銀仕掛けの天球儀事件・回想 参
前回の冒頭に戻る。
半信半疑で連絡先を交換してから一日。とかなんとか言いながらなかったことのように連絡なんて来ないんじゃないかと疑い始めていた頃。
早速電話がかかってきたと思ったら、いきなり博物館の裏口まで来てほしいなんて言われて、急いで準備をした。
猛ダッシュで来たというのに当の本人が「早かったね」なんてのんきに煙草を吸っているだけでも腹が立つのに、何の説明もなしに博物館に入館――もとい、不法侵入をして今に至る。
――いや、やっぱりどう考えても不法侵入よね。
壱川は涼し気な顔で裏口を開けていたが、館内に入ってからは警備員の目をかいくぐりながら進むことになったし、今なんてロッカーの中に身を隠している。
膨らんでいく不安を押さえつけながら、水守は小声で彼に聞いた。
「ねえ、結局何しに来たのよ、これ」
「天球儀って知ってるか?」
「まあなんとなく想像できるくらいには」
そういえばこの博物館には珍しい物を飾ってあると友人が言っていた気がする。
「ここにある天球儀は、それはもう価値のあるもので――」
「ちょっと、まさか今から……」
「そのまさかだよ」
「ありえない……」
壱川が昨日言っていたことを思い出す。
確か無傷で怪盗を捕まえたいのだとかなんとか、それを水守がやったかのように見せかけたいとかなんとか――
つまり先ほど通った足音は怪盗のものであって、今から捕縛しに行こうと言われているのだと気付いていっそ呆れる。せめて事前に打ち合わせくらいはしたかったものだ。
「急で悪いとは思ってるよ、俺も直前になって知ったんだ」
「……悪いと思ってるなら後でしっかり聞くわ。ここまで来たらもうやるしかないでしょ」
「いいね、その意気だ。それじゃあ出ようか」
ゆっくりとロッカーを開く。慎重に周りを確認してから壱川が手を差し伸べるが、わざと無視した。彼は苦笑いするだけで、それ以上何も言わない。
水守は深く息を吸い込んで、目を開いた。
騙されてやってもいいと一度思ったのだ。それならとことんやるしかないだろう。
怪盗だろうが探偵だろうが、刑事だろうがなんでもいい。この場でやれることをやるだけだと自分に言い聞かせて、彼女はこの世界に足を踏み入れた。
銀仕掛けの天球儀事件・回想 参
「おかしいな」
壱川が辺りを見渡しながら呟く。何がおかしいのかと水守も身を乗り出して展示場の中を見る。
「人の気配がない」
「そりゃ隠れてるんじゃないの?堂々と出てくるわけないでしょ」
「そうじゃない、警備員がいたはずだろ。この辺をうろついてないわけがないと思うんだが……」
言われてみればそうだ。怪盗どころか、壱川と水守以外の人の気配は一つもしない。
ここに来るまでに何人か警備員を見かけたはずだが。
「これはラッキーだな」
「どうして?」
「どっちにしろ警備員には眠ってもらうつもりだった。現場を見られちゃまずいだろ?」
「…………」
あまりにも非常識だが、突っ込まないことにする。
きっとこの程度で動揺していては、これから切りがないと簡単に想像がつくからだ。
「にしても、現れないな。結構有力な情報だと思ったんだが」
「アタシはこのまま現れない方が嬉しいけど、まあそうなったらそうなったで徒労だからムカつくわね」
「……水守さんって肝が据わってるよな」
「考えても仕方ないことは考えないようにしてるだけ……」
「静かに」
言いかけた言葉を壱川の手に遮られる。思い切り嚙みついてやろうかとも考えたが、それよりも彼の目線の先が気になったので体を乗り出した。
暗い展示場に、ひとつの影。
普通の格好をしているように見えるが、明らかに警備員ではないだろう。
「心の準備はいいか?まあ、君の仕事はこの後だ。今は見ていてくれたらそれでいい」
そう言いながら、壱川が展示場に入る。ゆっくりと、しかしわざとらしく靴音を鳴らしながら。
夜の博物館に、不気味にも足音だけが響き渡って緊張感が走る。
「少し不用心なんじゃないか?人が残っていないかちゃんと確認しないと」
「誰だ!!」
男が勢いよく振り返る。彼は壱川の姿を見るや否や、血の気が引いたような顔色で後ずさった。
「悪いがそれは渡せない、諦めて捕まってくれないか」
「……!!」
よく見ると男が手を伸ばそうとしている先に、大きなガラスケースがある。中には銀色に輝く天球儀が入っているのだろう。水守は目を細めながら彼らの一挙一動を見逃さないように、しっかりと目を開いた。
「大人しく捕まってくれるっていうなら、君の身柄の安全は保証するし、それから――」
言い終えるより速く。
男が何かを引っ張るように腕を上げる。途端にガラスケースが真っ二つに割れる。男が天球儀を掴む。走り出す。その一部始終を水守の目は記録していた。
まるで手品だ。しかし感心している場合ではない。男が走って逃げようとしている。壱川が立つ出入口とは、反対の方へ。
「……まあ、そんなすんなりとはいかないか」
「ちょっと!逃げちゃったわよ!」
「大丈夫、俺もできる範囲では用意を……」
「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ!?」
「ちょっ……!」
またも壱川が言い終えるより速く。水守綾は駆け出していた。
ここに来る前に博物館のサイトを見たのだ。その時に館内のマップがあった。
思い出せ、確か男が逃げた先にあるのは狭い展示室が三つと、エレベーターが一つ。それから入り組んでいる廊下に窓が――
「窓!そうよ確か――」
間取りから考えて、窓の外は屋外に設置された休憩所だ。あの男が脱出するなら窓から逃げるか、戻ってくるかの二択しかない。それなら裏口に戻って外に出れば、先回りできるはず。
考え着いてからは、更に体が加速していた。鉢合わせた時にどうするだとか、置いてけぼりになった壱川のことはもう頭にない。水守は走った。ヒールであることも忘れて、とにかくがむしゃらに。
「ちょっとアンタ!!」
そして公園にたどり着くと同時に、人影が見えた。まさに今窓から出てきたであろう、その男の目の前に立ちはだかる。
「今すぐそれを返しなさい!じゃないとただじゃすまないわよ!」
「……!」
男の動揺は見て取れた。それからようやく、水守はこの先どうしようかと考え始める。
とにかく壱川の到着まで引き延ばせれば勝ちだ。しかし水守は戦う術も持っていないし、それどころか全力で走ったせいで息が切れている。
「邪魔をするな!これは世の中に必要なことなんだ!」
「知らないわよそんなの!アタシから見たらただの犯罪だっての!」
「どけ!さもないとお前を……」
男が一歩前に出る。街灯に照らされてようやく、手にナイフが握られていることに気付いた。
小さなナイフだ。しかしそれは水守の今までの人生をすべて否定するには十分で、彼女に感じたことのない恐怖を湧き上がらせる役目をしっかりと果たした。
手が小さく震える。あんな小さなナイフでも、首を切られたら、腹を刺されたらといろんなことが頭に浮かぶ。
水守綾は、凡人だった。今まで劇的なこともなく、ただ平凡に毎日を生きてきた。
――ある一点を除いては。
「……それで怖がって、アタシが引くと思った?」
運動神経がいいなんて、冗談だろう。人並以上のものなんて持っていないことは自分が一番よく知っている。
記憶力がいい?そりゃ人よりいいかもしれないが、学校テスト以外じゃなんの役にも立ったことがない。
だが、しかし。
「怪しい男にわざわざ乗って、こんなとこまで来てやったのよ。引いてやるわけないじゃない!」
――彼女の負けず嫌いは、時に人の想像を超えるほどに膨らんで爆発する。
「……クソ!!」
男がナイフを構えて、地面を蹴る。水守は逃げなかった。どころか、一歩前に出る。
小さく息を吸い込んで、何の遠慮もなしにヒールの先を男の腹に目がけて思い切り突き刺す。
「ぐっ……!」
うめき声と同時に、男の体は後ろへ倒れた。しかしその程度で意識を失うわけもなく、よろめきながらも立ち上がる。手にはまだ、ナイフが握られたまま。
水守の額に汗が浮かぶ。恐怖が消えたわけではない。ただ、今やらなければいけないことを絶対に、確実にしなければ。
考えがまとまるより早く、男がまた一歩踏み出す。今度は同じ手は通用しないだろう。ならばどうすればいい。考えろ、と頭の中で何度も繰り返す――が。
「クソ!絶対に許さな……」
「そこまでだ」
「!?」
想像よりも簡単に、男はナイフを地面に落とした。
後ろから現れた壱川が、男の腕を掴んで捻り上げている。
それを見た瞬間に、全身から力が抜けていくのを感じた。
「ちょっと!遅いわよ!」
「君が速いんだよ。まさかこんな危険なことをするなんて……」
「何よ、アンタが逃がしたくせに文句まで言うつもり?悪かったわね、後ろで見守ってられるほど可愛くなくて」
「いや……」
離せ!と何度も男が叫ぶ。しかし壱川は視線すらくれてやらずに、最小限の動きで男の意識を奪った。
目が合う。目の前の怪しげな髭面の男は、やはり笑っていた。
胡散臭いことには変わりないが、しかしどこか嬉しそうにも見える。
彼の唇は小さく動き、それは水守の耳に届かなかったが。
「……ど真ん中だ」
確かにそう言って、彼は怒る水守の愚痴を笑顔で聞き続けた。
〇〇〇
パトカーのサイレンが聞こえてきたのは、それから十分ほどが経過してからだった。
壱川が応援を呼び、どこから聞きつけたのかマスコミも徐々に増えていく。
彼がマスコミや警察にあることないことを説明しているのを聞きながら、水守は人生が変わってしまったのだという実感を少しずつ感じていた。
カメラのフラッシュが眩しい。こんなにも人が集まるなんて、想像もしていなかった。
「そんなわけで俺はただ居合わせただけです。この事件は彼女が……」
半ば呆然としていると、ふと視線で合図される。
出会った日に唯一打ち合わせしたことがこれだった。記憶力のいい水守が忘れるわけもない。
ゆっくりと、できるだけ深く息を吸い込む。
人生は変わったのではない、今、この自分によって変えられてしまうのだ。
もう後戻りはできない。きっと家族からも友人からも、色々と連絡が来て忙しくなるだろう。なんと言い訳をするか今から考えておかなくてはならない。
探偵事務所とやらも設立しないといけないようだし、これからやることが山積みだ。
――まあ、いっか。
当初の目的である「お祈りメールが来ない生活」は、これで成し遂げられるのだ。
これから想像もつかないような日々が迫ってきて、きっとそれは水守自身をも変えてしまう。だからこそ――
「アタシは――」
だからこそ、自分の手で、口で、意志で、すべてをもってして自分で変えなければ、許せるわけがない。
「アタシは水守綾、――探偵よ!」
〇〇〇
「で、なんで博物館なのよ」
「暇つぶしにはちょうどいいだろ?」
「あんまりそうは思わないけど」
仏頂面でよくわからない骨董品を眺めながら、水守は愚痴のように吐き捨てた。
隣に立つ壱川は相変わらず笑っているが、何が楽しいのかまったくわからない。
そもそもこういった物には興味がないのだ。どうせなら水族館や動物園の方が楽しくていい。
「大体暇つぶしって……警察って思ってるより暇なのね」
「これでも君とのコミュニケーションを大切にしようと思って、頑張って時間を作ってるんだけどなあ」
「アタシのためって言うならもう少し楽しいところに連れていくとか、美味しいものを食べるとかなんかもっと色々あるでしょ」
「まあでもほら、懐かしくない?あれ」
「?」
壱川の指が示した先を見る。一番大きい展示室だが、今は人が入れないようになっているらしい。
立てられたパーティションの奥、ど真ん中に置かれたガラスケースの中身は空だ。そりゃそうだろう、あの中身はよく知った顔のムカつくチビが持って行ってしまったのだから。
「何よ、思い出に浸りに来たわけ?」
「そういうわけじゃないんだけどね」
「じゃあもういいでしょ、お腹空いたからご飯食べたいんだけど」
「そういえば昼がまだだったな、言われてみたらお腹空いてきたよ」
「……アンタちゃんとご飯食べてるんでしょうね」
「食べてる食べてる、最近はちゃんと野菜とかとるように――」
歩きながら話していると、ふと水守の気配が隣から消えて立ち止まる。
振り返ると彼女は、展示室に向き直っているようだった。
ポニーテールがゆっくりと揺れる。今彼女が何を考えているのか、壱川には想像もつかない。
「……懐かしくなった?」
「別に?まあ、色々思い出しはするけど……」
あの日、確実に水守の人生は変わった。
今もまだ、どの記憶より鮮明に思い出せる。
それから色々あった。ありすぎた。あの日がほんの小さな出来事に思えるほどに、今もたくさん水守に押し寄せて来ている。
「こういう時何を思い出すんだ」
「そうね……」
きっとこれからも、休む暇もなく襲い掛かってくるのだろう。
探偵も、怪盗も、よくわからない集団も。そしてこの男と過ごす日々も。
「アンタの胡散臭い顔とか」
「……綾ちゃんらしいな」
水守綾は、凡人だ。
そして今日も明日も、劇的な人生の中で凡人を謳歌したいと、隣の男を見ては思うのである。
銀仕掛けの天球儀事件・回想