「遅ぇな、明乃のやつ」
ふと時計を見ると、明乃が珍しくまだ帰っていないのだと気付いて思わず口から洩れる。
明乃がいないと静かだからか、集中して作業をしてしまっていたらしい。改良機を作るのにも骨が折れる。
「まあ、あいつなら大丈夫か」
自分を安心させるために言ったわけではない。明乃なら本当に大丈夫だろうという信頼があった。
今日は晩御飯を用意しなくてもいいから外で食べて来いと金も渡しているし、明乃のことだから木野宮を家に送るであろうこともわかっていた。
もちろん、侵入経路や詳細がバレていたことはまだ警戒している。調べれば家の中に盗聴器などはなかったが、東雲と明乃が狙われている可能性も捨てきれない。だが、明乃を襲ったところでなんの意味もないだろうと思う。
明乃は天才だった。身体を動かす天才だ。生まれたときから、どこをどう動かせばいいのか勘でわかっている。そこに常人を超える身体能力が合わさっているのだから、熊を相手にしたって勝てるだろう。
そう、そんな明乃が手を焼いた相手が一人だけいる。脳裏によぎったその白い影は、目の前にいなくとも東雲をイラつかせた。
「……腹減って来たな」
気を紛らわせるような独り言。コンビニに行くついでに、明乃にプリンでも買ってやるかと思い立って、東雲は一人立ち上がって家を出た。
猫猫事件帳 新章
「なあ待ってくれって!オレは男なら誰でも殴るっつっても、子供に手出すような悪党じゃねえ!」
大男が叫ぶ。明乃は無視してナイフを振る。直接刺さらないギリギリを見計らって、男が諦めるのを待つつもりだ。
「明乃ちゃんは女の子だよ!?!?」
瞬間、空気が凍った。
木野宮が後ろから叫んだのだ。明乃は気にしていないようだが、男は慌てている。
「女ァ!? マジか!? だとしたらマジですまん、ほんとすまん!!本当にすまん!!」
「……」
これでもかというくらいに綺麗なスライディング土下座。それも大の大人がする。明乃は思わずナイフを降ろした。木野宮が後ろでそうだよね!?そうだよね!?と声を上げている。明乃からの返事はない。
「顔が子供っぽいわりにタッパがあるから男かと……いやマジですまん!!なんでもするから許してくれ!!!!」
「……あのなあ」
見かねたのか後ろから傍観していた男が歩み寄ってきた。明乃はまた臨戦態勢に入る。
「もういい。後ろに立ってるアンタ、この前俺から封筒を受け取ったな」
「…………?」
木野宮が周りを見渡す。男の視線の先には木野宮しかいない。
どうやら自分に話しかけているらしいと知って、木野宮は男の顔を覗き込んだ。
「あーーーー!!!コンビニの!!アイスの!!」
「……アイス?」
そこでようやく気付いたのか、木野宮が大声を上げて男を指さす。明乃はなんのことかわからないが、知り合いであるのなら大して警戒をする必要もないだろうと木野宮の元へ戻った。
男が木野宮に近寄る。明乃はそれをじっと鋭い眼光で見つめているが、それに動じる様子もない。
「あの封筒はアンタが頼んだもので間違いないか?」
「……? お兄さんがくれたからもらった」
「じゃあ、アンタは何もわからずに受け取ったってことか?」
「くれたからもらえるんだって思って……」
「……」
「プレゼント企画とかに当たったのかなって……」
はあ、と男が溜息を吐いた。明乃はどういう話なのかわからず、無表情のまま首を傾げる。
「あの封筒はどうした」
「開けちゃった」
「……それから?」
「書いてるところに行ったら明乃ちゃんがいた!」
「明乃?」
「強くてとっても可愛い友達です!」
先ほどそう呼ばれていた少女とも少年ともつかない人間を一瞥する。自身が売った情報がこんなに幼い人間のものだったとは。思いながらも男は驚くこともせず、振り返って土下座の体勢を維持している大男に手を差し伸べる。
「やっぱり間違えてんじゃんか京佑」
「うるさいゴリラ、待ち合わせと同じ服装してたんだよ」
「さすがに雰囲気でわかるだろ~? オレだって疑うぜ?」
「黙れ大洋」
手を取り立ち上がりながら大洋と呼ばれた男はニカッと笑う。
「いやーこいつの勘違いだったってさ!マジでごめんな!オレは浅野大洋(あさのたいよう)、んでこっちが」
「深海京佑(ふかみきょうすけ)」
「木野宮きのみです!!」
「……えっと、明乃です」
明乃がそっとナイフを折りたたみ、ポケットにしまう。相手にもう戦意がないことがわかったからだ。
「あれは依頼者に頼まれて作った資料だったんだ。待ち合わせ場所に指定した服装で来た人間に渡す手はずだった」
「あ!チェックの帽子!?」
「そうだ、渡した後に指定した金額が振り込まれる手はずだったのに、入ってないからアンタを調べて確認しに来た」
「勝手に調べてごめんな!オレたちそういう仕事しててさ」
深海が胸ポケットから一枚の紙を取り出す。どうやら名刺のようだった。
「俺たちは”なんでも屋”だ。情報を提供したり、必要なら護衛なんかもする」
「ごはん作ってくれたり!?」
「飯屋か!それもいいかもな!な、相棒、オレの飯美味いしワンチャンいけそうじゃねえか!?」
「しねえよそんなこと」
「いけると思うんだよ!将来は屋台引っ張ってラーメン屋もよくねえか!? な、相棒!!」
「一人でやれ」
受け取った名刺を見ると、真ん中に深海京佑という文字と、下に電話番号とメールアドレスが載っている。
明乃も木野宮もきちんとした名刺を見たことはないが、本来あるはずの会社の名前などが記載されていないことくらいは察せられる。
「お詫びだ、なんかあったら連絡してくれ、力になるよ」
「いつでも頼りにしてくれよ!駆けつけてやるから!!な、相棒!!」
「お前はもう黙ってろ」
明乃が名刺をポケットに直す。なんとなく、木野宮より自分が持って帰った方がいいだろうと思った。帰って東雲に渡せば、いろいろわかることだろう。
「とりあえず謝っとけよ京佑、お前が間違えたんだし」
「……そん、いや……悪かった」
「ま、そういうことだから、なんかあったら連絡してくれよ!オレたちそんなに悪い奴じゃないからさ!」
「おい、アンタ」
深海が木野宮を見る。どこからどう見てもただの学生の女の子だ。特別変なところもない。秀でた才能があるように見えない。ただの、女の子だ。
「木野宮きのりの娘らしいな。アンタも探偵なのか?」
「うん!!まごうことなき名探偵ですぞ!!」
「そうか」
浅野が木野宮きのり?と横で首傾げているが、深海は説明する気はないようだった。
「俺は別に探偵だの怪盗だの、どっちの味方をするつもりない。それだけ覚えておいてくれ」
言って、二人はまた街灯の奥へと消えていった。嵐のように消え去って行った二人組を見届けて、木野宮と明乃は顔を見合わせる。
「私たちも帰ろっか」
「うん!帰ろうー!!ねえねえまた今度映画行こうよ!!」
「そうだね!私まだ観たい映画あるんだー!」
「わたしもね、今度の金曜ロードショーでやるやつ観たいんだ!」
「それ私も観たいなって思ってたの!よかったら今度ウチで観ようよ」
「いいの!? 行きたい行きたい!おやつ持っていくね!!」
明乃はぎゅっと木野宮の手を握り直した。家に着くまではずっとこうしていよう。強くそう思った。 たくさんのことに巻き込まれた。だけどこの子は、自分と違って非力な人間だ。人を殴ったことも、ナイフを持ったことも、それどころか人を傷つけようとしたことすらないだろう。どうにかして、この子が傷付かないようにしたい。
そこまで考えて、明乃はふふっと笑った。自分に友達ができたのだという実感がその喜びが、体に熱を巡らせた。
* * *
「で、呆気なく退散して良かったのかよ」
「するしかないだろ、渡したものは仕方ないし、別に悪用されたわけでもない。それともあんなガキに見たなら金取れって言うのか」
「まーそうだな。あーあー依頼主はなんて言うかなあ、クレームとか来たら嫌だな、許してくれっかなあ」
「考えても仕方ないことを考えるな」
「そういや京佑、木野宮きのりって誰なのよ」
浅野はテレビを観る習慣がない。だから知らないのだろうとすぐにわかったが、深海は説明する気が起きなかった。
「ネットで調べればすぐ出る」
「てか、お前あんな子供の情報なんか売ってたのかあ? なかなか気が引けるぜ、流石に。見たとこ高校生とかだろ、もしかしたら中学生かも」
「知るか。そんなこと」
「じゃあどうやって調べたんだよ」
夜道を歩きながら深海はスマホを忙しそうに触っている。浅野は彼がどこから情報や依頼を仕入れているのか一切知らないし、あまり詮索するつもりもない。
「パソコンに侵入した。そこに大まかな計画やマップが纏められてたからそれを基にして考えただけだ」
「すげー!!!お前そんなことまでできんの!?」
「声がでかい」
スマホを持った手で浅野の頭を小突く。スマホの端が髪の生えていない頭皮に直撃したが、浅野にはあまり効いてないようだ。
「家は依頼主が出した情報から見つけた奴をつけたらすぐわかった。だが、俺がつけたのは男だったぞ、背の低い」
「ふーん?」
「お前はそんなこと気にしなくていい」
また深海がスマホの操作に戻る。どうやらメールを打っているようだった。
「でもそんなことしてバレないのか? パソコンのことはよくわからねえけどよ、今時のパソコンってすげえじゃん?」
「まあ、バレないだろうな、俺を誰だと思ってる。向こうがその道のプロだのスペシャリストならまだしも、そう簡単に見つかるような方法はとってない」
スマホの画面を切って、浅野を見る。相変わらず深海に楽観的な笑顔を見せる浅野と目が合って、思わずため息をついた。
「お前こそ危機感持てよ」
「オレが? なんで?」
「吹っ飛ばされてたろ。お前よりも小さいガキにだぞ。そんなこと普通あり得るか?」
「あー!!あれね!!すっげえよな、普通にビックリしたわ。なんかやってんのかね? 格闘技とか」
「やってたとしても普通は無理だろ、お前の体格考えろよ」
浅野の笑顔が深くなる。それは危機感とは無縁で、まるで楽しくなってきたと言わんばかりの。
「世の中にはいろんな奴がいるな!あんな風に吹っ飛ばされたのは確かお前と出会う前に……」
「おい、帰る前に晩飯」
「お、そうだな!冷蔵庫に何にもねえや。お前明日授業何時からだ? 昼飯いるか?」
談笑しながら、男たちはスーパーに入っていく。
深海は浅野の話に相槌を打ちながら、木野宮きのみを思い出していた。
ただの少女だ。平和ボケした顔の、普通の少女。あれではなんの脅威にもなり得ないだろう。
むしろ、明乃と名乗ったあの人間の方が厄介だ。浅野は気にしていないが、どうやら依頼主から調べるように言われた人物が現れる場所にいたらしい。なら、そいつと組んでいると考えるのが早いだろう。
とすれば。今回の話で、彼らに目をつけられるかもしれない。調べていた背の低い男は大した脅威になり得なさそうだったが、しかし。
「……人間とは思えなかったな」
「ん? 何が?」
ピーマンを買い物かごに入れながら、浅野が首を傾げる。
深海は冷たく独り言だ、と呟いてかごに入ったピーマンを棚に戻した。
* * *
「舐めやがってクソ野郎……」
東雲宵一は怒っていた。コンビニに行き、プリンを買ったものの明乃が帰ってこない。先に一人で食べるのも気が引けて、本格的に情報がどこから漏れたのか調査しようかと思っていた矢先だ。
それはすぐに見つかった。自分のパソコンの中に残っている、見知らぬ人間の足跡が。
「バレねえと思ったか? 俺を誰だと思ってやがる」
パソコンに向かって話しかけながら、東雲は腕を組んだ。
「絶対に見つけてやるからな」
言った瞬間に、明乃のただいまー!という声が聞こえる。どうやらようやくプリンが食べられるらしい。
そしてそれとは別に、明乃が出した名刺に東雲が大声で突っ込むのは、また次の話。