなかなかいい衣装じゃねえの」
 どうやら東雲は気に入ったらしい。壱川は小さくじゃああげるよ、と言ってまた頬を掻いた。
「さて、と。とりあえず今日は終わりだ。んじゃ帰るか」
「ここまでしてやったんだから、今度なんか奢りなさいよ」
「あーあーわかってるよ、つーかお前」
 東雲が水守を見る。いぶかしげにじっと見つめて、どこか言葉に迷っているようでもあった。
「? 何よ」
「何よじゃねーよ、よかったのかよ。こんなことに手貸して」
 言われて、水守はぽかんとして、それからすぐにいたずらに笑顔を浮かべた。
「あら、アンタのことムカつくけど、結構気前のいい便利屋くらいには思ってるわよ」
 そういう話じゃねえだろ、と言いたげな東雲は、呆れたように溜息を吐いて頭を掻いた。結果借りを作ったことには変わりがない。
「さ、帰りましょっか」
 言って水守は歩き出す。浅野は慌ててそれを追いかけ、一人じゃ危ねえぞ!なんて叫んでいる。東雲は疲れたのか肩を落としながらそれを追うように歩き始め、宮山も会釈だけして去って行った。
 深海も遠くなる浅野の背を見て、倉庫から出ようと一歩踏み出す。
「深海京佑君」
 だがそれを、壱川の声が止めた。止まらざるを得なかった。深海は次の言葉を容易に想像できたし、むしろなぜ今まで言われなかったのか不思議なくらいに思っていた。
「あまりこういうところにいると、お父さんが悲しむんじゃないか」
 ゆっくりと深海が振り返る。返す言葉を用意していたわけではない。だが、特別迷いもしなかった。
「俺の人生なので」
「はは、それもそうだ。でもあまり危ないことはしないようにね。親父さんが悲しむところは見たくない」
 咥えた煙草に火を点けながら、壱川はひらひらと手を振った。目が合った時からわかっていた。彼が父と知り合いであることも知っていた。なんなら、大昔に一度会ったこともある。
 だが、深海にとって大した問題でもなかった。彼が何か行動を起こし、止めようとするなら、更にそれを止めるだけの話だ。
 何も語らない深海の背中に手を振り続けて、壱川はゆっくり煙草の灰を落とす。
「……人生、嫌な偶然ばかり続くな」
 そんな独り言も虚しく、倉庫にはいつの間にか壱川と倒れた男性だけが取り残されていた。


 * * *


「ねえ、早くカルビ焼きなさいよ、カルビ」
「綾ちゃん、野菜も食べた方がいいんじゃない?」
「いいのよ今日は、なんたって奢り焼肉よ? 肉食わないでどうすんのよ」
「ま、それもそうか」
「よかったら僕が焼きますよ」
「いーのいーの、こいつにやらせとけば」
「オレ、ビールおかわりいいっすか!東雲先輩!」
「好きにしろ、つか先輩とか呼ぶな気色悪ぃ、お前の方が年上だろうがどう見ても」
 煙がもくもくと立ち上がる網を間に挟んで、一同は酒を飲みながら団らんとしていた。
 約束通り、東雲の奢りで焼肉に来たのである。特に水守は奢りで食べれる焼肉が相当嬉しいのか、いつも以上に上機嫌で、酒のペースも速い。
「結局、あの後爺さんも諦めたんだろ?」
「そーね、なんかブツブツ言ってたけど、もう怪盗はこりごりだって」
「可哀想になってくるな、ま、東雲君が盗んだかどうかもわからないしね。諦めてくれたなら良好だ」
「大洋、ハラミ」
「おう!これも焼けてるから食え!お、京佑、こっちも焼けてるから食え!」
「そんなにいらねえよ」
「宮山さんもちゃんと食べてる? せっかく今日はチビたちもいないんだし、奢りなんだからいっぱい食べなさいよ」
 お留守番中の明乃と木野宮は、今頃東雲宅で金曜ロードショーを観ていることだろう。東雲の部屋にだけは入れるなと口酸っぱく言ってきたが、考えると頭が痛くなる。
「じゃあ、遠慮なく。壱川さんも食べてくださいね」
「俺は食べるより飲む方が好きだから……って言いたいけど、歳とると焼肉ってそんなに食べれないんだよねえ」
「何言ってんすか壱川さん!!まだまだ若いでしょ!!」
「はは、浅野君にそう言われたら、返す言葉がないなあ」
 ひたすら皿に乗せられていく肉をもくもくと食べながら、深海はちらりと東雲を見た。言わないだけなのか、それとも気付いていないのか。どちらにせよ、自分が口を出すようなことではないが。
 一体、誰が男性に東雲の情報を吹き込んだのか。どうして今になって、と。
 文句を垂れながら肉を焼く東雲は、きっと考えているのだろう。だが、あえてこの場で口にしないだけだ。なんとなく、そんな予感がした。
「オイそれは俺が育てた肉だろうが!!勝手にとるんじゃねえ!!」
「ケチケチしないでよ、別に新しく焼けばいいじゃない」
「そういう問題じゃねえんだよ!俺が育てた肉なんだよそれは!!返せ!!」
「知らなーい、だってそこにあったんだもん」
 ……それにしても、どうしてこの人たちはさも当たり前のように集まっているのだろうか。
 深海はふとそんなことを頭に思い浮かべたが、それ以降はできるだけ考えないように、また新しく乗せられた肉を口に運んだ。

 

 * * *

 

「久しぶり」
 少女は笑う。不敵という言葉が似合う笑みだ。誰が見ても整った顔。まさに、浅野が言うところの美少女に相応しくはあった。
 だが深海はその笑顔に、可愛いとも綺麗だとも思わない。単純に、見慣れてしまっているからかもしれない。
「……なんでこんなことしたんだ」
「どうだった? 探偵さんたち、ちゃんと活躍できてた?」
「気になるなら自分で見ればよかったろ、アンタがやったんだから」
「別に、それが目的じゃなかったもん」
 セーラー服の少女は、風に煽られながら楽しそうに笑った。まるで、本当に子どもが遊びに興じているかのようにも見える。
「俺に偽の依頼主の情報を送ったのも、あの男に吹き込んだのもアンタだな」
「まあね、それに気付かないなんて、さすがだよね。色々賭けだったんだよ、わざわざ学校忍び込んでさ、体育の時間にお財布に三百円入れたの。学校行くの久しぶりだったなあ」
「学校は行っとけよ」
「だって楽しくないんだもーん」
 少女の白いマントが大きく揺れる。少女のことはよく知っていたが、深海はその現実味を帯びないマントを見るのは初めてだった。
「自慢したかったの」
「自慢?」
「そう!素敵だったでしょ、特にチェックの帽子の探偵さん」
「知り合いなのか」
「まあ、ちょっとね」
 その顔から、彼女が何を思い描き、何をしたいのかはやはり読み取れない。ただ、以前会った時よりもずっと人間らしい。
「どう? 京佑は楽しい?」
「別に。稼げるからやってるだけだ」
「つまんない男」
「そうかもな」
 深海が立ち上がる。もう話すことはないと言いたげな背中だった。
「たまには顔出せよ、父さんも喜ぶ」
「嫌だよ。親戚も家族も全員死んだと思って生きてるもん」
「じゃあ俺にもかまうな」
「従兄だからかまってあげたわけじゃないよ」
 記憶の中の少女とまるで違う。彼女はいつも、世の中のすべてが不満そうだった。何もかもがつまらないという表情をしていた。
 優しくされても、突き飛ばされても。何を与えても、何を奪われても。
「ま、本当に自慢したかっただけだから。せっかくだから楽しむといいよ、こういうのも」
 あの時と違う。それは何かを望み、何かを追いかけ、何かを得ようとしている少女の目。
「案外、世の中意味のわかんないものでいっぱいだから」
 深海京佑にはまだ理解しがたい、期待の熱を帯びた、何かを見据えている目だった。

 

 

猫猫事件帳 新章 その六

 恵まれた環境で育ってきたという自覚がある。
 特に不満も、不都合も、不条理だと感じることすらほとんどなかった。
『学校はどうだ? ちゃんと行ってるか?』
「行ってないと思う?」
『いいや、お前は誰に似たのか真面目だからなあ。まあ、あんまり無理するなよ』
 相変わらず優しい父の声を聞き届けて、深海京佑はスマートフォンの電源を切った。
 受験も、人間関係も、すべてにおいて迷ったことも、躓いたこともなかった。深海が気にしていないだけと言えばそうだが、彼は悩むことや迷うことを得意としない。
 そのすべては、あまりにも無駄な時間だとすら思う。
「親父さん、元気そうだったか?」
 浅野大洋がテーブルに皿を置きながら聞いた。皿の上にはハンバーグと付け合わせが乗っている。なんなら、ハンバーグの上にはチーズを切り抜いたお星さまが散りばめられていて、目玉焼きまで乗せられていた。
「いつも元気だよ、あの人は」
「まあ心配なんだろ、親からすりゃ子供なんていつまで経ってもガキだからな」
「そういうものか」
「そういうものだろ」
 続々とテーブルにスープやサラダが並べられていく。
「……今日はお祝いかなんかか?」
「ん? 目玉焼きはいつも乗ってるだろ」
「星が乗ってる」
「あー、それは昨日のサンドイッチの余りだな」
 浅野がドカッと椅子に座る。相変わらずがさつなくせに、こういう細かいことだけは器用にこなす。
「そういやあ、今日の昼お前の客が来てたぞ」
「? 依頼人か?」
「いや、お前の知り合いっぽい感じだったけどな、京佑くんいますかーって」
 ハンバーグを頬張りながら深海は考える。大学の友人には家を教えていないし、かといって先ほど電話した親はそれらしいことを言っていなかった。
 依頼人も、基本的にメールや電話を通してのやり取りだからここを探り当ててわざわざ来るようなやつはいないだろう。
「それがすげえ美少女でさあ!どうぞ上がってくれって言ったんだけいないならいいっつって帰っちまったんだよ。いやーほんとにあそこまで可愛い子はなかなかいないぞ」
「ふうん」
「興味ねえのかよ!もしかしたらお前の追っかけファンかもしれねえぞ!」
「だとしたら迷惑だ。教えてないのに家に来るなんて怖いだけだろ」
「冷たいなあ、お前も若いんだからさあ、もっとなんかこう、ねえの? 浮いた話のひとつやふたつ」
「ない」
 だが、深海は頭に確かに思い浮かべていた。
 性格とは反対に、随分顔のいい知り合いがいる。もしもその人物が尋ねてきたというのなら厄介だ。
 なんせ、深海の調べた限りでは―――彼女は怪盗で、今も尚厄介ごとを巻き起こしている張本人だから。

 

 

 猫猫事件帳 新章

 

 

「宵一さーん!今日は宵一さんの好きなハンバーグだよ!」
「おー、あとで食べる」
「……」
 そっけない返事に、明乃は固まった。笑顔を張り付けたまま東雲のもとに近寄り、ぐいぐいと顔を近づける。
「今できたてだよ?」
「……あとで食べるって言ってんだろ?」
「今、できたてなんだよ?」
「…………」
「今、あっつあつのほっかほかで、いっちばん美味しいときなんだよ!?」
「あーーーっ!!わかったよ!!食えばいいんだろ!!」
 様々な資料や書類やメカに囲まれた東雲は、思い切り立ち上がってズカズカとリビングへ向かっていく。
 満足そうに笑う明乃は急いでキッチンに戻り、完成したばかりのハンバーグを皿に盛った。
「そんなカリカリしちゃだめだよう、身長伸びなくなっちゃうよ」
「もう伸びねえって何回も言ってんだろうが!ほっとけ!」
「はい、これ宵一さんの分!」
 キッチンから差し出された皿を受け取る。お花型に繰りぬかれたチーズやにんじんが散りばめられたハンバーグからは湯気が上がっている。
カリカリもするだろそりゃ、深海とかいう男はいいとしても、アイツに依頼した超本人が見つからないんじゃな」
「だからって根詰めすぎると体によくないよ!はい、スープも飲んでね」
「馬鹿言え、一刻もはやくどうにかしねえと、これからの仕事に影響が出る」
「でもでも、いっぱい寝ないと大きくなれないよ? はい!サラダもいっぱい食べてね!」
「だからこれ以上伸びねえって言ってんだろうが!」
 いただきます!と苛立ちまじりの大きな声を出すが、明乃は相変わらずのんきに笑っていた。
「それだけ私たちが有名になってきたんだよ!」
「なんだよ、嬉しいのか」
「うん!もちろん!宵一さん目立つの大好きだもん!」
 それとこれとはまた違う話だろ、と突っ込みたかったが、口の中いっぱいにハンバーグをねじ込んでやめる。
 実際問題困るのは、仕事を邪魔されることよりも素性がバレる方にある。どこのどいつかわからないその依頼主とやらが、情報を掴んだ後どうするかなんて想像もつかない。
 例えば警察に提供されたら?あるいは家を襲撃されたら?
 あらゆる最悪を想像してみるが。
「おいしい?」
 まあ確かに、どのパターンでも目の前にいる笑顔の超人がなんとかしてしまいそうなものだが。
「めちゃくちゃうまい」
「やったー!よかったあ!それ大洋さんに教えてもらったレシピなんだ!」
「……お前早速連絡先交換したな? あれだけ危機感持てって言ったよな?」
 でもでも、と言い訳を始める明乃は、いつの間にかハンバーグのレシピについて語り始めた。
 東雲自身、危機感に焦っているわけではない。どちらかといえば腹が立っている、という方が正しい。実際に仕事を一つ邪魔されてしまったのは東雲にとって相当気分を害されることだ。
「まあ、いいけどよ。せめて付き合うやつはちゃんと選んで、というか立場をしっかり考えてだな……」
「あ!きのみちゃんからだ!もしもーし!」
「話を聞け!あと飯中に電話に出るんじゃねえ!」
 意気揚々と電話を取った明乃は、それはもう楽しそうにうんうん、と相槌を打ちながら話している。どうやら電話の相手は木野宮きのみらしい。彼女に関してはこれ以上言って無駄、というか、これだけに楽しそうにされては仲を引き裂くようなことは言えなかった。
「え? 宵一さんなら目の前にいるよ、変わる? うん、わかった、スピーカーにするね」
「?」
 言って、明乃はスマホの画面を押した。どうやら通話をスピーカー状態にしたらしい。
 一体あのバカ探偵が自分に何の用があるのか。怪訝な顔でスマホを見つめていると、想像している声とは別の声が部屋に響いた。
『あ……もしもし、宮山ですけど』
「お前この前俺と連絡先交換しただろ!」
『そういえばそうでしたね。すみません。携帯に人の連絡先が入ることってあんまりないので……』
「……いや反応しづらいわ!!」
 普段は食べたがらないサラダを口に入れながら東雲が叫ぶ。
『実はお伝えしたいことがあって。これは俺が掴んだ情報じゃなく、水守さんからなのですが』
「水守ぃ? ……そういやアイツの連絡先知らねえな」
『はい、だから俺から東雲さんに話を回してくれって頼まれたんです』
「で、その情報ってなんだよ」
 スープを飲み切って、ごちそうさまでした!と器をテーブルに置く。明乃は嬉しそうににこにこしている。
『アンタ人がせっかく情報持って来てやったのに、もうちょっと態度なんとかなんないわけ?』
 スマホの向こうから、また聞き慣れた声がした。それは間違いなく、水守綾のものだ。
「いやお前も一緒にいんのかよ!で、なんだよ早く教えろよ」
『教えてくださいの間違いじゃないの? もうちょっと可愛げ覚えなさいよ』
「早く言えよ今からそっち行ってやろうか!!」
『来なくていいわよ、顔見たくないもの。まあいいわ、今から言うこと、ちゃんと聞きなさい』
 食器を片付けにかかっている明乃は、話を聞く気がさらさらないらしい。溜息を吐きながら、東雲は横目に洗い物を始めた明乃を見た。
『アンタ、狙われてるわよ。それも相当な恨みを買って』


*   *   *


先日、依頼に来た初老の男性が怪盗を探して欲しいと言ってきた。どこからか仕入れた情報は東雲の容姿と一致しており、しかも本人の口から「別のルートで情報を得るつもりだったが何故か届かなかった」とまで聞いている。
 水守から聞いた内容はこうだった。普通に考えれば、東雲のことで間違いないだろう。だが、東雲にとって盗んだものはガラクタ同然だ。以前は一部売り払っていたものの、今となってはそれもせずほとんどが倉庫に眠っている。
 東雲が怪盗になるのは、欲しい物があるからではない。普通なら手にできないものを手に取りたいからでもない。それはあくまで盗む過程を、演出を、あるいはストーリーを楽しむためだ。
 だから東雲は焦っていた。件の初老の男性が言う"鏡"に心当たりがないのである。だが、心当たりがないと言っても覚えていないだけだ。盗んでいないとも、盗んだとも言い切れない。
「調べてきたぞ」
「早いな、案外仕事はできんじゃねえか」
「当たり前だ、アンタの情報を盗んだのは俺だぞ」
「返り討ちにあっといてよく言うぜ」
 深海からファイルを貰い受け、東雲は早速それを開いた。この男を待っている時間の間に、注文していたオレンジジュースの氷はすべて溶け切ってしまった。
 ファイルの中には水守を訪ねてきた男性のことや、実際に鏡が存在していることを根拠付ける文章が羅列されている。
「……見覚えあるような、ないような。あーー!!わかんねえーー!!」
「色々調べたが、それらしいニュースなんかは出てこなかった。その爺さんがボケて捨てた可能性も捨て切れないな」
「だとしたらめちゃくちゃ迷惑じゃねえか!ただの濡れ衣じゃねえかよ!!」
「濡れ衣だと言い切れるのか?」
「いや……それは……言い切れない」
 現在、水守が初老の男性に連絡を取り、無くなった時期などの詳細を聞いてくれているらしい。だがまさか本当に自分が盗んだもののせいだとは思わないじゃないか。東雲は頭を抱えた。
「たかが鏡でここまでするかあ? 第一、そんなもん俺が盗むとは思えねえが……ああいやわかんねえ、なりたての頃は面白そうならなんでもよかったし……なんか意味わかんねえ人形の頭とかあるし……」
 一応、倉庫と化している部屋を漁ってみたものの、それらしき物は見つからなかった。水守から聞いた限り、その男性は相当怒っているらしいからハイ返しますで許してもらえるとも思えないが。
 そもそも覚えていないほど前に盗んだ物なら、今になって尚行方を追うほど、相当な執着と怒りがあるのだろう。
「で、どうするつもりだ。返すこともできないし、なんなら濡れ衣の可能性もあるんだろ。これ以上追うなと警告するか、それとも消すか」
「見た目のわりに物騒だなお前!?」
「一番合理的だろ」
 深海は表情ひとつ変えずにそう言うが、東雲はげんなりする。
「生い先短い爺さんにそんなことしたくねーよ。だけどまあ、そうだな。これ以上追われちゃこっちも迷惑だ。それこそお前みたいな奴が今後出てきて、また似たような目に遭うかもしれねえ」
 東雲は頭を掻きむしった。どうするのが一番いいのか、頭を使おうにもいろんな思考が邪魔をしてくる。
「おどろかしちゃうのは!?」
 ひょこり。テーブルの脇からリボンが生えてくる。なぜか左右に揺れているリボンは、楽しそうに踊っているようにも見えた。
「リボンが……動いてる」
「わたしのリボンは特別性なので!!動くし踊るし歌いますぞ!!」
「そうなのか、すごいな」
「おい、遊ぶのはいいけど向こう行っとけって言っただろ。明乃はどうした」
「ここにいるよ!!」
 ぴょこん、とリボンの横から跳ねた髪が生えてくる。別の席で間違い探しに勤しんでいたはずなのだが、どうせ見つける前に飽きたのだろう。
「脅すってことかあ? んな物騒なことしたらそれこそ警察沙汰だろうが」
「おどさないよ!おどろかすんだよ!」
「そうだよ宵一さん、脅すなんてしちゃいけないよう」
「何が違うんだよ!何が!!」
「そうだぞお、脅したりしたら爺さんびっくりして死んじまうかもしれねえよお?」
 続いてその横から、つるつるの丸い頭が生えてくる。と言っても、ほとんどテーブルの下に隠れきれず、浅野の顔は半分以上見えていた。
「いいんじゃないか?」
 深海が口を開く。
「こいつはもう追わない方がいい、と思わせればいいんだろう。やり方なんていくらでもあるんじゃないのか、アンタなら」
 言われて、東雲は考えた。
 確かにそうだ。追わない方がいいと思ってもらえたら、それでいいのだ。絶対に追わない方がいい何かだと、相手に思わせて―――……
「なるほどな」
「ねー!!ほらね!!なんせわたしは名探偵ですから!!」
「今更だが、探偵なのに怪盗とつるんでるのか」
「明乃ちゃんは怪盗である前にお友達ですから!!」
「そうなのか、なら問題ないな」
「いいかもな」
 雑談を遮るような独り言。
 東雲の表情は、最早怒りや疲れではなくなっていた。
 それはいつも通りだ。子供が悪だくみをして、いいことを思いついたときのような、あくどい笑み。
「悪くねえ、そうだ、俺ならいくらでもやり方がある」
 そう言った東雲の顔は、やはり悪党そのものなのだが―――……明乃と木野宮は、今から始まる何かに期待して、心底目を輝かせていた。

 

猫猫事件帳 新章 その伍

 

 刑事になるのは、怪盗になるよりも大変だった。
 それもそうだ、怪盗なんてお膳立てしてもらったようなものだから、最初から必要だったのはほとんど覚悟だけだった。
 たまに、刑事よりも怪盗の方が向いていたんじゃないかと頭をよぎる。そっちの方が、好きなことができて楽しい人生だったんじゃないかと。
 まあ、そんなことを考えても仕方がない。壱川遵は渡された捜査資料を読むふりをしながら、先日のことを考えていた。
 東雲宵一の情報を欲しがっている奴がいる。そいつが一体どこの誰かは全くわからないと来た。個人的な恨みや因縁、もしくは壱川と似たような立場の人間。可能性はいくらでもある。
 壱川の仕事は事件を解決に導くため、調べることだ。それは間違いなく、怪盗たちを逮捕することとイコールである。だが、せめてそこに行き着くまでに、できるだけ多くの人間が傷付かなければいい。壱川が願うのは、ただ、それだけなのだ。
「壱川君じゃないか、久しぶりだね」
 声をかけられて壱川は顔を上げた。見知った顔に思わず頬付をついていた手を行儀良く正す。
「お久しぶりですね、本当に。お元気でしたか?」
 穏やかな微笑みを浮かべている中高年の男性は、壱川がまだ駆け出しの時に署内でお世話になった人物だ。歳もかなり上だし、今となっては現場に出ないから会うこともあまりない。
「勿論。君も元気そうでよかったよ。私はもう老体だからな、若い者が元気だと安心する」
「よしてください、十分まだまだ若いでしょう」
 出会った時から穏やかな人だった。反面厳しい部分もあるが、そこを上手く使い分けられる人物だ。人望も厚く、多くの人に慕われている印象がある。特に壱川は目をかけてもらっていたように思うが、本当のところはどうかわからない。
「そういえば」
 資料を閉じて、壱川が立ち上がる。
「息子さん、元気ですか? もう今は大学生くらいでしたっけ」
「ちょうど今大学生だよ。大学からは一人暮らしになったから、なかなか会えなくて寂しいね」
「はは、まあ男なんてみんないつかは巣立って行きますからね」
 近くに置かれている自動販売機の前に立ち、何を飲もうか考えながら口を動かす。コーヒーか、たまには知り合いの女性の好みに合わせて紅茶でも飲んでみようかと。
 考えていると男性がそばまで来て、先に小銭を入れてしまった。
「いいんですか」
「私が若い子らにできるのなんてこれくらいだからね。むしろ、ただの缶コーヒーで申し訳ないよ」
「いえいえ、嬉しいです。こういうことで頑張ろうと思えますから、俺」
 結局ブラックコーヒーを選択して、ありがたくいただくことにする。
「それじゃあ私はこれで。久しぶりに顔が見えたもんだから、つい声をかけてしまったが……邪魔して悪かったね」
「とんでもない、またよかったら飯でも行きましょう、深海さん」
 深海と呼ばれた男は、壱川に微笑んで去っていく。
「……俺もああいうオジサンになりたいよなあ」
 独り言を呟きながら、壱川はコーヒーを口に含んだ。件の東雲の話を聞いた時も、思ってはいたことだ。
 漢字さえ変えれば、どこにでもいる名前のはずだ。そもそも、そのなんでも屋とやらが本名を名乗っているかもわからない。
 こんな言い訳をするくらいなら、本人に聞けばよかったのだ。だが、声にならなかった。それは先輩への好意と敬意でもあり、単純にーーー……
「……別に珍しい苗字じゃないよな?」
 良くない予感が、してしまっていたからだ。

 

 猫猫事件帳 新章

 


「オイほら、なんか言うことあんだろ」
「迷惑をかけたようですまなかった、改めて深海京佑だ」
「オレが浅野大洋!いやほんとに悪かった!!」
 この通り!と言って浅野の頭がテーブルに勢いよくぶつかった。痛くないのだろうかと思わず心配になるが、とりあえず反応に困る。
 宮山紅葉は唖然としていた。唐突に木野宮から告げられてファミレスに行くと、東雲と明乃がいたからというのもある。それとは別に、見知らぬ男性が二人いたことも、その二人がどうやら件の書類を渡してきたなんでも屋らしいということも。
「いえ……間違いは誰にでもあることなので」
「お前なあ!一回襲撃されてんだぞ!? ちゃんと詫び入れさせろ詫びィ!」
「きのみちゃん今日は何にする? 私ねーえっとねーこっちのチーズケーキのセットにしようかな? あ、そういえばね大洋さんがすっごくケーキ作るの上手で、本当にお店みたいに美味しくて、今まで食べたショートケーキの中でいっちばんおいしかったんだよお!」
「おいおい照れるぜ!よかったら今度好きなケーキ作ってやるよ、なんならシュークリームもアイスもなんでも作れるぞ!」
「シュークリーム!シュークリーム食べたい!」
「私も!私もーー!!」
 はしゃぐ一同を見ながら、東雲は肩を落とす。結局いつもこの調子に巻き込まれるのだと言いたげだった。
「まあ、お前らも迷惑かけられてるだろうし、つーか保護者のお前が一番迷惑しただろうからな。しっかり詫び入れろって言ったんだよ」
「そんな、お構いしてくれなくても」
「いや、普通怒ったり不安になったりするよな!? 俺がおかしいのか!?」
「まあ、ほら、明乃ちゃんがいてくれたおかげで無事だったわけだし……むしろ、怪我とかありませんでしたか?」
「あーーー!!まあそうなるよなあーー!!そりゃそうだなあ!!」
 ひとしきり大声を出して頭を掻きむしった後、諦めたのか東雲は大人しくなった。ストローを咥えてつまらなさそうにオレンジジュースをすすっている。
「それにしても本当に人違いだったとは」
「依頼主から来た情報が、チェックの帽子に白いワイシャツだけだったんだ。まあそれだけあれば十分だと思っていたんだが……」
 深海が木野宮を見る。
「すみません、知らない人から物を受け取らないように教育しておきます」
「いや、俺のミスに巻き込んで悪かった」
 宮山は内心、ほっとしていた。どうやら抜けているところはあるが常識人らしい。とても仲良くできそうだ。
「それで結局、その依頼主ってのを捕まえるのを手伝うって条件にはなったんだが、思いのほか情報がなくてな」
「あれからメールを送ったが返事はない。まあ、こんな職業だから疑われたのかもな」
「わかってんのはそいつが明乃じゃなくて俺のことを探してるってことだけだ。今んとこほぼ手詰まり状態だよ」
 浅野が明乃と木野宮に、スマホに入った自作のお菓子フォルダを見せている。それを横目に見ながら、宮山は他人事のようにはあ、と言った。
 正直、自分が突っ込める領分での話ではなさそうだというのが感想だ。宮山も面白そうなことに首は突っ込みたいが、できることはあまりにも限られているだろう。それに、東雲自体がこの事件に関与されるのを嫌がりそうだ。
「もし、何か有力そうな情報があれば教えてくれ。別にわざわざ調べなくてもいいが」
「ま、そうだな。首突っ込めとは言わないが、たまたま聞いたとか見たとかそのレベルでいい、それっぽいこと知ったら教えてくれよ」
 連絡先交換すっか、と東雲が自身のスマホを取り出す。この人も染まり始めてるな、と思いながら宮山もスマホを出した。
「宵一さん、お友達できてよかったねえ」
「よかったですなあ」
「友達じゃねえよ!!ちゃんと立場考えて喋れ!!」
 連絡先交換するのはいいのか……という一同の空気に気付かぬまま、東雲は連絡先が表示されている画面を見せた。
「あの、よかったらなんですけど」
 ついでと言わんばかりに、宮山が深海の方にスマホを向ける。まあ、こんな職業では受け取ってもらえないだろうと思いつつ、半分好奇心でだ。
 しかし深海はあっさりとスマホを取り出し、宮山と連絡先を交換した。きっと仕事用のスマホか何かなのだろう、と宮山は勝手に納得する。
「今日の用はそれだけだ。お前もしっかり顔やらなんやら見といた方がいいかと思ってな。ま、お節介だったら悪かった」
 帰るぞ、と東雲は立ち上がる。だが、明乃は一向に立ち上がる気配がない。
「えーー!!もう帰っちゃうの宵一さん!今から大洋さんちでみんなでお菓子作ろうって話してたのに!!」
「シュークリーム作り大作戦!!」
「ちょうど生クリームも余ってるしなあ!買い物だけ先に行っちまうか!」
「宵一さんもシュークリーム好きでしょ!? ねえねえ一緒に行こうよお!」
「誰が行くか!お前もうちょっと危機感持てよ、そいつに殴られたんだろうが!!」
「えー殴られてはないもん」
「吹っ飛んだのオレの方だよ!?」
「お前最近反抗的になってきたな……」
 怒りの炎を背景にそう言うも、明乃の顔を見ると怒れる気がしない。
 木野宮と関わってからの明乃は、前よりも明るくなった気がする。遊びに行くたびにあんなに楽しそうに報告されては、むげにしづらいというものだ。
「……はあ、わかったよ。ただしカスタードも入れろよ」
「わーーい!やったねきのみちゃん!」
「今日はシュークリームパーティだ!!」
 深海は静かにコーヒーを飲み、宮山はぽかんとしている。
 まあ、東雲がこう言っているのであれば悪い人たちではないのだろう。
 思いながら、宮山はスマホに新しく登録された番号をじっと見つめた。


 * * *


「あーーー!今日は疲れた!」
 水守が大きく背伸びをすると、背中から大きな音が鳴った。本格的に背中や肩が凝っているらしい。日中はほとんどデスクワークをしていたから余計だ。
 冷めた紅茶を口に含みながら時間を見る。今日は疲れたしもう閉業にしてしまおう。それができるのが自営業のいいところだ、と水守は思う。
 事務所設立に向けてはほとんど壱川がやってくれたようなものだから大した苦労もしていない。今となっては慣れてきて、大抵のことは自分一人でできるから自由な時間も多い。
「会社に就職しなくてよかったって心から思うわ」
 そんなことを呟きながら、事務所の扉にかかってあるドアプレートを閉店に変えるため、扉に向かっていく。
 大抵は先にメールや電話がかかってくるが、たまに事務所を訪問してくる客もいるのだ。まあ、そんなことは滅多にないのだが。
「晩御飯何食べよっかなー、今日は絶対肉の気分―――……」
 ご機嫌な独り言を言いながら扉を開ける。そこでピタリと口が止まった。扉の目の前に、丁度今そのドアノブに手をかけようとしていたであろう初老の男性が立っていたからだ。独り言を聞かれたであろう恥ずかしさに襲われて、水守の顔が赤くなる。
「こ、こんにちは!今日は依頼ですか!? あれアタシ予約見逃してたっけ……」
「ああいえ、こちらこそ急にすみません。予約はしてないのですが、予約制でしたか?」
「あ、いや、予約なくても全然大丈夫です。よかったら入ってください」
 どうも、と柔和な笑みを浮かべた初老の男が、ドアをくぐる。タイミング悪いな、なんて考えながらも、水守はお茶を淹れた。
「紅茶飲めます? 無理なら緑茶もありますが」
「いえ、お気遣いなく。聞いてもらえたら、すぐ帰りますので」
「そうですか、あ、よかったらソファ座ってください」
 こういった初老の男が尋ねてくることは珍しくはない。大抵、探し物や探し人だ。それも、大昔の情報を頼りに人を探せなんていう無理難題だったりもする。水守は新しく淹れた紅茶を飲みながら、自分もソファに腰掛けた。
「うち、話聞くだけならお金はとらないので、どうぞ」
「ありがとうございます。実は人を探してほしくて……」
 ほら来た。水守は半ば嫌気が差していた。大抵、探している人物は死んでいたり遠くに引っ越していたりして、労力の割に報酬が少ない依頼だからだ。だが拒否しようとも思わない。人の手助けになれるのであれば、素晴らしいことだと思う。
「ただ、その人の情報はかなり少ないのです。だから、前払いと成果報酬で、二回にわけていただけると」
「わかりました、それで? 探してる人っていうのは」
「怪盗です」
 ギクリ。
 いや、なぜギクリとしなければいけないのか。
 ―――まあ、身近にあんなにいっぱいいるしな。
「聞いてくれますか」
 初老の男性は静かに語り始める。せめて知り合いじゃないことを祈って水守は聞いた。
「数年前になります、あれは、私の家に受け継がれていた鏡でした」
「鏡?」
「ええ、とても古い鏡です。代々、一族の嫁になる者に結婚の日に受け継がれてきた、大事なものです」
 悲しそうな声色だった。きっと大事にしていたのだろうと想像がつく。
「私は趣味で美術品なんかも集めていまして。狙われるのであればそっちだろうと思っていたのですが」
「鏡が盗られた、と」
「ええ、警察にも話したのですが行方はわからず、かなり深いところまで探したのですが売られているわけでもないようでした」
 男の雰囲気が変わる。それは、悲しみよりも怒りが先行した空気だった。
「半ば諦めていたのですが、最近になって、とある筋から鏡を所有している男を知っているとの情報がありまして」
「ちなみに、その情報はどこから?」
「それは言えません。まあ、詳しくは言えないだけで古い友人なのですが」
 男は高そうな革の鞄からメモを取り出した。どうやらその情報をまとめてくれているらしい。
「実は先日、別の情報筋からその男についての詳細が送られてくる予定だったのです。ですが、手違いなのか届かず、連絡もつかなくなってしまい……まあ、からかわれただけだったのかもしれませんが」
 どれどれ、と水守がメモを見る。そして最後まで読み切るよりも早く、その体は固まった。
 身長160CM程度・男
 黒髪
 容姿は若い
 目つきが悪い
 態度が大きい
 ……と、それだけで人を探せと言うのなら、なかなかに無理難題である。
「……これは」
 だが、こんな怪盗を水守は知っていた。よく知っていた。何ならこの前一緒にファミレスにいた。
 他人の空似もあり得るが、いやしかし、と何度も頭を回転させようとする。
「それだけでは難しいかもしれません、見つからなくても探していただいた分はお金を払います。どうか、どうか」
 別の情報筋からの詳細。届かなかった情報。
 総括してしまえば、今すぐにこの人に答えを伝えるのは簡単だ。
 水守は頭を抱えた。こんな話があってたまるものかと。
「……わかりました、とりあえず探してみます。お金の話は経過報告の時にしましょう」
 こんな偶然では済まないことが、世の中にはありふれているのかと。

 

 

猫猫事件帳 新章 その四


 自分より非力な人間なんて腐るほど見てきた。なんなら大抵の人間はそうだから、明乃にとって自分より他人が弱いことは当たり前のことだ。
 どうやら普通の人間は、大男を吹っ飛ばすほどの力はないらしいし、天井から綺麗に着地することもできないらしい。その事実はいつのまにか体に刷り込まれていて、人に対する恐怖が薄れた反面で、人に対する優しさも生まれた。
 明乃にとって、自分より他人が弱いことは当たり前のことだ。
 必要とあれば”他人”を退けるために力を振るうこともある。それは必要なことだから嫌だとも思わない。
 だけどまあ、明乃にとって、やはり明確に他人は弱い生き物だ。だからたまに、いたたまれなくなる。圧倒的な力の差にねじ伏せられる人間に対して、可哀想だと思うことも。
「ごめんなさああい!本当にごめんなさああい!」
「いててててて、痛い痛い痛い、もうちょっと優しく縛り上げてくれねえかなあ!!」
「本当にごめんなさあああい!宵一さんに言われて仕方なく!仕方なくなんですうう!」
「オイコラ全部俺に押し付けるんじゃねえよ!!嫌々やらせてるみたいだろうが!!」
「ええええん!宵一さんやっぱり可哀想だよう!吊るし上げるのはさすがに可哀想だよう!」
「いいから吊るせ!!俺の神聖なパソコンに手出しやがったんだ容赦すんじゃねえ!!」
「でもおおお!でもおお!!」
「…………」
「京佑!? おい京佑!? ダメだこいつ意識失ってる!!」
 特に、自分が”いい人”だと判定した人間に対して明乃はすこぶる甘い。特にお菓子やお茶を出してくれるような人に、悪い人はいないと思っている節がある。
 東雲は喚きながらも片手で大男を吊るし上げる明乃を見てため息を吐いた。それでもまだ、東雲の言うことを優先してくれるだけ良しとするしかない。

 


 猫猫事件帳 新章

 

「確かこんな感じだったかな!!なかなかの力作ですぞこれは!!」
 ババーーン!と自慢げに木野宮が出した紙には、まるで人とは思えない乱雑な絵(?)が描かれている。
 こちらが人を描いてくれと言った以上、多分これは人の絵だ。そう、多分。
「えーーっと……」
 さすがの水守も言葉に詰まっているようだった。紙に描かれた二人の男(?)は、どこをどう分解したら人間と見れるのか、一種のパズルのようになっている。
「な、なるほどね。こういう奴らが来たのね、ありがとう木野宮さん」
「……水守さん、無理しなくていいですよ」
 えっへん、と腰に手を当て満足そうにしている木野宮から、水守が紙を受け取る。
 つい先日、明乃と映画に出かけたはずの木野宮はかなり遅い時間に帰ってきた。予想通り明乃と一緒に帰ってきたため安心したのもつかの間、明乃が申し訳なさそうに玄関の前でもじもじしているものだからとりあえず茶の間に通した。
 出されたお茶とお茶菓子を嬉しそうにほおばりながら、しかし明乃はやはりどこか申し訳なさそうに口を開く。
「実は、帰り道に襲撃にあって」
 そんなことがほいほいあってたまるものか、と思わなくもない。だが宮山は明乃の人知を超えた身体能力と、木野宮に対する気持ちを知っている。決して悪い子ではないのだろうということも。
 だから、最初に思い描いたのは「相手が無事かどうか」だった。さすがにほいほい人を殺すような子ではないと思うが、相手もさぞ大変だっただろう。何かの間違いでそいつらが死んでいたとしたら、この子たちは―――と、そこまで考えて宮山は口を開いた。
「怪我はない?」
 優しい声色に、明乃はようやく顔を上げた。なんだかとても嬉しそうだ。あまりそういった心配をされないのだろうか。
「はい!えっと、私もきのみちゃんも、怪我はないです」
「そっか、ならよかった。木野宮を送ってくれてありがとうね」
「いえ!……でも巻き込まれてしまったのは事実なので、怖い思いをさせたかも……」
「うちの木野宮が、そんな人間に見える?」
 思わず笑いながら言うと、明乃もまたふふっと笑って首を振る。
「ううん、見えない。きのみちゃん、いつも私に優しくしてくれるもん」
「うん、俺もそう思うよ。だからまあ、木野宮のことは大丈夫だと思うけど。続きを聞いても?」
「あ、はい、えっと……」
 明乃とまだ話ができると喜んでいた木野宮は、明乃と半分こしたお菓子を食べきっていつの間にかソファで眠っていた。
 その間に明乃から、今日あったことを詳細に聞かされる。
 二人組の男、名前、なんでも屋
 大した情報はなかったが、ひとまずあの封筒の正体はただの勘違いの産物であり、木野宮が今後狙われることもないだろうということに安心感を覚える。そして、それとは別に。
「一つ、聞いてもいいかな」
「え、はい!なんでも!」
「その、なんでも屋とか、情報屋とか、そういうのって君たちの世界じゃ結構当たり前だったりする?」
 好奇心。なんだかこういうのにも慣れてきたもんだと思っていたのだが、どうやら宮山の中にはまだ好奇心がしっかりと埋まっているらしい。
 会ってみたい、と思った。まるで中学生のようだと自分を自制しようとしても、こんなことを目の前にして聞かずにいられるだろうかとも思う。
「うーん……どうなんでしょう、宵一さんはたまに別のお仕事の人と連絡とったりしてるみたいだけど、私は詳しくなくて、ごめんなさい」
「いや、今のはただの好奇心だから気にしないで。それより明乃ちゃんももう帰らないと、結構遅いから東雲君が心配するんじゃない?」
「え?あ、ほんとだ、もうこんな時間!遅い時間なのにごめんなさい!あと、お菓子ごちそうさまでした!おいしかったです!」
「よかったらまた遊びに来てね」
「はい!!ありがとうございます!」
 丁寧にお辞儀する明乃は、今まで見た中で一番嬉しそうにしていた。それもそうだ、普段明乃と会う場所と言えば、こんな風に笑っていていい場所ではない。
 いい子なんだろうな。
 宮山はそんなことを思いながら明乃を見送った。すぐにソファで眠っている木野宮を抱きかかえながら頭の中で情報を整理する。
 結局、木野宮にあの封筒が渡ったのは向こうの間違いだったらしい。まだ本当にそう言い切れるかはわからない。だが、どちらにせよ問題は中身の方だ。あの書類は、他の誰かに渡るはずだったらしい。そしてそれは、明乃と東雲の仕事に関することだ。
 これを楽観視していいのか、宮山にはわからなかった。とりあえず、水守と壱川に連絡をとろう。名前と何をしているのかわかったのなら、そこから調べがつくかもしれない。
 宮山は腕に垂れた木野宮のよだれを拭うこともなく、彼女をベッドに放り投げた。すやすやと幸せそうな表情で眠る木野宮は相変わらずで、まるで襲撃された人間とは思えない。
「……ま、平和が一番だよなあ」
 宮山は呟いて、床に膝をつき、ベッドで眠る木野宮を見る。
 彼女には怪我も、怖い思いもしてほしくない。なのに、彼女といると本来の好奇心が大きく刺激される。
 そしてそれを安全圏から見守っているだけではだめなのだ。知った時点で足を踏み込んでいるのと同じ。それには危険が必ず伴う。
 宮山は考えながらも、今日聞いたことに思いをはせていた。どうしてこんなにも、現実は面白いことがたくさん起こるのだろうか、と。


 そして現在に戻る。水守と壱川は概要を聞いて、どんな感じの人だったの?と木野宮に聞いた。 
 それで出てきたのが件の絵だ。水守と壱川はまだ不思議そうに絵を眺めている。ここが目じゃない?ここが口じゃない?とパズルの答え合わせをしながら。
「まあ、名前はわかってるし。いくらでも調べようはありそうだね」
「いいの? 前に言ってたじゃない、本名はわかっても調べないのが暗黙の了解だとかなんとか」
「それは怪盗の話でしょ? こいつらは怪盗じゃないし、いいんじゃないかな」
「なんか丸くなったわよね、アンタ」
 とりあえず貰っとくわね、と言って絵(?)の書かれた紙を水守は鞄にしまった。
「アタシも知り合いとかに聞いてみるわ。まだ、本当に木野宮さんを狙ったわけじゃなかったのかわからないし」
「そうだね。一旦去ったのは、明乃ちゃんがいたからかもしれない」
「すごかったんだよお!!ドゴーーン!ってなって、バーーン!!ってなって、明乃ちゃんがデッカい男の人を吹っ飛ばして、それからビュンビュンビュンビュンーー!!」
「危機感なくてすいません、ほんと」
 水守は笑いながら肩をすくめた。どうやら木野宮のこの感じにも慣れてきたらしい。
「とにかく、怪我とかなくて良かった。追って調べていきましょ。本当に勘違いだったのならそれでいいし」
「東雲君の情報が流れてたっていうのも気にかかるしな。どっちかっていうと危ないのは彼らかもしれない」
「ほっとけばいいじゃない別に。ヘンテコメカニックチビと、めちゃくちゃ強い超人コンビよ? ちょっとやそっとじゃどーにもできないわよ」
「それはそうだけど……」
「アタシはそこ、首突っ込まないからね。ま、またなんかわかったら共有するから!それじゃ」
 水守はそそくさと壱川を残して席を立った。
 壱川がひらひらと手を振りながら笑っている。
「俺の方でもいろいろ探ってはみるよ。本名だとは思えないが、大きな手がかりはあるし」
「お願いします。やっぱり俺らだけでは、どうしようもない部分もあるので……」
「いいのいいの、泥臭いところは任せておいてよ」
 宮山が小さく頭を下げる。
「それにしてもきのちゃん、よく名前覚えてたね」
「む?」
「名前とかいつも忘れちゃうだろ」
「むむ、わたしだってやる時はやりますぞ!!でもねー」
 ケーキを頬張りながら木野宮がむぐむぐと喋る。いつも壱川の金だというのに、少しは遠慮を覚えないものか。
「名刺もらったからね!!綺麗な名前だなーーって思ったらおぼえてた!」
「……名刺?」
「うん、名刺!」
「電話番号とかメールアドレスとか書いてるやつ?」
「うん!書いてた!!」
「それを早く言いなさい」
 頭にチョップを叩き込む。同時に潰されたリボンがぴくぴく動いた。
「で、どこにあるの? その名刺。それがあれば別に調べなくても連絡つくんだろ」
「えっとねーー確かあの名刺は」
 木野宮は思い出す。あの日の夜のこと。名刺を受け取って、それからどうしたのだったか。
「そうだ!明乃ちゃんがね!ポッケに入れて持って帰ってた!!」

 


 * * *

 

 

「明乃ォ!!!」
「ハヒッ」
 怒号に近い声が、マンションの一室に響き渡る。今日は明乃の家事お休みデーだから、明乃はのんびりとテレビでアニメを眺めていた。
 脱衣所の方からズンズンと怒りの炎を燃やして近寄ってくる東雲が視界に入り、思わず涙ぐむ。
「ど、どうしたの宵一さん!」
「お前、またティッシュ入れっぱなしで洗濯機に入れたな!? 見ろ!お前の服も俺の服も、紙だらけじゃねえか!!」
「あう、ちゃんと出したもん私じゃないもんんんんん」
「お前しかいねえだろ!!」
「そんなことないもんんんんん!!!」
 詰め寄りながら持ってきた明乃の服には、たしかに細かく白い紙切れがたくさん付着していた。
 東雲は出かける際にティッシュは持たない。それと、明乃は今までも何度か前科がある。目に見えて明乃の犯行に思えたが、しかし明乃はきちんとティッシュを出してから洗濯機に入れた覚えがあった。
「ほんとだもんちゃんと出したもんんん!たしかに昨日は疲れてたけど、でもティッシュはちゃんと出したもん!!ちゃんとそこにあるもん!!」
「じゃあなんだってんだよこの白いのは!他に何があんだよ!!」
「だからそれは私じゃ……」
 ハッとして口を閉じる。
 そういえば昨日、普段ならないはずの紙がもう一枚ポケットに入っていたはずだ。
「あ、あ、あの……」
「なんだ? やっぱりお前だったのか?」
「ティ、ティッシュではない、です……でも」
「?」
 汗をたらたらと流しながら、明乃は気まずそうに東雲を見上げた。
「名刺、かも、それ……えへへ」

 

 

 * * *

 

 

 冒頭の少し前に戻る。
 見事名刺を粉々にしたことで東雲の怒りは最高潮になった。忘れてたんだもんごめんなさい疲れてたんだもんと泣き喚く明乃をよそに、買ってきていたロールケーキはふたつとも東雲の胃袋に収まった。
 どうやら自分たちの情報を売った馬鹿がいるのは本当らしく、せっかく連絡先を知り得たのにそれがなかったことになったのだ。
 だが東雲は諦めなかった。自らのパソコンにある足跡を解析し、辿り、いったいどこのどいつがそんなことをしたのか知るまで止まるつもりは毛頭なかった。
 寝ずに何時間もパソコンと向き合い、晴れてその大バカどもがどこからこのパソコンにアクセスしていたのか解析できたのである。
 東雲は速攻乗り込んだ。東雲たちが住むマンションからは少し離れた都市にあるマンションで、それこそ明乃と二人で暮らしている部屋と引けを取らないくらいの大きな部屋だった。
 難しいことは何も考えず、ひたすらにインターホンを持てる限りの力全てを使って連打する。
 インターホンに出た男は陽気な声で挨拶してきたが、どうやら客か何かと勘違いしているらしい。すぐに部屋に通され、東雲たちと深海たちは邂逅することになった。
「らっしゃい!!まあとりあえず座ってくれよ!ってあれ? この前の嬢ちゃんじゃねえか!!元気にしてたか!!」
 浅野が歯を見せて笑いながら、明乃の肩を叩く。明乃は今からすることを想像して、えっとお、そのお、と気まずそうにしていた。
「そんな固くなるなよ!拳を交えた中だろ!? そしたらもうダチみてえなもんだ!!もうすぐ京佑が来るから、それまで菓子でも食っててな。和菓子と洋菓子どっちがいいよ?」
「!!!洋菓子でお願いします!!」
 ロールケーキを食べ損ねていた明乃の顔がパァッと明るくなる。浅野は大きな声で応!!と返事をして、キッチンからショートケーキを二切れ持ってきた。
「これはなかなかの自信作なんだぜ!!イチゴもいいやつ使ったし、とにかく食べやすくそれでいて甘酸っぱく……」
「え? え? これ、お兄さんが作ったの!? すごいすごい、すっごくおいしい!お店のやつみたい!おうちでこんなクリーム作れるんだ!」
「へっへっへ、それはなあ、オレ流のクリームのコツがあって……」
「無駄話ばかりしなくていい」
 話の途中で、奥の扉から深海が入ってきた。深海はソファに座っている明乃と、その横にいる東雲を一瞥して目を細める。
「アンタは……」
「よう、クソ野郎。お前に聞きてぇことがあったから来た」
「まあ、そうなるよな。来ると思って名刺を渡したから問題ない」
「名刺は消えちまったよ、馬鹿が洗濯機で回しちまったせいでな」
「あう……」
「? じゃあどうやって」
 ここがわかったのか、と。聞こうとして止まる。それ以外に思いつく方法はいくつかあるが、一番最悪のパターンが頭をよぎったのだ。
 東雲は全力の悪どい顔で笑った。
「そうだ、俺のパソコン覗いただろ。そっからここを割り出した。ついでに、お前のパソコンにもお邪魔させてもらったぜ」
「……そこまでするか、普通」
「これでおあいこだろ? 安心しろ、大事なとこまでは見てねえよ」
 東雲が出されたショートケーキの皿を、明乃の目の前に動かす。ロールケーキのことを多少は悪かったと思っているようだ。
「で、こっからは相談だ。相談だぜ? 命令でもないし強制でもない、優しいだろ」
「早く言え」
「俺たちの情報を欲しがってた奴を教えろ。それと、今後そういう奴が現れても二度と、絶対に情報を流すな」
 東雲の鋭い眼光が深海を射抜いた。本気で、怒っている目だ。
「できないってんならお前のパソコンの中身、全部インターネットにぶちまける」
 それは深海にとって、一番困ることだ。なんせあのパソコンには、今まで依頼で集めた情報も、なんなら顧客の情報まで入っている。それがネットに流れたとあれば、今後一切、深海が日の目を見ることはなくなるだろう。
 待っているのは破滅。だが、目の前の男にたった一人の顧客の情報を流すことも相当なリスクだ。回り回って結局同じ道を辿ることになるかもしれない。
 この商売は信頼で成り立つ。それをよく知っている。だからこそ素直にはいともいいえとも言えない。
 舐めていた。
 素直にそう思った。
「一応、俺からも"相談"してもいいか?」
「するだけならタダだからな」
「顧客の情報は教えられない。信頼に関わるからだ。だが、アンタたちの情報を流さないことは了承しよう」
「それで?」
 正直、そんな話が通る相手ではないと気付いていた。それほどまでに東雲は強いカードを持っていた。だからこれは本当に"相談"だ。
「アンタら、怪盗なんだろう。今後それを手伝う。俺たちはなんでも屋だ、下調べも売り捌くのも請け負うことができる」
「話になんねえ、明乃」
「ふぁい?」
「こいつらどっちも縛って吊るせ」
「大洋」
「えええええ!!!この前の見てなかったん!? 思いっきり吹っ飛ばされてたんだよオレェ!!!勝てるわけなくない!?? 流石に無理じゃない!?」
「うるさい泣くな、何のためにここにいるんだお前は」
「そうだよ宵一さあん!勝てないってもう言ってるし許してあげようよお!絶対勝っちゃうし、こんなにおいしいケーキまでもらったし、手伝ってくれるって言ってるし、ケーキもまた食べれるかもよ!?」
「バッカ野郎お前!!このままじゃプライドに傷がついたままなんだよ許せるか!!さくっと吊るして反省させんだよ!!」
「ううう、オレここで死ぬのかなあ!!」
「大洋!」
「明乃!!」
「ううう……ううう……!!」

 そして、その五秒後が冒頭である。
「ごめんなさああい!本当にごめんなさああい!」
「いててててて、痛い痛い痛い、もうちょっと優しく縛り上げてくれねえかなあ!!」
「本当にごめんなさあああい!宵一さんに言われて仕方なく!仕方なくなんですうう!」
「オイコラ全部俺に押し付けるんじゃねえよ!!嫌々やらせてるみたいだろうが!!」
「ええええん!宵一さんやっぱり可哀想だよう!吊るし上げるのはさすがに可哀想だよう!」
「いいから吊るせ!!俺の神聖なパソコンに手出しやがったんだ容赦すんじゃねえ!!」
「でもおおお!でもおお!!」
「…………」
「京佑!? おい京佑!? ダメだこいつ意識失ってる!!」
 阿鼻叫喚。
 当たり前に明乃に勝てるわけもなく、深海と浅野は天井から逆さまにぶら下がっていた。
「ケーキ本当においしかったです……ありがとうございました……」
「やめろ今から死ぬみたいだろお!?」
「さあ吐け、早くしねえと腹が減ってこのまま帰っちまうかもしれねえぞ俺は」
「悪魔だよお!悪魔がいるよお!!おい京佑もう喋っちまえよ!!オレなんにもしらねえんだからお前だけが頼りなんだぞ!?」
「……知らない」
「おい、そのまま思いっきり揺すってやれ」
「えええええん!!宵一さんの外道!!」
 言いながら明乃はぶら下がった深海を揺らしに揺らした。なんならノリノリなようにも見えるが、そうでないと思いたい。
「待っ、本当に知らない!黙ってるとかじゃねえんだよ!」
「怪しい、おいもっとやれ」
「宵一さん本当はいい人なんです!本当は優しい人なんです!!」
「待て吐く!揺らすならそっちの馬鹿にしろ!!話を聞け!!」
 深海の言葉に東雲が明乃を制止する。
「……依頼主の情報は知らない。メールも捨てアドレスだったし、指定された場所に持ってこいと言われた。だが受け取った人間が違ったから本人のことは見ていない」
「なんだそれ使えねえ」
 嘘を吐いていないと判断したのか、東雲が頭を搔きむしりながらソファにドカッと座った。
「いいか、俺たちも馬鹿じゃねえ。間違ったところにそういう情報が流れたら、人生終わりなんだよ、お前もこんな仕事やってんならわかるだろ」
「……」
「甘ったれたガキがこんなことに首突っ込むんじゃねえ、お前が思っている以上に厄介な人間が多い業界なんだよ」
 苛立っているのか頭を掻き続ける東雲を、明乃が心配そうに見る。
「宵一さあん、降ろしてあげないと死んじゃうよ、この人たち弱いもん……」
「そうそうオレたちか弱いんだよお、降ろしてくれよお」
「……あのなあ」
 東雲は、大きな溜息を吐く。半ば諦めたような表情だった。
「おい、深海とか言ったなお前」
「そうだ」
「俺たちの情報を欲しがってた奴を探すの、手伝え。それでチャラにしてやる。十分痛い目見ただろ」
「……いいのか?」
「仕方ねえだろ、お前らしかそいつへの手掛かりがねえんだから。おい、降ろしてやれ」
「!!はーーい!」
「たすか、助かった……今日が人生最後の日かと思ったぜ」
 明乃がナイフを取り出して、雑にロープを切り落とす。二人とも勢いよく床にぶつかり、轟音が部屋に響き渡った。
「俺は東雲宵一。こっちは明乃だ」
「明乃です!」
「わかってるだろうが、逃げようとしたり今の約束を破ろうとしたら……」
 深海と浅野は固唾を飲む。東雲の顔には、怒りにしか見えない笑顔が張り付いていた。
「また痛い目にあわせるからな、明乃が」
「私があ!?」

 

 

猫猫事件帳 新章 その参


「遅ぇな、明乃のやつ」
 ふと時計を見ると、明乃が珍しくまだ帰っていないのだと気付いて思わず口から洩れる。
 明乃がいないと静かだからか、集中して作業をしてしまっていたらしい。改良機を作るのにも骨が折れる。
「まあ、あいつなら大丈夫か」
 自分を安心させるために言ったわけではない。明乃なら本当に大丈夫だろうという信頼があった。
 今日は晩御飯を用意しなくてもいいから外で食べて来いと金も渡しているし、明乃のことだから木野宮を家に送るであろうこともわかっていた。
 もちろん、侵入経路や詳細がバレていたことはまだ警戒している。調べれば家の中に盗聴器などはなかったが、東雲と明乃が狙われている可能性も捨てきれない。だが、明乃を襲ったところでなんの意味もないだろうと思う。
 明乃は天才だった。身体を動かす天才だ。生まれたときから、どこをどう動かせばいいのか勘でわかっている。そこに常人を超える身体能力が合わさっているのだから、熊を相手にしたって勝てるだろう。
 そう、そんな明乃が手を焼いた相手が一人だけいる。脳裏によぎったその白い影は、目の前にいなくとも東雲をイラつかせた。
「……腹減って来たな」
 気を紛らわせるような独り言。コンビニに行くついでに、明乃にプリンでも買ってやるかと思い立って、東雲は一人立ち上がって家を出た。

 

 猫猫事件帳 新章

 

「なあ待ってくれって!オレは男なら誰でも殴るっつっても、子供に手出すような悪党じゃねえ!」
 大男が叫ぶ。明乃は無視してナイフを振る。直接刺さらないギリギリを見計らって、男が諦めるのを待つつもりだ。
「明乃ちゃんは女の子だよ!?!?」
 瞬間、空気が凍った。
 木野宮が後ろから叫んだのだ。明乃は気にしていないようだが、男は慌てている。
「女ァ!? マジか!? だとしたらマジですまん、ほんとすまん!!本当にすまん!!」
「……」
 これでもかというくらいに綺麗なスライディング土下座。それも大の大人がする。明乃は思わずナイフを降ろした。木野宮が後ろでそうだよね!?そうだよね!?と声を上げている。明乃からの返事はない。
「顔が子供っぽいわりにタッパがあるから男かと……いやマジですまん!!なんでもするから許してくれ!!!!」
「……あのなあ」
 見かねたのか後ろから傍観していた男が歩み寄ってきた。明乃はまた臨戦態勢に入る。
「もういい。後ろに立ってるアンタ、この前俺から封筒を受け取ったな」
「…………?」
 木野宮が周りを見渡す。男の視線の先には木野宮しかいない。

 どうやら自分に話しかけているらしいと知って、木野宮は男の顔を覗き込んだ。
「あーーーー!!!コンビニの!!アイスの!!」
「……アイス?」

 そこでようやく気付いたのか、木野宮が大声を上げて男を指さす。明乃はなんのことかわからないが、知り合いであるのなら大して警戒をする必要もないだろうと木野宮の元へ戻った。

 男が木野宮に近寄る。明乃はそれをじっと鋭い眼光で見つめているが、それに動じる様子もない。
「あの封筒はアンタが頼んだもので間違いないか?」
「……? お兄さんがくれたからもらった」
「じゃあ、アンタは何もわからずに受け取ったってことか?」
「くれたからもらえるんだって思って……」
「……」
「プレゼント企画とかに当たったのかなって……」
 はあ、と男が溜息を吐いた。明乃はどういう話なのかわからず、無表情のまま首を傾げる。
「あの封筒はどうした」
「開けちゃった」
「……それから?」
「書いてるところに行ったら明乃ちゃんがいた!」
「明乃?」
「強くてとっても可愛い友達です!」

 先ほどそう呼ばれていた少女とも少年ともつかない人間を一瞥する。自身が売った情報がこんなに幼い人間のものだったとは。思いながらも男は驚くこともせず、振り返って土下座の体勢を維持している大男に手を差し伸べる。
「やっぱり間違えてんじゃんか京佑」
「うるさいゴリラ、待ち合わせと同じ服装してたんだよ」
「さすがに雰囲気でわかるだろ~? オレだって疑うぜ?」
「黙れ大洋」
 手を取り立ち上がりながら大洋と呼ばれた男はニカッと笑う。
「いやーこいつの勘違いだったってさ!マジでごめんな!オレは浅野大洋(あさのたいよう)、んでこっちが」
「深海京佑(ふかみきょうすけ)」
「木野宮きのみです!!」
「……えっと、明乃です」
 明乃がそっとナイフを折りたたみ、ポケットにしまう。相手にもう戦意がないことがわかったからだ。
「あれは依頼者に頼まれて作った資料だったんだ。待ち合わせ場所に指定した服装で来た人間に渡す手はずだった」
「あ!チェックの帽子!?」
「そうだ、渡した後に指定した金額が振り込まれる手はずだったのに、入ってないからアンタを調べて確認しに来た」
「勝手に調べてごめんな!オレたちそういう仕事しててさ」
 深海が胸ポケットから一枚の紙を取り出す。どうやら名刺のようだった。
「俺たちは”なんでも屋”だ。情報を提供したり、必要なら護衛なんかもする」
「ごはん作ってくれたり!?」
「飯屋か!それもいいかもな!な、相棒、オレの飯美味いしワンチャンいけそうじゃねえか!?」
「しねえよそんなこと」
「いけると思うんだよ!将来は屋台引っ張ってラーメン屋もよくねえか!? な、相棒!!」
「一人でやれ」
 受け取った名刺を見ると、真ん中に深海京佑という文字と、下に電話番号とメールアドレスが載っている。
 明乃も木野宮もきちんとした名刺を見たことはないが、本来あるはずの会社の名前などが記載されていないことくらいは察せられる。
「お詫びだ、なんかあったら連絡してくれ、力になるよ」
「いつでも頼りにしてくれよ!駆けつけてやるから!!な、相棒!!」
「お前はもう黙ってろ」
 明乃が名刺をポケットに直す。なんとなく、木野宮より自分が持って帰った方がいいだろうと思った。帰って東雲に渡せば、いろいろわかることだろう。
「とりあえず謝っとけよ京佑、お前が間違えたんだし」
「……そん、いや……悪かった」
「ま、そういうことだから、なんかあったら連絡してくれよ!オレたちそんなに悪い奴じゃないからさ!」
「おい、アンタ」
 深海が木野宮を見る。どこからどう見てもただの学生の女の子だ。特別変なところもない。秀でた才能があるように見えない。ただの、女の子だ。
「木野宮きのりの娘らしいな。アンタも探偵なのか?」
「うん!!まごうことなき名探偵ですぞ!!」
「そうか」
 浅野が木野宮きのり?と横で首傾げているが、深海は説明する気はないようだった。
「俺は別に探偵だの怪盗だの、どっちの味方をするつもりない。それだけ覚えておいてくれ」
 言って、二人はまた街灯の奥へと消えていった。嵐のように消え去って行った二人組を見届けて、木野宮と明乃は顔を見合わせる。
「私たちも帰ろっか」
「うん!帰ろうー!!ねえねえまた今度映画行こうよ!!」
「そうだね!私まだ観たい映画あるんだー!」
「わたしもね、今度の金曜ロードショーでやるやつ観たいんだ!」
「それ私も観たいなって思ってたの!よかったら今度ウチで観ようよ」
「いいの!? 行きたい行きたい!おやつ持っていくね!!」
 明乃はぎゅっと木野宮の手を握り直した。家に着くまではずっとこうしていよう。強くそう思った。 たくさんのことに巻き込まれた。だけどこの子は、自分と違って非力な人間だ。人を殴ったことも、ナイフを持ったことも、それどころか人を傷つけようとしたことすらないだろう。どうにかして、この子が傷付かないようにしたい。
 そこまで考えて、明乃はふふっと笑った。自分に友達ができたのだという実感がその喜びが、体に熱を巡らせた。

 

* * *

 

「で、呆気なく退散して良かったのかよ」

「するしかないだろ、渡したものは仕方ないし、別に悪用されたわけでもない。それともあんなガキに見たなら金取れって言うのか」

「まーそうだな。あーあー依頼主はなんて言うかなあ、クレームとか来たら嫌だな、許してくれっかなあ」

「考えても仕方ないことを考えるな」

「そういや京佑、木野宮きのりって誰なのよ」

 浅野はテレビを観る習慣がない。だから知らないのだろうとすぐにわかったが、深海は説明する気が起きなかった。

「ネットで調べればすぐ出る」

「てか、お前あんな子供の情報なんか売ってたのかあ? なかなか気が引けるぜ、流石に。見たとこ高校生とかだろ、もしかしたら中学生かも」

「知るか。そんなこと」

「じゃあどうやって調べたんだよ」

 夜道を歩きながら深海はスマホを忙しそうに触っている。浅野は彼がどこから情報や依頼を仕入れているのか一切知らないし、あまり詮索するつもりもない。

「パソコンに侵入した。そこに大まかな計画やマップが纏められてたからそれを基にして考えただけだ」

「すげー!!!お前そんなことまでできんの!?」

「声がでかい」

 スマホを持った手で浅野の頭を小突く。スマホの端が髪の生えていない頭皮に直撃したが、浅野にはあまり効いてないようだ。

「家は依頼主が出した情報から見つけた奴をつけたらすぐわかった。だが、俺がつけたのは男だったぞ、背の低い」

「ふーん?」

「お前はそんなこと気にしなくていい」

 また深海がスマホの操作に戻る。どうやらメールを打っているようだった。

「でもそんなことしてバレないのか? パソコンのことはよくわからねえけどよ、今時のパソコンってすげえじゃん?」

「まあ、バレないだろうな、俺を誰だと思ってる。向こうがその道のプロだのスペシャリストならまだしも、そう簡単に見つかるような方法はとってない」

 スマホの画面を切って、浅野を見る。相変わらず深海に楽観的な笑顔を見せる浅野と目が合って、思わずため息をついた。

「お前こそ危機感持てよ」

「オレが? なんで?」

「吹っ飛ばされてたろ。お前よりも小さいガキにだぞ。そんなこと普通あり得るか?」

「あー!!あれね!!すっげえよな、普通にビックリしたわ。なんかやってんのかね? 格闘技とか」

「やってたとしても普通は無理だろ、お前の体格考えろよ」

 浅野の笑顔が深くなる。それは危機感とは無縁で、まるで楽しくなってきたと言わんばかりの。

「世の中にはいろんな奴がいるな!あんな風に吹っ飛ばされたのは確かお前と出会う前に……」

「おい、帰る前に晩飯」

「お、そうだな!冷蔵庫に何にもねえや。お前明日授業何時からだ? 昼飯いるか?」

 談笑しながら、男たちはスーパーに入っていく。

 深海は浅野の話に相槌を打ちながら、木野宮きのみを思い出していた。

 ただの少女だ。平和ボケした顔の、普通の少女。あれではなんの脅威にもなり得ないだろう。

 むしろ、明乃と名乗ったあの人間の方が厄介だ。浅野は気にしていないが、どうやら依頼主から調べるように言われた人物が現れる場所にいたらしい。なら、そいつと組んでいると考えるのが早いだろう。

 とすれば。今回の話で、彼らに目をつけられるかもしれない。調べていた背の低い男は大した脅威になり得なさそうだったが、しかし。

「……人間とは思えなかったな」

「ん? 何が?」

 ピーマンを買い物かごに入れながら、浅野が首を傾げる。

 深海は冷たく独り言だ、と呟いてかごに入ったピーマンを棚に戻した。

 

 

* * *

 

 

「舐めやがってクソ野郎……」

 東雲宵一は怒っていた。コンビニに行き、プリンを買ったものの明乃が帰ってこない。先に一人で食べるのも気が引けて、本格的に情報がどこから漏れたのか調査しようかと思っていた矢先だ。

 それはすぐに見つかった。自分のパソコンの中に残っている、見知らぬ人間の足跡が。

「バレねえと思ったか? 俺を誰だと思ってやがる」

 パソコンに向かって話しかけながら、東雲は腕を組んだ。

「絶対に見つけてやるからな」

 言った瞬間に、明乃のただいまー!という声が聞こえる。どうやらようやくプリンが食べられるらしい。

 そしてそれとは別に、明乃が出した名刺に東雲が大声で突っ込むのは、また次の話。

 

 

 

猫猫事件帳 新章 その弐


「で、なんでお前らがここにいんだよ」
 東雲 宵一は不機嫌だった。
 もとより盗む予定だった絵画にはさして興味はなかった。今日は新しく作ったいくつかの試作機のテストをメインとした日だったからだ。
 だが、それも妨害されたとなれば話は変わってくる。それも、予告状も何も出していないというのにだ。
 どこから情報が漏れた?明乃か?いや、明乃は東雲が不利になるようなことを喋らない。……はずだ。
 ならば、どこから?どうやって?考えても答えは出てこない。家の中に何か仕掛けられたか、あるいは……
「それより、前からアンタに聞きたかったんだけど」
「それよりとはなんだそれよりとは」
 水守が東雲の前に立つ。やはり探偵などと仲良くするものではない。
「アレってアンタの趣味なの?」
 アレが何をさしているのかは、彼女の視線からすぐにわかった。
 彼女の視線の先には、照れくさそうに、しかしどこか嬉しそうにしている明乃がいる。
「別にいいだろうがどうでも!普通の怪盗衣装だけだともったいないだろうが!」
「いや、怪盗衣装ってのも私にはコスプレにしか見えないんだけど……」
「綾ちゃん、それ以上はいけない」
 壱川の静止に納得いかない表情で、水守は口をつぐんだ。彼女には怪盗が衣装を着て人前に出ること自体、合理的ではないと思うのだろう。
「でも、俺もバニーガールとかはどうかと思うよ、さすがに」
「うるせえなあ!なんなんだよお前らさっさと大事なとこだけ話せよ!!」
 そんな中でも明乃は、なぜか照れくさそうに笑っている。東雲はここが仕事場であることも忘れて、目いっぱいの大声を張り上げた。

 

 猫猫事件帳 新章

 

「それで、そこのチビが封筒を受け取って、そこに書かれていたから来たと」
「まあおおむねそんな感じだ」
「お前ら相変わらず馬鹿だろ!罠だったらとかなんとか考えねえのかよ!」
 デジャヴだなあ、と思いながら壱川は珈琲を口に含んだ。
 深夜のファミレスは人気がなく、東雲の声がやたらと響く。私服に着替えた明乃と木野宮は、すでにうとうとしていてほとんど寝ているような状態だった。
「その可能性も考えたけどね、何かわからないから一応行ってみようかって」
「好奇心旺盛すぎるだろ!俺たちだからよかったが、本当に罠だったらどうするつもりだったんだよ」
 フライドポテトを三本ずつ食べながら、東雲は頬杖をついた。東雲にとってまだ問題は解決していない。
 目の前にいる人間たちが嘘を吐くとは思えなかった。立場的に敵対しているとはいえ、東雲に言わせれば相当な馬鹿で、馬鹿正直だ。東雲を陥れるために嘘をついたりはしないだろう。 とすれば、いったい誰がなんのためにそんなことをしたのか。そして何より、どうやってその情報を入手したのかが問題だった。
「……とにかく、その封筒の男とやらを探さないことには始まらねえな」
「木野宮曰く、若い男だったということしか……服装とかもいまいち覚えてないみたいで」
「ケッ、使えねえ探偵だな」
「いやあ本当その通りで」
「でもそれじゃあ探しようがないわよね、向こうがまた現れてくれるならまだしも、情報と手掛かりが少なすぎる」
「目的もわからないままだしな。俺たちがあそこで出会ったのが偶然なのか、もしくはそれを狙っていたのか……」
「知り合いだとは知らずに、ぶつからせるつもりだった……とか」
「もしくは、本当にただの人違いで木野宮に渡したか」
 考え込んでも答えは出ない。偶然か、必然か、それは封筒を渡した男にしかわからないことだろう。
 だが油断もできない。木野宮を狙った事件もあったくらいだ。また怪盗団の仕業と言い切れないところが危ないところだ。
「常盤 社や、黒堂 彰が関わっていないとも言い切れないしね」
「それこそ意味がないんじゃない? 彼らは俺たちが仲間だって知ってるんだし」
「誰が仲間だコラ」
「それもそうですよね、ぶつかるも何も、結局こうやってファミレスに来てるわけだし、予想くらいできるでしょう」
「たまたま腹が減ってたんだよ腹いっぱいだったらお前ら全員ギッタンギッタンにしてたからな」
「なんにせよ、情報を集めよう。封筒を渡してるところを目撃した人がいるかもしれないし」
「それもそうね、できることからやりましょ」
「おい無視すんな今ここで暴れてやってもいいんだからな」
 もう遅い時間だし、と壱川が伝票を取りながら立ち上がる。水守もそれに続いて行った。
「木野宮が限界なんで、俺たちもこの辺で」
「おう、気つけて帰れよ。ほら明乃起きろ、俺らも行くぞ」
「うー……きのみちゃんまたねえ」
「うん-……またあそぼうねえ」
「ったくこいつらは」
 木野宮がとろとろと歩きながら宮山についていく。
 明乃は相変わらずうとうとと船をこぎながら、たまに目を開いては東雲の方を見て、また目を閉じる。
「……マジでどこのどいつだよ」
 小さく呟くと同時に、明乃の頭が肩にのしかかった。
 そこまでの情報が割れていたのであれば、なんなら狙われているのは東雲たちじゃないのか。
 思うと腹が立ってくる。明乃がいるから多少のことは問題ないだろうが、これが頻発するなら仕事にも問題が出るだろう。
「誰にバラされようとやりきってやる……が」
 自分たちのことを嗅ぎまわられるのは心底腹が立つ。家に帰ったら、まずは盗聴器やカメラがないか探し回ろう。
 そしてその男を見つけ次第、絶対に締め上げる。
 と、心に誓って東雲はまたポテトを口に放り込んだ。


 * * *


 木野宮 きのみに特に門限は存在しない。宮山と二人で住んでいるような形だから、割と自由な生活を送っている。
 だが、できるだけ暗くなる前に帰るようにと口酸っぱく言われてはいるのだ。木野宮も素直にそれを守るようにはしている。だが、この日は特別だった。出かける時にはいつも暗くなる前に帰ってくるように、と告げる宮山も、大して何も言わなかったのには理由がある。
「おもしろかったねー!あとあと、ポップコーンもすごくおいしかったね!」
「やはりポップコーンはキャラメルに限りますな!」
「なーんかおうちでするのと違うんだよね、あれがいつでもおうちで食べれたらいいのになあ」
 明乃は繋いだ手をぶんぶんと振る木野宮を見ながら、いつも以上にニコニコしていた。
 今日は木野宮と映画を観る約束をしていたのだ。プンプンの大冒険は幼児向けアニメながらその感動ストーリーが大人にも受けていて、明乃も唯一観るテレビ番組だった。
 しかしそんな映画を東雲が観たがるわけもなく、木野宮と二人で観に行こうという話になったのである。
「遅くなっちゃってごめんねえ、宮山さん心配しないかな」
「今日はねえ、何時に帰ってきなさいとか言われなかったよ!明乃ちゃんが一緒だからね!」
「えへへ、信頼してもらってるなら嬉しいな」
 照れくさそうに笑いながら、明乃たちは夜道を歩いた。このまま木野宮の家まで送るつもりである。
 東雲も心配性ではあるものの、夜中に出歩くことなどに関してはあまり何も言わない。知らない人についていくなとか、ものを貰うなとかそういうことは言われるが、基本的に事件に巻き込まれたところで明乃に勝てる人間など地上にいても一人か二人くらいであるとよく知っているからだ。
「私ねえ」
 それに、木野宮と出かけることに対しても、文句は言うものの止めたりはしない。
 それは明乃が望んでいることだからなのか、それとも別の何かがあるのかは明乃の知る由ではない。
「こうやってお友達と遊びに行ったこと、あんまりないんだ。だからいつもきのみちゃんが遊んでくれて嬉しい」
「わたしもすっごく嬉しいよ!そうだ、今度学校の友達も連れてくるよ!」
「ええ、いいのかなあ、嬉しいけど、でも私……」
「いいの!明乃ちゃんのこと自慢したいもん!」
 屈託のない笑顔に思わずつられて、締まりのない顔になる。
「そっか、えへへ、私もきのみちゃんのこといっぱい自慢したいなあ」
「夏休みになったら、みんなでバーベキューとか行こうよ!海とか!」
「バーベキュー!やってみたい!あのね宵一さんはねお肉ばっかり食べちゃうから、いっつも私がお野菜を……」
 ピタリ。明乃の足が止まる。それに引っ張られる形で木野宮が転びそうになるが、なんとか立て直した。
「明乃ちゃん?」
 言葉の続きは、いつまで経っても出てこなかった。明乃の方に振り返ると、明乃の顔からは笑顔が消え去っている。
 だが、その顔を知っている。だからそこまで驚かなかった。彼女は木野宮の言葉に返事をせず、目の前をじっと観察しているように見える。
「忘れ物?トイレ?」
 明乃の方に寄る。明乃はやはり、暗い道の先を睨み付けている。街灯の向こう側、何も見えない黒一色の景色。確かにそこに何かがあると確信するような目つき。
「……きのみちゃん、もうちょっと後ろにいれる?」
「うん!わかった!三歩うしろね!」
 ポケットに手を伸ばす。そこにはいつも使っているナイフがたたんだ状態で入っている。
「……」
 明乃は無言のままだった。しかし木野宮はそれに言及せず、言われたことを守って明乃の後ろにいる。
「……本当にアレかあ?」
 街灯の奥から足音が聞こえる。徐々に街灯に照らされるその男は、その少し後ろを歩く男にそう言った。
「間違いない。俺が封筒を渡した女だ」
「って言ってもマジのガキだぞ、中学生か? これ犯罪じゃない? 大丈夫?」
「今更何言ってる。別に殺せとも殴れとも言ってない」
「そうだけどよお」
「”取り立てろ”、一番効率的な方法で」
 男が二人。
 チンピラ風の背が高いスキンヘッドの男が一人。それと、一見大人しそうにも見える若い男が一人。
「……誰?」
 明乃の声は冷たかった。木野宮はその後ろから、わくわくした目で顔を覗かせている。
「お友達か? お兄ちゃんたちね、その後ろの子にちょっと用があって……っつってもマジで人違いじゃねえ? どう見てもそういう雰囲気じゃねえじゃん」
「お前、そうやって舐めてかかるからいつも痛い目にあうんだろう」
「いやでもよお京佑、見て見ろよちゃんと!こんな可愛い子が俺たちみたいな―――」
 風が切れる音がした。
 それは明乃なりの警告だ。これ以上近付いたら殺す、という威圧と殺意。それを感じるには十分だっただろう。
「おいおい……子供が物騒なもん持つなって!!まあまずは話聞いてくれよ」
 スキンヘッドの大男が、明乃のナイフがかすった鼻を気にする様子もなく近付いてくる。
 どう見ても、こういうことに慣れているのだろう。だが明乃は少しの焦りも感じていなかった。
 木野宮の前で、人を殺したり、血をたくさん流したりなんて絶対にしたくない。その上で男二人を退ける必要がある。
 だが、そんなことは簡単だ―――と、思えている。少なくとも、この男たち以上に厄介でどうしようもない人間と対峙した明乃にとっては恐れることではない。
「マジで悪いんだけど、ほんっとごめんなんだけど、俺たちそこの女の子に聞きたいことがあって―――」
 最後まで聞き切らずに、明乃が地面を蹴った。
 目の前の大男の足を蹴り飛ばし、倒れたところを制圧するつもりだった。
「なあマジで話聞いてくれねえんだけど!!」
 男が叫びながら後ろにステップする。明乃の一撃は空を切った。そのまま軽々と態勢を立て直し、今度は握り拳を男の顔に入れようとする。
 これくらいすれば、ビビって逃げていくだろう。明乃には直観があった。自分の常人ではありえない力に驚かない人間の方が珍しい。
 だが――――……
「だから話聞けって」
 男はそう言って、自身の拳を前に出した。明乃の拳と、男の拳がぶつかる。一回り以上大きな拳だ。
「お?」
 一瞬、時間が止まったのかと錯覚した。この男はそれほどまでの力で明乃の拳に拳をぶつけてきたのだ。
 だが、それも本当に一瞬の話だ。
「おああああああ!!!?」
 明乃の拳に込められた力に耐えられず、男は後ろに吹っ飛んでいった。
 もう一人の男は冷静にそれを眺めている。動揺しているわけでもなさそうだ。
「さすが明乃ちゃん!強くてかっこよくてかわいくて最強!よっ!日本一!」
 木野宮が楽しそうにガッツポーズをする。
「大洋、ふざけてないでちゃんとやれ」
「いやふざけてねえよ!今マジで吹っ飛ばされたんだよ!!この子やばいよ!? どこにそんな力が詰め込まれてんの!?」
「言っただろ、舐めてかかるからいつも痛い目にあう」
「いやでもお!!!」
 明乃は冷静だった。彼は常盤社とは違う。常盤のような身軽さも厄介さもない。
 だが、一瞬でも明乃のパンチを止められるほどの力があるのだ。先ほどのが本気ではない可能性だってある。
 だからと言って負けるわけがないのだが―――……
「まあまず、まずな、挨拶からしよう、な、な、挨拶は大事だろ!!」
「こんばんは」
 せわしなく言い訳をする男は立ち上がりながら、明乃の方を見た。
 どうやら、自分が思っていたような可愛い人間ではないとようやく気付いたらしい。
 木野宮は後ろで囃し立てる。もう一人の男は、尚も冷静に状況を見守っている。
 明乃はナイフを握り直す。
「てか、サヨナラ」

 

 

 

 

猫猫事件帳 新章 その壱

 木野宮きのみはご機嫌だった。
 ずさんな管理しかしていない財布の中身を昼休みに覗いたら、なんと三百円も入っていたからだ。
 授業中に三百円で買えるものをひとしきり思い浮かべて、放課後になるまでに決めねばという使命に従っていたら、ノートの中身はお菓子の名前でいっぱいになった。
「アイス〜アイス〜」
 結果、帰り道に買うものはアイスで決定した。棒付きのアイスなら歩きながら食べやすいし、何より一番安いものを選べば二つも食べれる。
「アイス〜!アイス!なぜ冷たいの〜」
 自作の歌を歌いながら、コンビニから出てきた木野宮は早速買ったばかりのアイスを取り出した。
 二つ買ったから、早めに一つ目を食べなければ溶けてしまうだろう。うきうきとアイスの袋を開けながら、歌詞の続きを考える。
「それはね〜……それは……」
「アンタか?」
 ちょうど、袋を破り切ったところだった。
 声をかけられて顔を上げると、すらっとした男が真横に立っていて、確実に木野宮を見ている。
「チェックの帽子に白いシャツ……間違いないようだけど、まさかこんな子供とは」
 見覚えのない男だった。宮山よりは若く見える。ぽかんとしながら男の顔を見ていた木野宮は、ハッとして口を開く。
「不審者!?」
「失礼だな。まあいい、受け取れ。約束のものだ」
「むむ? あ、どうもどうも」
 男は胸元から取り出した封筒を木野宮の前に出す。ただより怖いものはない、と宮山によく言われているものの、木野宮からすればただより嬉しいものはない。
「お眼鏡にかなうといいけど」
「メガネはしてないよ!」
「それもそうだ。長居するつもりはないから、これで失礼させてもらう、詳しいことは中に書いてある」
「ありがとう!」
「どういたしまして」
 そう言って男は足早に去って行った。渡された茶封筒を見る。何かプレゼント企画にでも当たったのだろうかと考えながら。
「あ」
 ぽたり、と茶封筒に水滴が落ちた。
 中身は旅行券か、食事券か、もしくはアイスの引換券か。
「溶けてる……」
 あるいは何か、探偵たちにとって良くないものなのか。

 


猫猫事件帖 新章 

 


「たっだいまー!」
 大きな声と共に扉を開けると、近くに見知った顔が座っている。宮山 紅葉、今となっては自他共に認める木野宮の助手である。
「また無駄遣いしたでしょ」
「無駄じゃないよ!おいしかったもん!」
「帰り道の買い食い禁止。こけたら危ないでしょ」
「そんな!それでは学校に行く意味がありませぬ!なにとぞご容赦を!!なにとぞー!!」
「学校は勉強しに行くところでしょ……」
 呆れるように言いながら、宮山は席を立った。どうやら帰りに買い食いしてきたらしいことは、手に持っているビニール袋を見ればわかる。
 ならば今日宮山が用意したおやつは隠しておくべきだろう。思って宮山は、足早にキッチンに向かおうとした。
「いやー!今日もめいっぱい勉強したからね!ちょっと賢くなったからね!これで立派な探偵にまた少し近づいたしね!」
「……その割にこの前のテストの点数、随分悪かったみたいだけど」
「それより今日のおやつは!? 探偵は頭を使うから、甘いものをたくさん食べるといい!」
「今日はなし。買い食いしたんでしょ」
「そんなーー!!?」
 おーいおいおいとわざとらしく泣き崩れて、木野宮がソファにずるずると這っていく。
 その様子を呆れて見ていると、木野宮がテーブルに一通の茶封筒を置いたのが目に入った。
「きのちゃん、それは?」
「これー? なんかねえ、コンビニで知らない人に声かけられて、あげるって言われた!からもらった!」
「知らない人に物もらっちゃダメでしょ」
「でも、お兄さん約束のものとか言ってたよ!何かのプレゼント企画に当たったのかも!」
「そんなわけ……ほら貸して、もし人違いだったら返さないといけないし、ていうか知らない人に貰ったものなんて危ないからーーーー」
「そういえばねー!コンビニ出た時に、お揃いのチェックの帽子被ってる人がいたの!やはりわたしは流行の最先端……これからもっと流行りますぞ!」
「リボンが自立して動く帽子は世界でそれくらいしかないと思うけど」
「それも込みで流行りますぞ!」
 茶封筒を開けてみる。中身は数枚の書類のようだ。
 やはり間違えて受け取ったか、いや、もしかしたら新手の予告状か何かかもしれない。つい先日起こった事件や届いた予告状を思い出しながら、ごくりと唾を飲んだ。
 そう簡単に年に何度も予告状なんて受け取りたくもないような、しかし期待してしまっているような。
「なに!? 何が当たってた!?」
「いや、何も当たってないよ。普通の書類みたいだけど、いったい何の……」
 一枚目は支払いの請求に関する書類のようだった。やたらと高い金額と、支払い方法などが細かく記載されている。
 めくって二枚目を見ると、どうやら日付や時刻、場所やどこかのマップが載せられているようだった。
「これは……」
「パーティーの招待状!?」
「いや、ていうかまるで……」
 犯行計画書。
 嫌な予感がしてもう一枚紙をめくる。三枚目には絵画の写真と、その詳細について書かれている。
 宮山は考えた。なぜこんなものが木野宮の手に渡ったのか。わざとか、偶然か、てんで想像がつかない。
 わかるのは、これがあまりよくないものであるだろうということと、自分たちで解決しない方がいいであろうということだけだ。

* * *

「それで、持ってきてくれたわけか」
「まあ、勝手に首を突っ込んでもどうなるかわかりませんから」
 茶封筒を渡された髭面の男、壱川 遵は早速中から紙を取り出した。
 その横に座る女、水守 綾が顔を近づけて覗き込んでいる。
「確かに、犯行計画書のように見えるわね」
「そうだな、日付や時間まで書かれてるし、この計画に関わってる協力者と間違えて木野宮さんに渡してしまったのかも」
「いや……木野宮ですよ? 制服も着てたし、例え初対面同士だったとしても間違えるとは思えない」
「まあ、それもそうね」
 話を聞いていないであろう木野宮は、頼んだケーキがいつ来るのかと席から通路を覗いている。
「新手の予告状かしら」
「俺もそう思ったよ、間違えたわけじゃないなら、わざと渡したことになる」
「あるいは罠かもね。どちらにせよ、二人だけで行くのは危険なんじゃない」
「やっぱりそうですよね」
 そう言った宮山の顔は、以前よりも晴れ晴れとしていた。
 今までなら、危険を察して顔を曇らせていただろう。実際に命に関わるかもしれない事件もあった。すべては実力ではなく、運が良かっただけだ。
 木野宮を支えると誓ったものの、木野宮はまだ女子高生だ。大人として守らなければいけない部分も多いが、その力が自分に備わっていないことも自覚している。
 だが、ある程度の覚悟も決まっていた。木野宮が行きたいというのなら、必ずついて行くという覚悟が。
「ま、確かに木野宮さんと誰かを人違いして渡したとは考えづらいな。となると、罠っていうのが一番濃厚なわけだけど……」
 壱川が木野宮を見る。彼女は未だに通路を覗き込んで、わくわくしていた。
「行かないつもりもないんだろ?」
「……まあ」
 見透かされているようで、壱川の言葉にどきりとする。だが、それも見透かされる前提ではあった。 
 この人たちがついてきてくれるなら、そんなに心強いことはない。
 何より、どうやら書類に載せられていた地図は個人宅のようだった。この計画書を持って行って話したところで、信じてもらえないか入れてもらえないだろう。
「わかった、じゃあ俺たちも行くよ。ね、綾ちゃん」
「そうね、手伝ってって言うなら別に手伝うわよ」
 すました顔で紅茶を飲みながら、水守はさらりと同意した。
 この人たちはこういう人たちだ。わかっていたから宮山も安心して連絡がとれた。
「とりあえず、この家の主に連絡をとってみて、本当にこの絵画を持っているのか聞いてみようか」
「そんな急に連絡して、それこそ怪しまれない?」
「ほら、そんな時のための警察手帳だから」
「それもそうね」
 突っ込めばいいのか、いや突っ込んでいいのかわからない。
 宮山は誤魔化すように珈琲を飲んで、隣でまったく話を聞いていない木野宮の頭に軽く手刀を入れた。


* * *


 計画書に書かれていた時刻は午前一時。その少し前に、一同は侵入経路と書かれていた裏口に繋がる扉の前に集合していた。
 木野宮は既に眠そうに目をこすっている。宮山はそれを見下ろしながら、相変わらずだなと呆れる他なかった。
「大体、犯行予告だとしたらセンスないわね。このくらい知られても平気ですってこと? なんかムカついてきた」
「まあまあ、侵入経路まで書いてあるくらいだ、相当自信があるんじゃない?」
「……侵入経路まで書くなんて、やっぱり罠の可能性が大きいですよね」
「アイス……」
「アイスは昨日食べたでしょ」
 以前、あんな事件に巻き込まれたのだ。木野宮を狙っているという可能性だって十分考えた方がいい。
 しかも罠や予告状なのだとすれば、今回は顔見知り全員でなく木野宮だけに送り届けられたのだ。
「ま、無事に入れてもらえてよかったわね。別に疑われてる様子もなかったし」
「国家権力様様ですよ」
「いやあ、それほどでも」
「かに……」
「でかいかには先週水族館で見たでしょ」
「さ、もうすぐ時間だ」
 壱川が時計を見て、落ち着いた声でそう言った。
「一応罠張ってるのよね?」
「ああ、絵画の近くを通ればセンサーが教えてくれる仕組みになっている。勿論、天井も含めてね」
「天井から侵入なんて、どっかの馬鹿怪盗しかやらないわよ」
「だといいけど」
 このセンサーというものが案外優秀でね、と壱川が話す。
 どうやら、宿敵の怪盗(?)である東雲 宵一からもらったらしい。詳しい事情は話していないものの、借りを返す分だと言ってすんなり作ってくれたんだとか。
「……おかしいな」
 宮山も自分の時計を見て呟く。犯行時刻と書かれていた一時を過ぎている。だが、人影どころか気配までしない。
 やはり何かの罠か、それともただのいたずらか。
 思った瞬間に壱川のスマートフォンがけたたましい音で鳴り始めた。
「おっと、どうやらここで待ち伏せしてるのがバレてたみたいだ」
「それ、センサーに誰かが引っかかったってこと?」
「そうみたいだね、急ごうか」
 言って走り出した水守と壱川に続こうとするも、半分寝ている木野宮を放っておくわけにもいかず、宮山は止まらざるを得ない。
「ほらきのちゃん、俺たちも行こう」
「む、うんー……、打倒かいとう……おー」
 とろとろと歩く木野宮に焦れる気持ちを抑えつつ、とにかく彼女の安全を確保しなければと頭を回転させる。
 ここから絵画が飾ってある廊下までそう遠くはない。それに、壱川と水守がいれば向こうは安心だろう。
 一度落ち着こうと思ったとたんに、廊下の先から驚愕の声が轟く。
「壱川さん!?」
「むむ!? 事件ですかな!?」
 目が覚めたのか、木野宮の目がカッと見開き、とたんにものすごい瞬発力で駆け出した。
「馬鹿、木野宮!」
 声をかけたのも虚しく彼女は止まらない。仕方なく宮山も駆け出して彼女の後を追う。
 すると、木野宮が曲がり角で唐突に止まった。宮山もそれに合わせてなんとか体を制止する。
「壱川さん!大丈夫で……」
「あーーー!!!」
 宮山の心配の声は、木野宮にかき消された。彼女は絵画の前にある影を指さして、目を輝かせている。
 どこから入ったのか、その人物はまるで元からそこにいたかのようなたたずまいで立っていた。
 手元にはナイフ。だが、その物騒さとは裏腹に、そこにいる人物の格好はあまりにも可愛らしく、あまりにも浮いていた。
赤ずきん……?」
 真っ赤なケープとフードは、この場に似つかわしくない可愛らしいフリルまでついている。その異様さの中から放たれる殺気に気圧されそうになるが、それもすぐに消えた。
 宮山は―――……いや、そこにいる人間全員が、その影の正体を知っていたからである。
「明乃ちゃーーーん!!!」
「……」
「明乃ちゃん!わたしだよう!名探偵の木野宮だよ!!」
「……きのみちゃん!?」
 絵画の目の前に立つ人物、明乃は驚いたように目を丸くしてナイフを掲げていた手を降ろす。
「きのみちゃんだ!わーーい!」
「明乃ちゃーーん!!久しぶり!!今日は赤ずきんちゃんなんだね!!」
「えへへ、そうなの!見て見て、このフリルとか、うさぎさんの刺しゅうとか、この刺しゅう宵一さんがしてくれたんだよう」
「グヘヘヘ食べちゃうぞーー!!」
「キャーー!えへへへへ」
 えへへではない。
 ぽかんとしながらも思わず突っ込んでしまう。つまりなんだ、あの犯行計画書は……
「いてて、驚かせて悪かったね、明乃ちゃん」
 壱川が鼻を抑えながらようやく口を開く。どうやら明乃だと気付かずにとらえようとして、ナイフで返り討ちにあったらしい。
「きのみちゃん、どうしてここに?」
「あなたこそどうしてここに? まさかあのチビも一緒にいるんじゃ」
「誰がチビだ、誰が」
 上から声が降ってくる。全員が見上げると、どうやら天井に潜んでいたらしい東雲がひょっこり顔を出した。
「裏口から入ろうとしたら裏口に変に人が集まってっから、おかしいと思ったんだよ、おい明乃」
「はーい宵一さん!」
 合図と共に東雲が天井から落下してくる。明乃はいともたやすくそれを受け止め、東雲を廊下にさっと立たせた。
「そもそもなんで俺らがここに来るってことを知って……ってオイ!これ俺が作ったナンデモカンチ君だろお前!!ずるいことすんじゃねえ!!」
「いやいや、俺たちはここに来るのが君だって知らなかったんだよ」
「ふざけんな小ずるいことしやがって!!」
「君を捕まえるためにセンサーを借りたわけじゃないよ、これだけは誓って言える」
「はあ? じゃあ一体なんでこんなところに探偵共がそろいもそろっているんだよ!!」

「それは……」
 全員の視線が木野宮に集まる。
 それに気付いた木野宮が慌てて周りを見渡すが。
「……ぬぬ?」
 彼女はまだ、この話の渦中にいることにどうやら気付いていない。