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猫猫事件帖 最終章 そして怪盗はいなくなる 最終話


「……後悔した方がいい。私たちがやったことは八百長のようなものだ。君と手を組んでいなければ、きっと私はこんなに有名になれなかった」
「そんなことは―――」
 壱川遵は言葉に詰まった。彼が言いたいことも勿論わかっていたし、それに反論するのもおかしなことだと知っていた。
 だけどどうしても否定したくなった。壱川は知っている。彼の願いも、本質も、その日々に悪意などなかったことも―――
「…………俺は、間違えていましたか?」
 今にも押し潰されそうな声だった。選択を間違えたと自分で思ったことはない。人生の中で一番心が躍る日々だった。楽しくて、刺激的で、それの何がいけなかったというのか。誰でもいいから、間違っていないと言って欲しかった。木野宮きのりと過ごした日々は、すべて正しいものであったと。
 木野宮きのりは何も言わなかった。それが答えなのだと思って壱川は自身の手で顔を覆った。無邪気に、子供のように、楽しいというそれだけが罪になった。世間は二人の手を離れ、ひたすら残酷に熱を帯びていく。今こうしている瞬間にもまだ、彼らは熱をぶつけ合い、互いに潰そうとしあっている。それは意図したものではなかったし、勿論そうなってほしいなんて思ったこともない。だけど彼らにとってそんなことは関係がなかった。
 今こうしている間にも、誰かが血を流しているかもしれない。そう思うだけで、小さく指先が震えた。
 その発端となったのは間違いなく壱川と目の前の男だ。もう言い逃れなんてできるはずもない。自分たちの行いが、怪盗と探偵の対立を煽ることになってしまったのは事実だ。
 だけどそんなのあんまりだ、と叫んでしまいたくなった。今すぐにここから逃げ出してしまいたい気持ちと、どうにかあの楽しかった毎日を正当化したい気持ちで胸が潰れそうになる。
「壱川くん、大丈夫だ」
 木野宮きのりはいつの間にか、壱川の前に膝をついていた。やめてくれ、と声に出そうになる。
 自分はあなたに膝をつかれるほどの男じゃない。
 今にも泣きそうな壱川の手を、木野宮は取った。それはまるで、子供をたしなめる親のように。
「間違えていたのは私だ、君じゃない」
 強い瞳だった。彼は今、世間がこうなっても尚まだ立ち向かえる勇気を持っていた。彼が探偵を辞めたいわけがない。だけど、壱川は彼の選択を止めることはできない。その決意が絶対に揺るがないものだと知っていたから、彼の隣に立っている自分を奮い立たせるしかない。
 もう会うことはないのだろう。二度とあの日々は戻らないのだろう。自分があの衣装に袖を通すことも、この男の隣に立つことも。
「木野宮さん、それでも俺はずっと―――」
 

 


 猫猫事件帖  そして怪盗はいなくなる

 

 

 

「まったく君も無茶するな、みんな心配してるよ」
 壱川は手に持ったナイフで木野宮きのりの腕を縛り上げていたロープを切る。木野宮は自由になった腕をぐるんぐるんと何度も回して、バッと壱川を見上げた。
「ありがとう!!」
「うん、元気そうでよかった」
 木野宮はじっと壱川を見る。どうやら、衣装が物珍しいらしい。それもそうだろう、この衣装に袖を通すのが何年ぶりか、壱川自身すらも覚えていない。
「……ちょっと恥ずかしいから、あんまり見ないでもらえると助かるんだけど……」
「すごくかっこいいよ!すっごくかっこいい!怪盗みたい!!」
「まあ、そうだからね……」
 木野宮の帽子から生えるリボンが嬉しそうにぶんぶんと回り続ける。壱川はそれを見なかったことにしてから、陽炎の方に視線を送った。
 怒り、憎しみ、それ以外の何かだったとしても、決して良いものではないだろう。陽炎はそのすべてを渦巻かせた瞳で、壱川を睨み付けた。何かを小さく呟いて、唸る。その繰り返しの中で、彼はようやくハッキリと言葉を口にした。
「お前のような男が……お前がいたから、木野宮きのりは……」
「…………」
 突き刺さるような言葉だった。それを無責任だとも、理不尽だとも思わない。壱川は確かにわかっていた。あの男と出会ったことが、あの男と手を組んだことが、確かに自分だけではない様々な人間の運命を狂わせてしまったことを。壱川は確かに認めていた。誰もが熱狂した名探偵・木野宮きのりの裏側に、自分という真っ黒な影があったことを。
 それでも壱川は否定し続けた。あの時、あの男と過ごした毎日は間違ってなどいなかったと。
「一人で逃げれるか?」
 壱川は木野宮に耳打ちした。木野宮は何度も頷くが、少し陽炎のことを気にするように視線を行き来している。きっと彼女は本気なのだろう。木野宮きのりの代わりに勝負を受けると言っているのは、彼女なりの覚悟であり、彼女の夢に追いつくための一歩だ。それを否定するつもりはない。だが、実行するにしてはあまりにも彼女は幼かった。
「さあ、行ってくれ。ここは俺に任せてさ」
「……わかった!」
 彼女もそれをわかっていたはずだ。心のどこかで、自分では敵わないということくらい、知っていたはずだ。それでも逃げなかった彼女を叱らなかったのには理由がある。
 あの日を思い出してしまった。彼が引退を決意した日を。お互いがここまでなのだとわかっていた。それがつまりは彼と自分の引退を意味するのだと知っていて、尚も木野宮きのりは力強い目で訴えかけた。
 だからそれに応えたかった。それだけの話なのだと、言い聞かせて壱川はゆっくりと息を吐く。
「お前が彼に執着するのもわかるよ」
「わかるわけがないだろう、お前ごときに」
「いや、わかるよ。俺も同じだ、お前と」
 いつまでも、既になくなってしまったものに縋った。意味があるのかないのか、自分でもよくわからないまま。何度も血の流れない世界を祈ったし、何度も許してほしいと願った。
 ただ怖かっただけだ。人が傷付くのも、自分が傷付けられるのも、何よりもそれがあの男のせいだと言われる日が来てしまうことが。
 だけど壱川遵は知っている。世界はそれだけで構成されていない。壱川の知らない人間が、物が、景色が、世の中に溢れ切っていることを知っている。世間がどうなろうと、何が起ころうと、例えそのすべてが変わらなくても、壱川を取り巻く人間も景色もすべて変わっていってしまうのだと。
 そしてその中には喜ばしいものもあるのだと。いつも壱川に不機嫌な顔を向ける女性を思い出すと、口元が緩んだ。
「まあ、いいじゃない。可愛い後輩にご指導くらいしてくれても」
「お前のような男がいたから!!」
 陽炎は怒鳴りながら手を振った。小さなナイフが壱川に襲い掛かるが、マントを翻せばその中に飲み込まれるように消えていく。木野宮を追われるのが一番まずいが、仲間がいないとも限らない。壱川は脳内で様々なことを考えながら、手に持っていたナイフを投げ返そうと腕を上げた。
 だが、腕が上がり切ったところで止まる。止めたわけではない、動かないのだ。何かに引っかかったかのように、壱川の体が制止する。
「…………」
「あの時と変わらないな、何も変わらない、その程度で私に挑もうとすることがそもそも―――」
 醜悪な笑みを浮かべて、陽炎は揺れた。あの日、あの時、この場所で。まるで同じようにあしらわれて、まるでお前には興味がないと言うように彼は壱川を見ることすらなかった。
「成る程、確かに腕はあるな。あの時の俺じゃ敵わないわけだ」
 軽く腕を引っ張ってみるが、動かない。陽炎は不気味に揺れながら、壱川の元へとたどり着く。
「だが、時代遅れだな」
 バツンと何かが引きちぎれるような音。同時に壱川は動かなかったはずの体を思い切り動かして、その足を彼の腹に叩きこんだ。陽炎の体は容易く吹き飛び、窓のない壁に思い切りぶつかる。今度こそナイフを彼に向かって投げれば、陽炎の服が床に縫い留められるような形で突き刺さった。
 何も話すことなどない。何も教えることなどない。事実も、現実も、あるいは壱川が知るすべての真実も。だから何も言わなかった。彼の罵声を浴びても、今は何一つ響かない。
「……クソ!クソ!クソ!」
 掠れた声を響かせながら、それでも狂気に駆られた目は未だ諦めていなかった。彼は心のどこかで知っているのだろう、と思った。
 どこにいるのかも、何をしているのかもわからない男は、きっとここへは来ない。誰が呼ぼうと、何を盗もうと、もう決して表に現れることはないと。
 壱川は目を細める。その事実に叫びたくなることが、壱川もある。心のどこかでまたあんな毎日が訪れるのではないかと思えば思うほど、二度とない事実に言葉を失う。
「お前じゃあの人と、滝で心中なんてできやしないよ」
 あとは縛って警察にでも引き渡せばいい。思いながら立ち上がろうとする男に近付く。
「……ふざけるな、俺が望むのは木野宮きのりとの再戦だけだ……」
 壱川の耳に、その声は届かなかった。だが、彼が何をしようとしているのかすぐに気付く。止めようと駆け出すがそれも虚しく、陽炎はその体を歪めて波のように揺れた。
 目の前で彼が消えるまでは一瞬だった。縫い付けられたマントだけが床に残る。焦燥がせり上がるが、なんとかせき止めて壱川は振り向いた。
 彼が向かうとしたら、今まさに逃げようと走っている少女のもとしかありえない。今度こそ、無事ではいられないかもしれない。考えるよりも先に体が動く。走り出しながら、壱川は頭の片隅で気付いていた。
 今感じているこの焦燥は本物だ。誰も傷付いてほしくないと願ったことは、形を変えて、方向を変えて、それでも壱川の中に残っている。
 この感情には言い訳も理由も何もない。これが自分に残った、唯一本当であることなのだと。
 怪盗であることは、もう彼にとって必要ではなかった。それは、過去に縋りつくために用意したたった一つの言い訳だったから。それがなくとも、残るものがあるとわかったのなら、もうこの服に袖を通すことはないだろう。

 


 * * *

 


 木野宮きのみは停止した。走って疲れたのもあるが、それだけじゃない。
 廃墟と化したビルの階段を下り続けて、息が上がったからでもない。彼女は感じ取っていた。自分の背後に誰かが来ること、自分ではない誰かを求めて、あの男がまたここに来るのだと。
「…………」
 上がった息を整えながら振り向いた。やはりそこには、どこから現れたかわらかない全身を闇に包んだ男が立っている。
 ここに来た時よりも冷静じゃない顔付きだった。血走った目が木野宮を捉えて、離そうとしない。
 木野宮はわかっていた。逃げられないことを。例え逃げたとしても、またこういうことが何度でもあるのだろう。父が残した縁は、きっと彼がいない今自分に降りかかって纏わりつく。
 宿命のように、逃げても逃げても追いかけてくるだろう。だから木野宮は逃げないことを選択した。ならばすべて自分が背負っても構わない。そうして立ち向かい続けた先に、きっと父の背中がある。
 面白いことも、楽しいこともたくさんある。だけど悲しいことも、苦しいことも数えきれないほどあるのだろう。少なくともあの日、見知らぬ男と話していた父は悲しそうにしていたから。
「お前を連れ去る、皮の一枚や二枚剥げばあの男も青ざめて飛んでくるだろう」
「………………」
 木野宮は陽炎を見上げた。彼にもきっとあったはずなのだ。楽しいことも、悲しいことも。たくさんのことがあって、ここにいるはずなのだ。
「そうだといいなって思うよ」
 だけど今現在、彼は苦しんでいるようにしか見えなかった。それがどうすれば晴れるのか、家の中でずっと考え続けていた。答えは出ない。自分ができることなんて、ほんの小さなことしかない。
「でも、させないよ。例えお父さんが飛んでくるんだとしても、それってすっごく嬉しいことだけど」
 いつも助けられてばかりだった。宮山に、もしくは他の友人たちに。木野宮きのみは普通の少女だった。ずば抜けた身体能力も、頭脳も、何も持たない至って普通の少女だ。
 そんなことは知っている。だけどそれは、目の前に立ちはだかる男から逃げる理由にならない。
「もう少し、待ってくれないかな」
「何?」
「わたしね、今できることって全然ないの!あ、でも事件解決したことはあるよ!前に教会で、ステンドグラスが割れちゃって、それでね、そのステンドグラスが消えちゃったんだけど―――」
 少女は心底楽しそうに語った。父の背中を追う内に、自らにある好奇心がどんどんと膨れ上がっていった。
 事件も、怪盗も、助手も、すべて木野宮にとっては夢の世界の憧れの出来事だったが、今ではそうじゃない。そのどれもが現実で、確かなことで、近くにあることなのだ。
 とんでもなく楽しかった。目に見えるものすべてが素晴らしいもののように思えた。だから木野宮は臆せずにいられる。父の背中に追いつけるのかどうかなんて、自分にできることがないなんて落ち込む暇がないほどに、木野宮の世界は常に騒々しく、新鮮なことの連続だから。
 きっとみんなそうなのだ。うつむいていては見えないものを、見落としているだけなのだ。だから木野宮は誰にでも手を差し伸べる。誰にでも笑いかけるし、誰とでもたくさん話がしたい。
「大人になったら、きっともっとできることが増えてるから」
 その時に父と並べるほどになっているのか、追い越すほどの探偵になれているのか。それは今の木野宮にはわからないが、そうであってほしいと願う気持ちがある。
「だから、その時になったら遊ぼう!」
 陽炎は、木野宮に向かって伸ばしていた手を止めた。
 それは確かにあの日の記憶だった。人生で唯一自分を捕まえるに至った男が、膝をついて呆然とする陽炎に確かに言ったのだ。
 君は頭がいいんだな、今度会う時はチェスでもしよう。
 彼は笑っていた。馬鹿にされたのだと思い怒りに狂った。だけど独房の中で、その言葉を何度も反芻して何度も思い出した。そんな日が来るのだろうか。それはきっと刺激的な毎日とは程遠いだろう。だけど魅力的だった。彼はきっと、本気でそう言っていた。彼は、ずっと楽しそうにしていたのだ。対峙した時も、トリックを見破った時も、捕縛したその時でさえも。それはまるで子供が、純粋な好奇心と冒険に身を投じているような。
 彼と、同じだった。無邪気で純粋な、ただひたすらに何かを追いかけているような目が。決して逸らされない、陽炎自身の内側を射抜くような目が。
「……どいつもこいつも」
 苛立ちに似た何かが内側からあふれ出てくる。木野宮きのりは、表の世界から消えていた。それが今の陽炎にとってのすべてであるはずだ。
 沸き立つ感情に呼応するかのように、ビルが揺れる。天井からは小さな破片が無数に落ちてくる。木野宮はあたりを見渡したが、陽炎はそれを何一つ気にせずに佇んでいた。
 ビルの揺れは止まらない。次第に揺れも、地響きのような音も大きくなっていく。
「木野宮きのりでないといけないのだ!!あの男でないと意味がない!!人生で私を捕まえたのはあの男だけだ!!」
 自分を奮い立たせるような声。まるで、無理やり怒りに包まれようと藻掻くような悲痛な声だった。
「私のトリックを見破ったのも、捕まえたのも、あの男にしかできなかった!!あの男でなければ……!!」
 木野宮が驚いたような顔を見せてすぐに彼の後ろに黒い影が重なる。同時に、階段の踊り場から陽炎は吹き飛んだ。大げさな程に飛んだ体は、木野宮の後ろへ転がって地面に叩きつけられる。
「……しぶといなあほんと」
「刑事さん……!!」
 息を切らして追いついてきた壱川が彼を吹き飛ばしたのだと理解するまでに時間はかからなかった。だが、木野宮は壱川が負傷していないことを確認して、すぐに後ろに吹き飛んだ陽炎の元へ駆け寄ろうとする。
 が、壱川がその手を掴む。木野宮は引っ張られるような形でその場に留まらざるを得なかった。焦って振り返る。壱川は汗をかきながら、彼女の目を見た。
「逃げよう、ビルが崩れる。何か仕掛けられてたのかもしれない」
「でも……」
「わかってる。だけど今は君が怪我をせずに、ここから脱出するのが優先だ」
 木野宮の手を引いて、壱川は出口へ向かおうとする。彼女はそれに抗おうとしなかったが、小さく口を開いた。
「壱川さん」
 壱川が振り返る。何を聞かれても、何を言われても、仕方ないという覚悟はあった。だけど彼女は責めるような目をしていない。むしろ、小さな輝きをいくつも携えた目で、彼を見上げていた。
「お父さん、嘘じゃなかったの?」
「…………」
「カゲロウさんが言ってたこと、ほんと? お父さんは……」
「ああ、そうだ」
 木野宮の手を包み込む。壱川は彼女の前で膝を付いて、ゆっくりとその眼差しに応えた。
「お父さんは、本当にすごい人だったの?」
 泣きそうな目にも、喜びに満ちた目にも見えた。疑う気持ちも、期待する気持ちも。きっとたくさんのものがその目に詰まっている。
「……ああ、そうだ。君のお父さんは、すごかったんだ。俺はずっと―――」
 脳裏に、あの日のことが蘇る。彼女の父は言った。間違えていたのは私なのだと。認めるような、懺悔するような、それでもまだ抗おうとしている、そんな彼の視線を思い出した。
 だから壱川は言った。あの日彼にも言った、その言葉の続きを。
「俺はずっと、誇りに思っているよ」
 ビルが大きく揺れる。壱川は彼女の返事を聞かずに体を持ち上げて、ひたすらに出口に向かって走った。正直、床で呻いている男のことなど気にしている暇はない。
 木野宮だけは未だに彼を気にして視線を向ける。不意に視線がぶつかった気がしたが、それもすぐに遠くなって自信がなくなった。
 だけど予感がしている。彼はきっと、ここから出られるだろう。そしてまたいずれ、木野宮の前に現れる時が来る。その時は―――
 その時はもっと、たくさんのことを話せるだろうか。

 

 

 * * *

 

 

 揺れるマントも見えなくなった頃に、男はなんとか立ち上がった。体中が痛むが、動けないわけではない。
 いずれビルは崩れるだろうが、その前に脱出するくらいは容易だった。むしろ、自分が仕掛けたわけでもないのに唐突に崩れ始めたビルに疑念が渦巻くが、今は脱出を優先した方がいいだろう。
 生きていれば何度でもチャンスはある。
 陽炎は独り言のように悪態を何度も何度も呟きながら、出口に向かうべく痛む体を動かし始めた。
 目的は達成できなかった。だが仕方ない。今度は必ず邪魔の入らないように、念入りに作戦を練って、また必ずあの男と対峙せねばならない。
「……クソ、邪魔ばかりしやがって」
「おや、それはすみません」
 独り言のはずだった。誰に対して言ったわけでもない言葉のつもりだ。先ほどまで会話をしていた人間はすべてこの場から消えているはずで、返事など返ってくるはずがないのだ。
 陽炎は振り返る。まるでそこに、最初からいたかのように佇む白い影―――常盤社は、崩れ行くビルの中心で、涼しい顔で彼を見ていた。
「お前の仕業か」
「誰の仕業かと聞かれたらそうかもしれません」
「相変わらずつまらないことをする」
「それは貴方の方では? たかが一人の男に執着して、一般人まで巻き込むなんて―――」
 感心しませんね、と。
 影は笑っていた。だがそれが笑顔ではないことを陽炎は知っている。何も感じさせず、何も読み取らせない。常盤の目は、確かに笑っていない。
「なんだ、まだ秩序だ、制裁だと言っているのか?」
「ええまあ、それが私の成すべきことですから。……悲しいですよ、貴方のような方が、こんなことに手を染めてしまうなんて」
 常盤は少しずつ、ゆっくりと陽炎に向かって歩いた。まるでビルが崩れている方が嘘のように思う。一度不気味さに気付いてしまえば、恐怖に支配されるのは簡単だった。
「それで私を制裁に来たのか!? 始末すると言うなら、私も全力で―――」
「ああいえ、それもありますが」
 気付けば常盤社は、男の目の前に立っていた。いつの間にと声を出す暇もない。不穏な風が男を取り巻いて、視線を逸らすことすら許さない。
 だと言うのに、常盤はにこやかだった。
「今日はほとんど私情です」
 男の体が飛ぶ。本日三発目の蹴りを体に食らって、肌を隠すように巻いた包帯に血が滲んだ。
 逃げなければ。
 本能が告げる。逃げろ。どこにでもいい。今すぐに動かないと、次の瞬間には死んでしまう。
 陽炎は冷静になろうと息を吐きながら出口に向かう。常盤の方を見る余裕もなく、壱川たちが向かった方と同じ出口であることを気にする余裕もなく。
 だが、それさえも阻まれる。まだ出口が見えてすらいないというのに、そこには一人の少女が彼を待っていた。
 セーラー服に、真白なマント。黒髪を手で弄びながら、少女は男を見る。
「……私に言うこと、あるよね?」
「そこを退け!!」
 壁から背を離して、少女は溜息を吐いた。頭に巻かれた包帯を指先で撫でて、それからにっこりと端正な顔に笑みを張り付ける。
「私がやられっぱなしで黙ってる女の子に見えた? そんなにか弱くて可愛く見える?」
「なん……」
 陽炎はそこで思い出す。木野宮きのみに関わる人間を少しずつ狙っていた時のことだ。
 ほんの少しでよかった。多少傷つける以上のことをしようとは思わなかった。だがその少女は魔法のようなあらゆる手を使い、陽炎を翻弄しようとしたのである。
 結果手加減ができなかった。想像以上の負傷をさせてしまったという後悔はあった。だが、彼女が同業者であることも勿論わかっていたし、この程度で死なないことも知っていた。
「ムカつく、消えて」
 その少女が今、自分の目の前でマントを翻している。
 反応するよりも早く、海のように広がるマントに影は飲まれた。叫ぶ声すらも吸収して、マントはどこまでも広がっていく。そしていきなり収縮したかと思うと、マントは陽炎の体を思い切り締め付けた。
 全身に痛みが走る。負傷した部分がえぐられるような感覚にもだえる。少女は涼しい顔をしてそれを見ながら、自身の髪をたなびかせて出口へ体を向けた。
「おや、この程度でよかったのですか?」
「一発でいいって言ったでしょ」
「無理はなさらず。まだ傷が痛むんでしょう」
 いつの間にか隣に立っていた常盤を睨み付ける。彼は未だに口元に笑みを浮かべて、しかしどこか満足そうにも見えた。
「後は貴方の仕事でしょ? 私もう帰るから」
「そうですか。帰ったらティータイムにしましょう。お腹が減っているでしょうから」
 常盤が指を鳴らせば、崩壊するビルの中には誰もいなくなった。音を立てて崩れていくその場所には、最早何も残っていない。

 


 * * *

 


「みややまくーーーーん!!!」
「木野……ぐはッ!!」
 顔や服を盛大に汚して、それでも木野宮は嬉しそうに走って宮山紅葉の体に体当たりした。
 なんとか受け止めようと踏ん張ったが、宮山の力で受け止めきれるわけもない。彼は簡単に地面に倒れて、それでもしっかりと木野宮のことを抱き締めていた。
「すごかったんだよお!あのね怪盗がいてね!それで怪盗と怪盗が戦ってね!!あとねそれとねお父さんがね昔あそこで―――」
「ちょ、待って、暴れないで」
「壱川さんがねかっこよくって、それでねそれでねお父さんってね本当はあんなこと言ってたけどやっぱりすごくって―――」
「ま、痛、暴れないで、木野宮、ちょ」
 暴れる木野宮をなんとか静止しようとするが彼女は止まらない。それはまるでいつも通りの日常のようで、宮山は全身から力が抜けていくのを感じていた。
「すごいでしょ!?」
 木野宮が言う。しっちゃかめっちゃかすぎて何を言っているのかわからなかったが、とにかく彼女が無事であることと嬉しそうなところを見ると、なんとかなったらしい。
 宮山は体中に溜まっていた緊張を深く吐き出した。近くでビルが崩れ始めたときはまさかと思って焦ったが、どうやらそのまさかだったらしい。
 彼女を見上げる。やはりいつも通り、危険な目に遭っただろうに嬉しそうで楽しそうに、彼女は笑っているのだ。
 怒る気にもならない。いや、怒ってもきっと仕方がない。彼女は何度叱ろうと、何を言われようと今後もこうして立ち向かおうとするのだろう。
 そこにあるのが好奇心だけなのか、はたまたもっと深い何かがあるのか。宮山は知りえないが、しかしそれでもよかった。
「……無事でよかった」
 大の字で寝そべる。外だということも、人の視線も気にならなかった。たったそれだけが宮山にとって大事なことだったから、それ以外はもう何でもいいと投げ出してしまおう。
 木野宮はまだ聞いてほしいことがあるようで、それでねそれでねと話をひたすら必死に続けている。
 気の済むまで話せばいい。彼女の顔を見れば、大抵のことは解決したのだろうと察しがついたから。それから、満足したら家に帰ればいい。きっと、ご飯を大盛食べながら彼女はまた同じ話を繰り返し聞かせてくれるだろう。
 宮山は自分の上でひたすら楽しそうに喋り続ける少女を見上げて、ほんの少しだけ微笑んだ。

 


 * * *

 


 夜が深まって、事務所のカーテンを閉めて数時間が経った頃だった。
 水守綾は宮山から木野宮が無事であったという連絡を受けて、しばしの間眠ってしまっていたらしい。
 慌ててヒールで街中を駆け巡ったが、成果はほとんどなかった。東雲がつけたという発信機を追ってもそこには何もなく、全員が思いついた場所や近くをひたすらに捜索していたのだ。そりゃあ眠ってしまっても仕方がないと言い訳しながら、水守は気怠い体を起こして今日やる予定だった仕事を始めようと椅子に座る。
 それとほとんど同時に。窓を叩くような音がした。水守は自分の耳を疑う。なんせこの事務所はビルの二階にあるのだ。普通、外から窓を叩くなんて石でも投げない限り難しい。
 緊張が走る。あんなことがあったばかりだ。聞いたところによれば陽炎の行方はまだわかっていない。木野宮きのみの知り合いが狙われる中で、自分が狙われない理由なんて何もない。奇跡的に今まで難を逃れていただけだ。
 ゆっくりと窓に近寄る。それから一切音がしないところを見ると、やはり何かの罠かもしれない。だが放っておくわけにもいかないだろう。
 水守は意を決してカーテンに手をかける。目の前に怪盗が現れたとして、自分にできることは何か必死に考える。そしてその手を思い切り横に引いて、水守はカーテンの向こうにいる正体を見た。
 そしてそれは、やはり予想通り、怪盗の姿ではあったのだが。
「……何? それ」
「えーっと……」
 素っ頓狂な声が口から出る。窓を開けると、そこには見知った男がいた。どうやって二階に登って来たのかよりも、ずっと気になることがある。
 壱川遵は照れたように頬を掻きながら、そこにいた。ただし水守の知った姿からは程遠い。彼はまるで怪盗のような衣服に身を包み、ご丁寧にシルクハットとモノクルまでついている。まるで言い訳を探すかのように壱川は視線を泳がせた。
「……ちょっと、色々あってね」
「それって木野宮さん関連?」
「うん、まあ、そうだな」
「で、何、その格好」
「これは……その……えーっと、いや、大した理由はないんだ、ほんとに」
 全く意味がわからないが、物珍しくてじろじろと彼に視線を向ける。笑えばいいのか、怒ればいいのか。ところどころ汚れた服や頬が、どうにも彼をかっこよく見せてくれない。
「なんで来たのかって言われたら俺も困るんだが、いや、見て欲しいとかそういうんじゃないんだよ、本当に」
「…………それで?」
「……まあ、もう二度と着ないだろうから」
 きっと水守の知らないところで何かあったのだろう。そこで彼がどんな活躍をしたのか、どんなことを考えていたのかは想像もつかない。いつもならきっと、また一人で行くなんてだとか、色んなことが思い浮かんで怒っていたことだろう。
 だがそういう気分にもなれなかった。いつもより少しだけ気が晴れたような顔をしているものだから、怒鳴るのも気が引ける。
「君に、見せておこうかと思って」
 風に煽られて、カーテンとマントが揺れる。それは水守を包むように揺らめいたが、不思議と不快にはならなかった。
 二度と着ないと彼が言うならそうなのだろう。それを止めるつもりも、ましてや肯定するつもりもない。壱川は変わらず困ったような、照れているような顔で視線を泳がせて、それからちらりと水守を見た。
「……変かな」
 きっと、たくさんの言葉を選んだのだろう。だけど何も出てこなくて、水守も何も言わないものだから困って言ってしまったのだ。
 そんなことはすぐに想像がついた。なんだかおかしくなって、思わず笑ってしまう。
 珍しく目を細めて、口を開けて笑う水守を見ながら、壱川はやはり恥ずかしそうに眉を下げた。見せたことを後悔しているのか、それとも別のことを考えているのかはわからない。
 水守は壱川に言う。彼の思っている言葉とはかけ離れていて、だけど確かにそれは彼を日常に戻すために必要な言葉だ。彼女は笑っていた。心底おかしそうに、それでいて、心底楽しそうに。
「全ッ然似合ってない!」


 

 

猫猫事件帖 最終章 そして怪盗はいなくなる 六

 久しぶりにいい夢を見た。
 夢の中で自分は、懐かしい衣装に袖を通して笑っていた。それはまるで子供が悪戯に成功した時のような気持ちで、純粋にただ楽しい、という気持ちだけが壱川遵を突き動かしていた。
 目的なんてなんでもよかったのかもしれない。怪盗になって最初の頃は、それはもう刺激的で毎日が輝いていた。順風満帆でなんの不満もない人生だったが、退屈じゃないと言えば嘘にはなった。だけどリスクを背負って冒険ができるほど子供にもなれず、ただひたすらに日常の中で自分は満足だと言い聞かせて生きていたような気がする。
 だが、なんでもやれば慣れは生まれてくるものだ。
 案外自分にはリスクを冒す才能があった。怪盗になってから、捕まるかもしれないというスリルは少しずつ薄れていった。自分なりに色々考えて試行錯誤するのは楽しかったものの、この世界に自分が求めていたものは少しずつ削れていって形を変えた。一年もしないうちに、壱川は自分でも呆れるほどに慣れていた。追ってくる警察のライトにも、監視カメラを避けることにも、面白いトリックを閃くことにも。
 あの男、木野宮きのりと出会うまでは。
「木野宮さん」
 夢の中で壱川は笑っている。男、木野宮きのりもまた、柔らかい笑みで彼を迎え入れた。
 お互い、子供のようだったと思う。考えたことが上手くいくと、スリルなんて目じゃないほどに嬉しかった。様々な視線をかいくぐった二人だけの秘密と、それに翻弄される世の中が可笑しくてたまらなかった。壱川が欲したのはそれだけだ。富も名声も必要なかった。身を削るスリルも、他人に追われることも、目立つことも必要なかった。
 ただ、楽しいことがずっと続けばいいと思っていたような気がする。いつか大人になって辞める日が来たとしても、あんな楽しいこともあったものだと酒の肴にして笑っていたいと思った。そうしてその話をするとき、必ずこの男が隣にいて、あの頃は若かったなんてことを言うのだ。
「上手くいきましたね、今回も」
「ああ、君のおかげだよ」
「何言ってるんです、全部貴方が考えたんでしょう」
 派手な演出と演技の中に、それでも本当のこともあった。木野宮は頭がよくキレる男であったし、壱川も器用な男だった。この二人でなければ、きっとここまで楽しいとは思えなかったはずだ。
「そういえばニュース観ました?」
「……ああ、また取材が来たよ。最近は娘といる時間も減ってしまって、嬉しいような困ったような、少し複雑だ」
「はは、そりゃあいい。娘さんも誇らしいでしょう」
「どうかな。私が怪盗と組んでいると知ったら、どう思うか―――」
「そんなのは」
 真っ黒なマントが揺れる。随分気に入った衣装だった。
「バレなきゃいい話でしょう。まさか、今更バレるのが怖いんで?」
「……君とやってる限り、その心配もなさそうだ」
 木野宮きのりは笑った。それもまた子供のようだと思った。怪盗だ探偵だの賑わっていく世間に壱川の胸は躍る。自分たちがこの社会現象を巻き起こしたのだと思うと、人生はなんと面白いのかと人に訴えたくもなる。
 いつまでも覚めない夢であってほしかった。楽しい部分だけを切り取って、ずっとそこだけを眺めていたかった。
 だけど壱川は夢から覚める。その後、世間の賑わいは異常な程の熱を帯び、死傷者が出る事件も少なくはなくなった。途端に思い知らされるのだ、自分が一体何をしてしまったのかを。まさかこんなことになるとは思わなかった、なんて言い訳をする相手はもうどこにもいない。
「…………」
 何度も鳴り響くスマートフォンの通知に目を覚ます。何か楽しい夢を見ていたような気がしたが、あえてそれを思い出そうとはしなかった。
 壱川は気怠そうに起き上がりながら、スマホの電源を付ける。
「……はい、もしもし。うん、ちょっと寝てて……」
 向こうから聞こえる声は、平静ではなかった。焦りと怒りが伝わってくる声に、壱川の顔色も変わる。
「……何?」
 急いでテレビを点ける。そこにはちょうど、街の様子を映し出したニュースが流れていた。
 アスファルトを埋め尽くす白い紙の山。そのうちの一枚をキャスターが手に取りカメラに見せる。
 ―――それは、あからさまな挑戦状だった。無数のカードにはすべて木野宮きのりの名前が書かれている。誰の仕業かなんてすぐわかった。そして、どこに行けば彼に会えるのかも。
 呆然とした頭の片隅で考える。彼、木野宮きのりは来るだろうか。あの場所に行けば、また彼に会えるのだろうか。
 楽しかった日々がフラッシュバックする。だが本能的にわかっていた。彼は来ない。きっと、泣こうが喚こうが、あの場所にはもう誰もいないのだ。
 頭が回らない。何をすべきか、何がしたいのか。何をすれば許されて、何をしなければ幸せでいられるのか。
 考えようと藻掻いても答えは出ない。だが壱川は知っていた。今この場において、選択肢なんてないに等しいのだと。

 

 


 猫猫事件帖 そして怪盗はいなくなる

 

 

 

 
 目が覚めてもすぐには声を発しなかった。辺りを見渡せば、薄汚れた床や壁が目につくばかりで、他には何もない。
 木野宮きのみは捕らえられていた。背中側で手を縛られているのだろう、木野宮の力ではびくともしない。早々に諦めて、木野宮はもう一度自分がいる場所を見渡す。
 もう随分と使われていない部屋のようだった。埃っぽいし、物はほとんど置かれていない。あるとすれば木野宮が今まさに座っている辺りが大きな台座のようになっているくらいで、他には何もないに等しい。扉も窓ガラスもなく、ぽっかり穴が開いているような状態だ。
 外から吹き込む風に髪を揺らされながら、木野宮はゆっくり立ち上がった。連れ去られることはわかっていた。あの時、ビルの屋上から何かが光って見えたときから。それは勘には違いなかったが、木野宮はわかっていてここに来たのだ。
「……起きたか?」
「うん、起きたよ!」
 部屋に入ってきた男が、呆れたように肩を竦める。それは先日会った陽炎に違いなかった。木野宮は相変わらず怯えるわけでもなく、彼を見据えていた。
「外に紙をばら撒いておいた。あれは予告状だ、木野宮きのりへのな」
「お父さんは来ないってば」
「そうか? だとしたら来るまでお前を監禁するだけだ。その間に死んでも文句は言うなよ」
「平気だもん」
 じっと、怪盗の目を見る。視線に耐えられず陽炎は目を逸らした。ここまでくると、彼女には何かすごい能力でも備わっているのではないかと思わされる。女子高生といえど、木野宮きのりの娘には違いない。
「わたしが勝負を受けるってば」
「捕まってる身分で何を言う。勝負も何も、お前は今何もできんだろう」
「こういう勝負がしたいんじゃないでしょ?」
 言って、木野宮は踏ん張った。なんとか縄を解けないかと顔を真っ赤にして引きちぎろうとするが、できるわけがない。
「わたしは逃げないし、嘘もつかない。受けるって言ったら絶対受ける!」
「…………」
 転んだり、引っ張ったり、床にこすりつけてみたり。木野宮がその場で暴れまわりながらなんとかしようと精一杯藻掻く。男はそれをじいっと見ていた。
「わたしの方がすっごい探偵になるんだもん!」
 その言葉を聞いて、陽炎は木野宮の目の前に立った。そのまましゃがめば、また目が合う。木野宮きのりとは似つかない子供だと思った。彼はもっと冷静で、だけどどこか熱いものを秘めたような瞳をした男だった。対して、目の前の子供はその片鱗すらない。陽炎からすれば、ただ駄々をこねている子供に過ぎなかった。
 だが引っかかる。彼女の言葉はまるで、真実を知っている人間のそれだった。
「お前も知っていたんだな」
「…………」
「お前の父が、怪盗と手を組んで有名になったのだと、知っていたんだな?」
 木野宮は暴れるのをやめる。すんなり座り直して、小さく頷いた。
 思えば壱川が現れたときも、大して驚いている様子ではなかった。彼女は元から知っていたのだろう。自分の父親が、何をしていたのかを。
「わたし、お父さんに憧れたんだ。有名になる前からずっと、お父さんはかっこよくて、ずっとずっと大好きだった」
 大して贅沢な暮らしではなかった。だけど、木野宮自身は毎日幸せだった。父と食べるごはんも、その時に語られる仕事の話も。彼が愛読していた探偵の本も、事務所に向かうその背中も。
 木野宮きのみは父親を愛し、目指していた。心の底から、いつか自分も探偵になりたいとそう思っていたのだ。それで誰かを助けている父がとてつもなく好きだった。彼が利益よりも先に、人を大事にするのだと知っていたから。
 だけど、父はあまり家に帰らなくなった。その理由を知ったのは少し後だ。テレビを点けるとそこに父がいた。家に届いた新聞を見れば名探偵だと書かれていた。木野宮は誇らしかった。父がようやく世間に認められたのだ。木野宮にとって、父が名探偵であることなんてとっくのとうに当たり前のことだった。
 自分もいつか、彼の隣に並んで仕事がしたい。彼の背中を任せられるような探偵になりたい。そして父に、たくさん褒めてもらうのだと。
 ずっと、ずっと思っていた。ずっと描き続けていた。寝る前には毎日妄想した。親子探偵なんて言われて、テレビに出て、人をたくさん助けて、それから―――……
「そろそろ、潮時だと思うんだ」
 それは父の悲しそうな声だった。どうしてその日に限って、夜中に目が覚めたのかと自分で自分に怒りたくなった。
 ただの偶然だ。たまたま早い時間に寝て、たまたま途中で起きただけ。なんとなくお腹が空いて、でも眠たくて、それでも木野宮は何か食べることを選択した。リビングに行くと、まだ明かりがついている。きっと父がまだ起きているのだろうと思い、何か作ってほしいと甘えるつもりで木野宮はリビングに身を出した。
「……そうですね、俺もそう思います」
 知らない男の声。慌てて木野宮は身を隠す。こんな時間に人が来るところなんて見たことがないが、もしかしたらお客さんかもしれない。木野宮は息をひそめて、自室に帰ろうと足を伸ばす。
「君はこれからずっと、何も言わなくていい。例え今後何を聞かれても、何を言われても」
「……俺は、刑事になろうと思います。せめて、自分のしたことを少しでも償いたい」
「君らしいな。だが、いいのか? 普通に生きて、そのまま忘れてしまうこともできる」
「いえ、もう決めたことです」
 男もまた、悲しそうな声ではあった。二人が何の話をしているのかも、相手が誰なのかも木野宮にはわからない。だけど、どうしても好奇心がうずいてしまった。
 だから木野宮はその場にとどまった。もしかしたら、すごい事件の話が聞けるかもしれないと、ただの好奇心だけで。
「だが、気を付けてくれ。探偵と怪盗が組んでいたなんて知られたら、何を言われるかわからない」
「ええ、わかってます。だけど俺は貴方といたことは後悔してない」
「……後悔した方がいい。私たちがやったことは八百長のようなものだ。君と手を組んでいなければ、きっと私はこんなに有名になれなかった」
「そんなことは―――」
 木野宮の頭は真っ白になっていた。信じがたい内容を何度も何度も反芻して、それからその場に座り込んだ。
 探偵と怪盗が組んでいた?それは父と、あの男が?八百長とはなんだ?嘘を吐いていたのか?怪盗と組んだから有名になれた?どうして――――
 尽きない疑問に涙が零れた。そこにあるのは父が世間に嘘を吐いていたという事実だけだ。それから連日はテレビを観ることを辞めた。ニュースに映る父の姿が、どうにも嘘吐きに見えて仕方がない。ごはんを食べる時も、朝仕事に向かう時も。何もかも信じられなくなってしまった。
 だが、それでも。
 木野宮きのみは、父を嫌いになれなかった。なれるわけがなかった。テレビに映る前の父が、嘘であるはずなどなかった。テレビに出なくても、父は自分にとっての名探偵であったし、いつか自分もそうなりたいと強く思っていたことは本当なのだ。
 探偵に憧れていた。嘘をついていたとしても、父の姿はやはりかっこよかった。木野宮は父に怖くて何一つ聞けなかったが、憧れだけはずっと捨てずに胸に持っていた。
 探偵になりたい、と。最後に父と会話した時にハッキリと言った。証明したいと思った。父は嘘吐きではなく、本当にすごい探偵だったのだと。父を超える探偵になりたいと今まで以上に強く思った。それはきっと、父がすごい探偵だったという証明になるはずだと。彼が何を思い、何をしたかったのか。同じ立場で同じ景色を見て、その時にきちんと答えを出したいと。
「お父さんが嘘つきだったとしても」
 木野宮は立ち上がる。こんなところで止まっていられない。こんなことで、父を引きずり出そうなんておかしな話だ。彼は言った。木野宮きのみに、きっとお前なら、名探偵になれると。
「わたしの目標は変わらない。わたしはすごい探偵になる、それできっと―――」
 甘えているだけじゃだめだ。憧れているだけじゃだめだ。きっとそれだけでは、隣にすら並べない。
 見ているだけじゃだめだ。頼るだけじゃだめだ。こんな得体のしれない男を、父と対峙させることは許されない。何故ならそれは、それを成し遂げたいのは他の誰でもなく―――
「きっと、お父さんを超えるのはわたしだから!」
 陽炎が何か言うより速く、腹に向かって思い切り体当たりをする。身構えていなかったからか簡単に彼の身体は吹き飛んだが、木野宮も同じように床に倒れた。急いで体を起こして、逃げようとする。もともと扉はついていないから、あとは走るだけだ。木野宮は真っすぐに扉を見た。
 足がもつれる。だが必死に動かす。先の作戦があるわけではない。とにかくこの男を自分に引き付けて、走れるところまで走るのが目的だ。
 だが、扉を潜るより男が立ち上がる方が速かった。怒りに震えている男は、呻きながら大きく振りかぶって何かを投げつける。
 咄嗟に振り向いた。視界がナイフを捉える。勿論避けることなどできない。木野宮きのみは、常人を超えた身体能力も、便利なメカを作る知識も、逃げるための魔法のようなトリックも、何一つ持っていないただの少女だから。
 ナイフが突き刺さる。音もなく、まるで吸われるように。
 青い紙吹雪が舞う。花びらのようにも見えるそれが、部屋一面に舞い上がってゆっくりと散っていく。
 真っ黒に染め上げられたマントが翻る。深く被ったシルクハットの奥から、静かに目が開くのが見える。
 陽炎は知っていた。その姿を見たことがあった。何の脅威にも感じなかった、しかし忌々しいあの時の記憶に付随して襲い掛かるその正体を。
「言ったろ? 俺は身も心も怪盗だって」
 木野宮きのみの前に立つ、その男。過去、木野宮きのりの隣に立った、その男は。
「さあ、あの日果たせなかった挑戦を、もう一度受けてくれるか?」
「壱川遵……!」
 飄々とした表情で、受け止めたナイフを手の中で回して彼は笑った。

 

 

 

猫猫事件帖 最終章 そして怪盗はいなくなる 伍

 常盤社は静かに病室の扉を開けた。
 そこに眠る少女に、また新しい花を届けに来たのだ。彼女が目覚めたとき、飾られた花を見てきっと不機嫌そうな顔をすることだろう。想像すればなんとなく笑えてきて、常盤は口元を隠すように手を添えた。
「失礼します」
 言っても、返事は返ってこないだろう。今までもそうだった。この病院に通って数日が経つが、挨拶しようと世間話をしようと、憎まれ口は飛んでこない。
 もともと、常盤のことを時折無視する彼女だから、あまり変わらないかもしれないが。
 常盤は小さな花束を持って、彼女のベッドの周りにあるカーテンを開ける。
「おや」
 少し驚いたような顔をしてから、常盤は笑ってみせた。ベッドの上に座っている少女―――黒堂彰はいつもより一層不機嫌そうな顔をしている。
「……遅い」
「それは申し訳ありません。花を選んでいたら夕方になってしまいました」
「何その格好、変」
「病院に来るのに燕尾服では目立ってしまうでしょう。貴方がどこのお嬢さんなのかと噂されますよ」
 言って、常盤はベッドサイドに置いてある花瓶を手に取った。彰は未だに不機嫌そうな顔で、常盤から目を逸らしている。
「いつ起きたんです?」
「お昼。この後検査」
「そうですか。大事に至らなくてよかったですよ、本当に」
「うるさい」
 彼女が何に苛立っているのか、常盤にはわかる。襲撃を受けたこと、負傷したこと、今現在常盤が手配した病院の世話になっていること。きっとそのどれもが彼女をイラつかせているのだろう。
「どこの誰がやったかわかってるんでしょ?」
「ええ、一応」
「教えて。今すぐ殴りに行くから」
「まさか。もう少し安静にしていてください。せめて検査が終わるまでは」
「もう元気だから大丈夫だもん」
 拗ねたような言葉に小さく笑いながら、それでも頑なに彼は口を開かなかった。それ自体にも腹を立たせながら、彰は窓の外を見る。随分眠っていたらしい。起きてすぐにナースコールを押したら、医者が慌てて飛んできた。まるで彰をどこかの令嬢のように丁寧に扱う様子は、常盤がこの病院と繋がっているであろうことを示唆しているようで気分が悪い。
「……一発でいい」
「珍しいことを言いますね」
「いいからここから出して」
 彰が体を起こして常盤の胸倉を掴み、引っ張った。それでも尚余裕の笑みを浮かべる常盤の顔を睨み付ける。
「もう少し素直になれませんか?」
「……可愛くおねだりしろってこと? 趣味悪すぎて吐きそう」
「人にものを頼む時くらいは、もう少し可愛げがあった方がいいと思いますよ」
「…………」
 しばし視線がぶつかったまま、無言の時間が流れる。苛立ちを隠さないまま、彰は常盤の服を掴む手に力を込めた。
「連れ去って、簡単でしょ」
「行き先はどちらに?」
「決まってるじゃん、そんなの」
 彼女の目には、怒りが滲んでいる。珍しそうにそれを見つめても、いつものように視線を逸らされはしなかった。
「やられっぱなしなんて絶対に嫌」
 常盤は彼女の手を引いた。勿論、彼女を連れ去ることなど簡単だった。病院の後処理はまた後日すればいいだろう。余計なことを他言しないようにと医者にはきちんと言ってある。
 彼女を外に出すメリットはなかった。あと数日安静にしていれば、この件は別の人間の手で解決するだろう。
 わかっていて彼女に手を貸すのは、単なる気まぐれか、あるいは―――

 

 


 猫猫事件帖 そして怪盗はいなくなる

 

 


 木野宮邸で明乃が生活を始めてから、数日が経った。たまに元の家が恋しくなるものの、大した不満もなく毎日が楽しい。

 木野宮は学校を休んでいるし、東雲も怪盗業はお休みしている。毎日のようにお菓子を食べながらゲームをしたり本を読んだり、それぞれの時間を過ごしているものの木野宮の調子は悪くなるばかりだった。

 いつも通り楽しそうにしているかと思えば、ふとした瞬間にボーッとしたり、思い詰めるような顔をしたりする。見たことのない表情に焦るばかりで、精一杯励まそうと明乃は様々なことを彼女に提示した。

 それでも、彼女の気持ちは晴れないのだろう。詳しい事情はわからない、ただ、明乃はひたすらに彼女の元気がないことが辛くて堪らないだけだ。

 だから明乃は、思い切って東雲に言った。

「外に遊びに行きたい!」

「ダメに決まってんだろ」

「なんでえええーー!!」

 駄々をこねる明乃のことを全く見ずに、東雲は手元にあるメカをいじり続けている。勿論ダメだと言われることはわかっていたが、ここで折れるわけにもいかない。

「絶対絶対絶対絶対大丈夫だからーー!!」

「バカ、危ないってわかってんのに行かせるわけねーだろ」

「絶対守るもん!!だって、だってだって、だってぇ……」

「…………」

 東雲は困ったように頬をかく。勿論、明乃が言いたいこともわかっているつもりだ。

 日に日に木野宮の様子は落ち込んでいった。そんなことは、彼女のことをよく知らなくても見ていればわかる。それを何とかしようとするたびに、彼女が小さくしょぼくれていくことも。

 必要なのは気分転換だ。勿論わかっているが、外に出るという選択肢を許容はできない。今現在、買い物などは大人組がローテーションしてやっているものの、いつまでもこのままここで生活するわけにも行かないだろう。

 グス、と鼻をすする明乃にギョッとする。だが、慌てて駆け寄ろうとした瞬間にそれが嘘泣きであるとわかって、東雲はわなわなと震えた。

「お前なー……」

「えーん!だってだって!きのみちゃん可哀想なんだもん!学校も行けてないし、お外一回も出てないんだよお!? 気が滅入っちゃうよう!」

「……だからって危ないことには変わりねえだろ。仕方ねえんだよこういう時は」

 あーんあーんと喚きながら東雲の服を思い切り引っ張る明乃を何とか振り払おうとするが、明乃の腕力に敵うわけもなく東雲はひたすら耐える。

「仕方なくないもん!仕方なくないもんーー!!」

「ダメったらダメなんだよ!!お前出かけてる間瞬きせずにアイツのこと見てられんのかよ!」

「できるもん!!本気出したらそのくらいできるもんーー!!!」

「バカ!目乾いて死ぬわ!!」

 ひたすら攻防を続けていると、リビングの扉が開いた。買い出しに出た浅野が帰ってきたのかと思ってそちらを見るが、そこに立っているのは全く違う人物だ。

「……何してんのアンタたち」

「よお、ちょっとコイツ引き剥がすの手伝え!」

 扉から姿を現した女性、水守綾は手に持った紙袋をテーブルに置いて、それからソファに座った。どうやら助けてくれる気は一切ないらしい。

「プリン買ってきたから、みんなで食べて」

「プリン!?」

 バッ、と明乃が手を離す。当然東雲は床と衝突した。

「わーい!ありがとう水守さん!きのみちゃんもきっと喜ぶよ!」

「そう? なら良かった。ケーキと迷ったんだけどね」

「わーいわーい!私、冷蔵庫に入れてくるね!」

 明乃はそそくさと紙袋を持って、キッチンへ向かう。その背中を見ながら、東雲は強打した頭をさすりながら起き上がった。

「……んだよ、ったく。つーかお前、やっと顔出しやがったな」

「仕方ないじゃない、こんな時に限って仕事が立て込んでるの」

「まあ別にお前がいなくても大丈夫だけどな」

 ソファに座って膝を組みながら、東雲は大きな溜息を吐いた。

「そりゃそうでしょ、むしろこんだけいてなんかあったら大問題よ。……で、当の本人は?」

「今んとこは問題ない……って言いたいところなんだがな」

 テーブルに置いていたドライバーと作りかけのメカを手に取る。今東雲ができる暇潰しといえばこれくらいのものだが、彼にとっては十分すぎた。むしろこちらに集中できるから有難いとまで思う。

「あのガキ、あからさまに落ち込んでやがるんだよ。それで明乃が外に行ってリフレッシュしたいってしつけぇのなんの……」

「あら、いいじゃない。明乃ちゃんがいるなら大丈夫でしょ?」

「やっぱりそう思うよねー!!?」

 明乃は手にティーカップを持って帰ってきた。木野宮邸で使われていなかったものを、明乃が綺麗に拭いたものだ。中には紅茶とレモンが添えられている。

「はい!これ水守さんの分!」

「ありがとう……レモンティー好きなの覚えててくれたの?」

「うん!だっていつも紅茶飲んでるでしょ? 好きなんだろうなーって思ってたんだ!」

 ニコニコしながら明乃はティーカップの乗ったトレイを水守の前に出した。

「彼女、学校も休んでるんでしょ? そりゃ気も滅入るわね」

「だよねー!? 私もそう思うんだけど、宵一さん全然いいよって言ってくれないの!!」

「まあ、気持ちはわかるけど……」

 水守は紅茶を口に含む。いつも飲んでいる紅茶よりずいぶん美味しく感じるから、きっと明乃が上手いのだろう。

「流石に高校生の女の子を何日も監禁するのはねえ」

「監禁じゃねえだろ!!外に出てなんかあったら責任とれんのかよ!!」

「まあそりゃとれないけど。なんかあったらその時は全力で立ち向かうまでよ」

「お前なあ……」

 半ば呆れながら東雲がまたため息をつく。だが、東雲自身もよくわかっていた。彼女にリフレッシュが必要なことも、それを守るのは自分たちであるということも。

「……まあ、明るい内なら行けなくもないか?」

「ほんとお!?」

「ただし、三人以上で行くことと、昼のうちに行って明るいうちに帰ってくること」

「うんうん!!」

「あとそうだな、発信機は全員分付けさせろ、それと人が多いところで、あとはーーー……」

「もうわかったよー!気をつけたらいいんだよね!?」

 明乃が嬉しそうにぴょこぴょこ跳ねる。東雲は頬杖をついて、本当に大丈夫だろうかと不安になった。

「私きのみちゃんに言ってくるね!きっと喜ぶだろうなあ!どこ行こうかなあ!」

 言いながら明乃は急いで部屋の外へ消えて行った。早速木野宮に伝えて計画を立てるのだろう。

「……よかったの?」

「お前も賛成してたじゃねーか」

「まあ、そうだけど」

 水守は静かに思い出す。壱川が話していた陽炎という怪盗のことは、自宅で多少調べた。だが、殺傷事件なんて一つも出てこなかったし、あるのは数々の彼が盗んだ物についてと、熱狂的なファンやアンチの話ばかりだ。

「……変なこと聞くんだけど」

「あ?」

「アイツどうしてる?」

 アイツ?と東雲が首を傾げる。水守はしばし返事を待ったが、焦ったくなって口を開いた。

「遵よ、遵」

「ああ、あのバカ刑事のことか」

 相変わらずメカをいじりながら、東雲は言葉を探した。どうしてるも何も、彼はたまにここに帰ってきては見張りを代わってくれるくらいで、東雲と違ってずっとここにいるわけではない。

 浅野はできるだけいてくれてるが、深海もそうだ。勿論東雲は気にしていないし、たまに交代してくれるだけで十分助かっている。むしろ何か起きているわけでもないのに、よく足を運んでくれている方だと思う。

「そんなのお前の方が知ってんじゃねえのか?」

「知らないわよ、ずっと一緒にいるわけじゃないんだから」

「だとしてもお前が本人に聞けば済む話じゃねーか」

「まあ、そうなんだけど……」

 壱川の話を思い出す。彼が嬉々として怪盗に挑みたい、なんて思っているところは想像できないが、当時はそうだったと本人から聞いたのだ。今そうであるとは限らないが、また何か一人で無茶をしようとしているのではないかと勘繰ってしまう。

 流石にもうそんなことはないと信じたいが。

「……ま、いっか」

「なんだよ」

「いや別に? アタシが気にすることでもないなって思ってだけ」

 水守がソファから立ち上がる。

 彼がもしもまた挑みたいと言うのなら、それは彼自身の問題だ。ましてや怪盗業をしようと言うのなら、水守はそれを受け入れるつもりもない。あくまで水守は、刑事である壱川を助けているだけで、犯罪に片足を突っ込むなら辞めると最初から言ってある。

「ま、アタシもたまには来れると思うから。精々気張りなさいよ」

「言われなくてもそうしてら」

 彼が助けてくれと言うならまだしもーーー……

 水守は何となく想像した。

 それにしたって彼が怪盗のような格好をしているのが思い付かない。前に東雲がお下がりで着ていた服と壱川の顔を合体させようとするがどうにもうまくいかない。

「似合うような、似合わないような……」

 呟きながら水守は、木野宮邸を後にした。

 彼が怪盗に戻ると言ったなら、いつかその姿を拝める日が来るのだろうか。

 

 

 

* * *

 

 

 

 東雲から提示された条件はかなり多かった。

 明乃はそれを無碍にするわけでもなく、しっかりと頷いてしっかりと話を聞いてきた。勿論明乃だけではなく、同行する浅野と宮山も同じく話を真面目に聞いていた。

 全員が首に東雲が作った発信機ドコデモオシエル君十七号機から記念すべき二十号機をつけて、いよいよ街に出ることになる。

 木野宮は少しの間しょぼくれていたが、外に出て直接太陽を浴びると、みるみる元気になって行った。

「おっかいものー!おっかいものー!!」

 光合成でもしてるのだろうか。宮山は木野宮の帽子についている赤いリボンが久しぶりに動き回るのを見て、ふと思う。

「えへへ、きのみちゃん、クレープ食べよう!クレープ!!」

「クレープ!!二個食べてもいいかな!?」

「……いいんじゃない? たまには」

「やったーー!!!」

 久しぶりに元気な木野宮を見て、思わず笑みが溢れる。やはり彼女はこうでないと、こちらの調子も狂うというものだ。

 むしろ今まで何一つ気にしない素振りで元気だった方がおかしいのだが、それを考えるに今回はかなり精神的に辛いのだろう。

 なんせ、狙われているのは彼女、もしくは彼女の父親だ。しかもそのせいで友人たちが怪我をし、傷付いている。たった十七歳の子供が体験するにしては、あまりにも酷い話だと宮山は思った。

「ね!あのね!向こうにあるお店に行きたくてね!あっちの方がクリームいっぱいだから!」

「へーそうなのか!んじゃあオレも甘いやつ食べよっかなあ!」

「……ここ最近食べ過ぎじゃないです?」

「筋トレしてっから大丈夫!!」

 白い歯を見せながら浅野が笑う。宮山は走り出そうとする木野宮の首を掴んで、自分の方に引き戻した。

 危機感がないと指摘されたら、それはそうだ。宮山は実際に陽炎を見ていないし、起こっていることに現実感がなさすぎる。だが、東雲は怪我を負っていたし、彰は病室で意識を失ったままだった。

「…………」

 きっと、今まで起こったこと以上に警戒しなければならない。だが、宮山のような凡人に何ができるだろうか。

 以前、同じように木野宮が攫われかけた時だって、何にもできなかった。助けたのは東雲と明乃であり、二人が来なければ木野宮は簡単に連れ去られていただろう。

 もし、同じようなことが起きたとして。宮山はきっと何もできない。明乃のように体を自由自在に操れないし、浅野のように体力もパワーもない。何より人を傷つける度胸も、傷つく勇気も宮山にはなかった。

「みややまくん?」

「……ん?」

 考え事をしていたからか、木野宮が顔を覗き込んでいた。ようやく気付いた宮山は木野宮の帽子にぽすんと手を置く。

 彼女も、普通の女の子だった。いや、バカさ加減でいうと常軌を逸しているが、彼女にも人を傷つける度胸も、傷つく勇気もないはずだ。だから宮山が守っていかなければならない。大人である自分が。それは宮山自身の目標や夢よりも優先すべきことだと、今は強く思っている。

「まあまあそんな緊張すんなって」

 宮山の肩に、浅野が手を置いた。どうやら顔に出ていたらしい。

「こんな真っ昼間で人通りも多いんだ。そんな中で狙ってくるほど相手も馬鹿じゃねえだろうよ。宮山さんも疲れてるだろ? ちょっとはリフレッシュしようぜ」

「……ありがとう、浅野さん」

「いいんだよ!」

 浅野がそのまま肩を組んでくる。嫌とは言えず宮山の体は揺らされるが、気付けば木野宮が宮山よりも数歩先にいることに気付いた。彼女は空を見上げながら、軽く走っている。

 東雲からの注意の一つに、木野宮を挟んでできるだけ並んで歩けと言われている。宮山は木野宮を呼んだ。だが、彼女は止まらない。

 宮山の言うことを聞かなかったわけではない。声が届いていないわけでもない。

 後ろから追いかけようとしていた明乃も違和感に気づいた。彼女はどこかに向かっている。そんな直感に、宮山は思わず走り出した。

「ーーー木野宮!!」

 大きな声を出して、ようやく彼女は止まる。だが視線はまだ、空に向かっていた。不思議に思って宮山も、明乃も、浅野も空を見上げる。

 そこにあったのは、無数の紙切れ。小さなカードのようなものが、辺り一面に降り注ぐ。

 そんなおかしな光景が、普通であるわけがない。宮山は走り出す。それよりも速く明乃が駆け出したが、木野宮は逃げようとも、助けを求めようともしなかった。

「大丈夫」

 彼女がそう言ったような気がする。振り向いた彼女は真剣な表情で、宮山を見ていた。怯えることも、驚くこともせず。まるで最初からわかっていたかのように。

「きのみちゃん!!」

 明乃が手を伸ばす。同時に木野宮は無数の白い紙切れに包まれた。紙吹雪の中に手を入れ、明乃は指先で木野宮を探す。

 だが、そこに何もない。

 先ほどまでそこにいたはずの木野宮きのみが、まるで紙吹雪につれ攫われたかのように。

「…………きのみちゃ……」

 ゆっくりと、紙切れで作られた吹雪が去っていく。そしてそこにはやはり彼女の姿はなくーーー

 ただ大量の紙切れと小さなカードが、雪のようにアスファルトを埋め尽くしていた。

 

 

 

猫猫事件帖 最終章 そして怪盗はいなくなる 四

 


「…………」

「どうした? 京佑」

 手に持ったトランプと睨めっこしながら、浅野大洋は隣に座る深海京佑が物思いに耽っていることに気付いた。真剣にババ抜きをしているというよりは、心ここに在らずと言った雰囲気だ。

 宮山紅葉が浅野の手札から一枚トランプを引き抜く。見事にジョーカーを手にした宮山は、あからさまにショックそうな顔をして、それから何事もなかったかのように東雲宵一の方を向いた。

「……いや、遅いな、壱川さん」

「ん? そういやそうだな、っつっても仕事も忙しいだろうしなあ」

「ほっとけ、あんな奴。その内来るだろ」

 東雲は半ば呆れながら、宮山の手札から一枚引く。揃ったハートのキングをテーブルの上に捨てれば、東雲の手元からトランプはなくなった。

「おし、俺の勝ち」

「えーー!? またあ!? なあやっぱ大富豪とかにしようぜ!!」

「お前らが弱すぎんだろ。忘れんなよ? 負けた奴がコンビニに買い出しだからな」

 ニヤリと笑いながら東雲はソファの背もたれに体を預けた。交代で寝て、誰か一人ずつが起きているようにしようと提案したのは東雲だったが、存外ここには夜行性の人間が多い。結局誰も眠ることなく、深夜になってもまだトランプだなんだと全員で遊んでいる。

 そしてここに、壱川遵も混じる予定だ。仕事で遅れると連絡は来ているものの、時刻は午前一時を回っていた。

「刑事ってやっぱ大変なんかなあ」

「そうなんじゃないですか? 特に今はほら、通り魔事件もありますし」

 言いながら、宮山の手は震えている。もう深海と浅野の手札も残り少ない。だが、ジョーカーはまだ宮山の手元にあった。

「……まあ、あのヒゲ野郎なら大丈夫だろ。まあまあ強いぞ、うちの明乃ほどじゃねえが」

「そういえば壱川さんって元怪盗なんでしたっけ」

「え!? そうなの!?」

「…………」

 深海は黙ってカードを差し出した。浅野は大して考えもせずに一枚カードを引き抜く。

「おし、オレもあーがり!……で、壱川さんが怪盗だったってマジの話?」

「大マジだよ。今となっちゃそんな面影もねーけどな」

 不機嫌そうに東雲が言う。ここにいる中で、彼が怪盗であった時期を知っているのは東雲だけだ。それもまた、今からすれば最早懐かしい話だが。

「んじゃあきっと大丈夫だな。あの人デキる男って感じだし」

「そうですね、そんなに心配する必要もないかと思います」

 宮山が真剣にカードを見る。ここは逆にジョーカーを少しズラして取りやすい位置に置くことで、深海の裏をかこうと画策する。……が。

「俺はもう寝る」

 深海はアッサリとジョーカーではない方のカードを引いた。宮山の手元にはジョーカーだけが残り、東雲と浅野がやんややんやとヤジを飛ばす。

「明日大学だったか?」

「ああ、夕方には帰ってくる」

「そっか!んじゃ行こうぜ宮山さん、コンビニ」

「え? でも……」

「こんな時に一人で外なんて行かせるわけねーだろ!な、行こうぜ。東雲センパイは何飲みてえんだっけ!」

「コーラ、あとチータラ」

 深海が最初に席を立つ。東雲はじっとそれを見ていたが、何も言わずに彼を見送った。

 次いで浅野と宮山も、コンビニに行くために外に出る準備をする。

「気を付けろよ」

「大丈夫大丈夫!な、宮山さん!!」

「まあ……多分……」

 言って二人も部屋から出て行った。取り残された東雲は急激に静かになった部屋で、体の力を抜く。

 あまり難しいことは考えないようにと思っていた。木野宮きのみに何があろうと、自分には関係ない。ただ、知り合いのよしみと、彼女に何かあっては明乃が悲しむだろうと、ただそれだけだ。

「…………」

 ただ、それだけなのだが。

 

 

 

 


 猫猫事件帖 そして怪盗はいなくなる

 

 

 

 


「お前のことは覚えているぞ」

「それは光栄だな」

 壱川遵は、木野宮を背中側に回して男を見た。正直半信半疑ではあったのだ。なんせ、件の怪盗、陽炎は壱川の目の前で捕らえられている。

 それはかつて壱川が激しく憧れと好奇心を向けた男とは思えなかった。だが、脳裏に焼き付いている彼の姿そのままでもある。

 頭のてっぺんから、爪先まで真っ黒に染まった衣装。肌を見せないために巻いた包帯と、不気味にこちらを見据えてくる目。

 なんとか出し抜いてやろうと思って、まるで手が届かなかったあの怪盗が、また目の前にいる。

「あの時、邪魔をしようとしてきた小僧だな?」

「本当に覚えてるのか、すごいな」

「忘れるわけがない。あの日のことはーーー……」

 そりゃあそうだろう、と壱川は笑う。壱川が陽炎を出し抜いてやろうと考えたあの日、確かに壱川は目の前の男に簡単にあしらわれ、邪魔をするどころか手を伸ばすことすら許されなかった。

 だが、その日はそれだけじゃない。今となっては伝説の名探偵、木野宮きのりが、この男を捕まえた日でもある。

 当時まだ名を馳せていなかった彼は名前や写真こそ載らなかったものの、陽炎捕縛のニュースはかなり世間を賑わせた。盗品の数も、得体の知れなさも、当時で言えば彼がズバ抜けていたからだ。真似をする人間も、支持する人間もいた。逆に躍起になって捕まえようとする輩もいたし、警察もかなり手を焼いていたらしい。

「お前のことは調べた……今は刑事になっているらしいな」

「そんなことまで知ってくれているのか? 勝手に調べられるのは嫌な気分だ」

「怪盗には飽きたのか? それとも怖気付いたか?」

 煽るような言葉に壱川は何も返さない。陽炎の目が憎悪と怒りに染まっていくのを、ただ冷たく見ている。

「お前が何になろうと、俺には関係のないことだ。だが……」

 ゆらりと影が揺れる。それは怪盗というより、何か得体の知れない不気味な生き物のように見える。

「そのガキは知っているのか? お前とあの男が、手を組んで同志達を捕まえていたことを」

 壱川の顔が曇った。木野宮はこっそり壱川の背中から陽炎を覗いている。

 そんなことまで知っているのか、と。口から出そうになるが一度耐える。木野宮の前で話すべきことではないと、強く思ったからだ。

 いや、だが既に彼女は知っている。木野宮きのりが探偵として名を馳せる裏側で、怪盗と手を組んでいたことを。そしてその相手が、壱川であることを。

 少なくとも、怪盗の暗黙のルールに則るならそれはタブーも甚だしいことだった。勿論、世間にバレても相当なバッシングを受けるだろう。壱川がしていたことといえば、怪盗という立場からのアドバイスと、怪盗を実際に追い詰める役割や、捕縛することだ。どれをとったとしても、あの名探偵が怪盗と手を結んでいたと知られるだけで相当な反応があるはずだ。

 娘であるきのみも、それを知ったのなら相当なショックを受けたことだろう。

「お前は何がしたい? 目立ちたいわけでもなく、怪盗を捨て、刑事になり、それでお前に今何が残っている?」

 掠れた声が壱川を責める。壱川は誰にも答えられない。

「我々からすればお前はただの裏切り者だ」

「俺は今も、身も心も怪盗のつもりだよ」

「なら何故怪盗であることを捨てた?」

 答えられるわけがない。自分の中にある数多の言い訳と答えが混じって、すべて溶けて消えていく。そこに対する正しい答えを、壱川は未だ出せていない。

 誰かが傷付くのが嫌だった。少なくとも、目の前で人が死ぬようなことは。だが世間はそんな壱川の考えと反してより過激に、より熱心になっていく。それが怖かった。いつか必ず報いを受ける日が来ると思った。自分の行動のせいで誰かが傷付き、誰かが悲しむことなど容易に想像できた。

「お前のような男が存在していること自体が、不都合だ、認められない」

 陽炎は熱を帯びた声色で言った。全身にその拒絶を浴びて、壱川は苦い顔をする。影は踵を翻し、闇夜に消えようと揺めき始める。

「必ず木野宮きのりを引き摺り出す。そのために、またお前を狙いに来る」

 宣戦布告を受けて、木野宮は壱川のコートを強く握りしめた。同時に陽炎は大きく揺めき、忽然と姿を消す。

 静かになった夜道で二人は、まだ男が立っていたその場所を見つめていた。

「…………家に東雲君達がいるんじゃなかったか?」

 先に口を開いたのは壱川だ。木野宮は彼を見上げて、こくこくと頷いた。

「窓から出てきちゃった!」

「危ないだろ? 狙われてるのは君なんだから」

「…………うん」

 木野宮は大人しく頷く。困ったように壱川はため息を吐いたが、同時に安堵もあった。

「……帰ろうか。大丈夫、君がこっそり抜け出したことは内緒にするよ。でももう二度としないこと、いいな?」

「うん!」

 そうして二人は帰路に着いた。道中、木野宮が晩御飯をみんなで食べた話やお菓子を作った話を楽しそうに壱川に語った。

 お互い、本当に話すべきことは何も話さなかった。きっと、聞きたいことも、話さなければいけないこともあった。だが今は、二人ともがそれを避けるように、何もなかったかのように日常に帰っていく。

 

 

 

* * *

 

 

 

「おー!おかえり壱川さん!!」

「よお、遅かったな」

「お疲れ様です、おかえりなさい壱川さん」

 なんだか妙な気分だった。木野宮が梯子を登って窓から自室に入ったのを見届けてから、壱川は正面の玄関から木野宮邸に入った。

 リビングでトランプに励む東雲、宮山、浅野はテーブルに広げたお菓子やらジュースやらを手にしながら楽しそうにしている。

「…………」

「どうしました?」

「ああ、いや……」

 おかえり、なんて言葉を聞くのはいつぶりだろうか。なんだかくすぐったいような、変に照れ臭いに気持ちになって、壱川は誤魔化すように咳払いをした。

「ただいま、遅くなってすまない」

「いやいや、マジで仕事ご苦労さん」

「やっぱり忙しいですか?」

「まあね、色々立て込んではいるかな」

 浅野がバシバシとソファの空いた席を叩くので、コートも脱がずに座る。一度体から力を抜けば、ドッと疲労感が襲ってきた。

「あ、壱川さん飯食う? 簡単なんでよかったら作れるぜ」

「いや……今日は大丈夫」

「あ? いいからなんか食っとけよ。そんで疲れてんなら今日は寝ろ」

「いやいや、みんな起きてるのに俺だけ寝るってのも気が引けるし」

「うるせえな、俺たちは暇してるからいいんだよ。お前明日も仕事あんだろ」

 東雲が自分の手札を並び替えながら、壱川にそう言った。どうやらみんなで大富豪をしているるしい。

「そういや、水守さんには声かけなかったのか?」

「いや、一応かけてみたけど仕事が立て込んでるみたいで……まあ、気をつけるようには言っておいたよ」

「おーそっか、水守さんとも大富豪でバトルしたかったぜ」

 手渡されたコーヒー牛乳を開けながら、壱川は天井を見上げた。口に入れると、久しぶりに感じる甘さに気持ちが落ち着く。こんなに甘いものを口に入れたのは本当に久しぶりだった。

「そんで、なんかわかったのかよ」

 相変わらず目線の先はトランプだが、東雲は淡々とした口調で聞いた。壱川は何から話し始めようか迷ったが、今はそれを精査できるほど脳が回転していない。

「東雲君のいう通り、陽炎で間違いなかったよ」

「本当ですか?」

 食い付いてきたのは宮山だ。なんだか彼だけどこか嬉しそうにも見える。

「なんでそれがわかんだよ、本当に本人か? あんだけ騒がれてたんだ、模倣犯って可能性も十分あるだろ」

「……あー、それは……」

 隣に座る浅野の手札を見る。真剣に何を出すか考えているようで、壱川は思わずその中から一枚のカードをちょいちょい、と指先で突いた。

「さっき本人に会った」

「はあ!!?」

 東雲の大きな声に、一同が驚いて彼の方を見る。勿論浅野や宮山も驚いてはいたが。

「いや、まあいい。とりあえず突っ込まねえ、俺も会ったからな。でもなんで会って本人だって確証があんだよ、あんな格好じゃ写真と比べても本物かどうかなんて……」

「いや、前に会ったことがあって」

「ハア!!!!???」

「ぜひ詳しく聞いてもいいですか?」

「おいバカオタクは引っ込んでろ!!」

 ヘラリと笑う壱川に、東雲は一瞬次の言葉を失った。それが彼の過去に繋がることなのであれば、この場で言わせるべきか迷ったのだ。

 なんせそれは、木野宮きのりに関することに違いない。東雲の隣にいる男、宮山紅葉はその木野宮きのりから仕事を受けているようなものだ。どこまで突っ込んで話していいのかわからない。

「まあ、会ったことあるって言っても本当にちょっとだけね」

「ていうか、怪我とかしてないですか?」

「ん、ああ、大丈夫。案外すんなり引いてくれたから」

 どうして、とは言わなかった。彼の目的が木野宮きのみであり、応戦が来たから引いたであろうことを話せば、木野宮と内緒にすると約束したことを破ることになる。

「いやあ、散々な言われようだったよ」

「それって、壱川さんが怪盗やってたって話か? ……ってのをさっき東雲センパイから聞いたんだけどさ」

「ああ、そうだね。まあ俺も若かったからなあ」

 それだけじゃないだろ、と東雲は思わず突っ込みたくなった。が、詳しいことを浅野に話したところでなんの意味もないだろう。東雲は減っていくカードを見ながら次の手を考える。

「……やっぱり俺って、君らから見てもおかしいか?」

「? 刑事をしてることがですか?」

「うん、まあ……そうだね」

 東雲は知っていた。壱川がなぜその道を選んだのか。それを東雲の口から語る必要もないと思いつつも、彼が何に悩んでいるのかもなんとなく察しがついた。

「立派だと思います。少なくとも、それで助かってる人がいる。壱川さんが選んだ道なら、それでいいと思いますけど」

「オレもそう思うぜ、刑事なんてすげえよ、マジで。ちゃんと目標があってそうなったんだろ?」

「はは、ありがとう。……でもまあ」

 褒められたことではないのだ。少しでも罪が償えればと思った。少しでも傷を負う人間が減ればいいと、そう思った。だけど裏切り者だと言われてしまえばそれで終わりだ。そこに壱川はなんの反論もできない。

 怪盗という立場で、怪盗を捕まえることに貢献した。今度は刑事という立場からそれを守ろうとしている。だけど彼らは何度も壱川を裏切り者と言った。壱川がどれだけ自分は怪盗で、同志の味方だと今更言ってももう遅い。

 それは東雲が一番わかっていることだろう。視線を向けると、目が合った。相変わらず、東雲は興味なさそうな顔をしている。

「お前が結局何したいのかによるだろ、んなもん」

 カードをテーブルに置きながら、東雲が言う。

「お前が自分をまだ怪盗だって言うのはなんでだ? お前が未だになりたいのが怪盗だってんなら、おかしい話だとは思うが」

「…………」

「やめたいならやめりゃいい。アンタなら今から怪盗に戻っても十分やっていけんだろ」

「そうかな」

「未練があんだろ」

 その一言は、壱川に深く突き刺さった。怪盗になりたいかと聞かれて、イエスもノーもどちらもしっくりと来ない。今更またあの衣装に袖を通して、無茶をしたいと思うわけではないからだ。

 だがたしかにノーとも言えない。あの時感じていた好奇心と興奮を、未だに忘れられていないのも事実だ。

 だが、やりたいことを聞かれると困る。やりたいことなんて明確だ。人が傷付かないように、ただそれだけだ。その選択肢として刑事になる道を選んだが、壱川にはそれが正しかったのかわからない。

「…………そうかもなあ」

 壱川は頬杖をついた。自分のことがこんなにもわからない。ただ、思い描いた理想に少しでも追いつけたらと思ってここまで走ってきたのにだ。

 考えることをやめてしまったのか、もしくは考えたくないと自分で蓋をしているのか。

 考えながらゆっくりと瞬きをする。視界の端に写った時計は、既に午前二時を指し示していた。

 

 

 

猫猫事件帖 最終章 そして怪盗はいなくなる 参

 

 東雲宵一は心底苦い顔をしていた。
 高校生の時から一人暮らしを始めたから、家が静かであることにはもう慣れていた。ある日明乃と出会って、共に生活をするようになってから多少騒がしくなったものの、最近ではよく出かけるから部屋が静かな日もよくある。
 明乃一人くらいであれば、騒いでいても気にはならなかった。勿論怪盗なんてしているものだから家に人を招くこともない。一般人を招こうものなら、何かの間違いで盗んだ物を見られてしまえば一発アウトだ。
 そんな生活を送ってきたから、東雲はあまりにも騒がしい環境であることに苦い顔をしていた。必要なものは全て持ってきていると言えど、ゆっくりメカをいじるほど落ち着けないし、パソコンをいじるにしてもうるさくて集中できやしない。
「明乃ちゃんのご飯美味しい!!すっごく美味しい!!」
「えへへへ、良かったあ!これ結構練習したやつだけどちょっと緊張しちゃった」
「いや、ほんとに美味しいよ。お店開けそうだ」
「えへへへへへ、そんなあ、それほどでもお」 
「美味いな」
「うんうん、めちゃくちゃ美味い!!すげえ美味い!!人の作る飯ってなんでこんなに美味ぇかなーー!!」
「えへへへへへへへ」
「おかわりいただけるだろうか!!」
「勿論だよ!よそってくるね!いっぱい食べてね!!」
「お、オレもおかわりしたいからオレが行くぜ!」
「じゃあ私お茶持ってくるね!」
 食卓が賑やかなのはいいことだ。明乃も楽しそうだし、ご飯もいつも通り美味しい。
 東雲はもくもくと食べながら、木野宮邸で少しずつ溜まるストレスをなんとか精算しようとさまざまなことに思いを馳せる。
「あーー!!宵一さんまたトマト残そうとしてる!ダメだよう、いっぱい食べないと大きくなれないよう!!」
「うるせー、トマト出すなっていつも言ってんだろうが」
「宵一氏、好き嫌いはいけませんぞ!!」
「そうだよ東雲君、頑張って一口食べてよう」
「なんだ、その歳になってまだ好き嫌いか、アンタ」
「おいおい、うちの京佑は出されたものなんでも食べるぜ? ピーマン以外」
「ちゃんと食べやすいように味付けしてあるよ? いっぱい食べないと大きくなれないよ?」
「…………あーー!!もううるせーーー!!!!」
 東雲宵一は吠えた。これがあと何日も続くと思うと、頭を抱えたくもなる。

 


 猫猫事件帖 そして怪盗はいなくなる

 

 


 壱川から連絡を受けた東雲は、そのまま明乃を連れて木野宮邸に向かった。話は途中で終わったが、陽炎と呼ばれる怪盗が木野宮きのみを狙っていることくらいは察しがついた。
 明乃が当時新聞やニュースを見ていたかわからなかったから軽く説明したが、彼、もしくは彼女は案の定陽炎についてまったく知らなかった。
 木野宮邸に着き、東雲は二人にきちんと説明をした。どうやら木野宮きのみが狙われていること。その犯人は陽炎と呼ばれる人物であろうこと。その人物を知っていたのは宮山だけだったが、話がわかるなら十分だ。重い空気に包まれた居間には、静寂が漂っていた。
「……じゃあ」
 最初に口を開いたのは、木野宮だった。あからさまにいつもと違う声色に、宮山も明乃も困った顔をしていた。
「……彰ちゃんが入院してるのも、わたしのせい……?」
 宮山が急いで口を開こうとするが、何も言葉が出てこない。本当のことはわからない、ただその可能性が高すぎることくらいは、木野宮も理解していただろう。明乃はぎゅっと膝の上で拳を握った。友達が傷ついている時にかける言葉がわからなかった。だが、わからないなりに何かを必死に考えているようにも見える。
「いいか、お前がやるべきことは自分の身を守ることだけだ」
 東雲だけは表情を変えず、じっと木野宮を見据えていた。傷付けようとも思わないが、甘やかす気もなかった。
 だが東雲は知っている。陽炎が誰の手によって捕まえられたのか。宮山も勿論知っているだろう。つまり、奴の狙いが木野宮きのみではなく、木野宮きのりにあることも。
「怪我した事実は変わんねえし、泣こうが喚こうが時間は戻らねえ。わかるな?」
「……うん」
 小さく木野宮が頷く。本当に小さく、だが悔しさや悲しさで口元をぎゅっと結んで。
「でもこれでお前までどうにかなっちまったら、それこそ思う壺なんだよ。だから俺らはここに来た。おい明乃」
「えっ、あ、はい!」
「お泊まりを許可する」
「ええ!? あ、ええー!? いいの!?」
「ああ、当分ここに泊まる」
「ええ、えっと、でも、宮山さんとかって、その」
 その、あのう、と明乃が言葉を選んでいる。宮山は一瞬呆然としていたが、すぐに言葉の意味を理解して口を開いた。
「むしろ助かるよ。俺たちだけじゃ不安で夜も眠れないし。……ね、きのちゃん」
「……おとまり?」
「うん、明乃ちゃんが当分泊まってくれるって」
「…………ほんと?」
 顔は俯いたまま、木野宮がちらりと明乃の方を見る。明乃は必死に首を上下に振って、うんうんうんうんと何度も頷いた。
「私、ご飯作れるよ!お洗濯とかもできるし……お菓子も作れるし!そうだ、浅野さんたちも呼んで、お菓子作りとかもしよう!」
 それは、明乃の精一杯の励ましだった。それで木野宮が少しでも笑顔になればいいと、心の底からそう思ったのだ。
「……だから、お泊まりしてもいいかな?」
 ソファに座る木野宮の前で膝をつく。優しく手を握れば、いつも通り子供のように熱い体温が伝わってきた。
「……うん、お泊まりしたい!お菓子も作りたい!」
 木野宮がようやく顔を上げる。誰よりも宮山がホッとした顔を見せるが、明乃も同じくホッとして笑顔を見せた。
「何かあったら絶対守るからね!それに、私もお泊まりすっごく嬉しいから、いっぱい遊ぼうね!」
「うん!ご飯も楽しみ!!」
「何食べたい? なんでも作っちゃうよー!」
「唐揚げ!!唐揚げ食べたい!!」
「えへへ、それじゃ買い物行かなきゃねー」
「丁度いい、お前ら二人で買い物行ってこい、財布渡すから」
「はーーい!お菓子も買ってもいいですか!」
「……あんま無駄遣いすんなよ」
 ぽいっと投げられた財布を明乃がキャッチする。わーいわーいと手を合わせて喜ぶ二人は、早速買い物に行こうと手を繋いで部屋から出て行った。少なくとも明乃が一緒であれば、退けることくらいは容易だろう。
 東雲は溜息を吐いてソファに身を投げる。既に疲れたが、この後家から必要な物を持ってこなくてはならない。
「……急に悪かったな」
「いや、助かったよ。……ほんとに」
 宮山は、何かを考えているようだった。きっと木野宮のことを案じているのだろうが、東雲には関係のない話だ。
「お前も知ってんだろ」
「……ん? ああ、陽炎のこと?」
「ああ」
「まあ……当時木野宮さんもそんなに有名じゃなかったから、新聞とかに名前が載ってたわけじゃないけど、ファンの間では有名な話だよね。……もしかして東雲君も……ファンなのか?」
「いや違えよ!!怪盗なんだからファンとかあるわけねえだろ!!」
「いや、逆にファンだから対峙したくてとかあるのかなって思って……」
「発想がキメェんだよオタクの!!昔調べたらたまたま出てきただけだ!!」
 まったく、と東雲は脚を組もうとするが、痛みが走って不自然な動きになる。負傷した腕とは別に、昔に負った傷が今更痛む。
「案の定、木野宮きのりへの復讐だとかそういうのだろ。その張本人はどこにいるんだよ」
「……それは」
「? 家族なんだろ?」
 宮山は口をつぐんだ。知っているとしか思えない態度だが、東雲はそれを追求しない。この広い別荘のような家にはどうやらいないらしい。
「連絡したところで、すぐには来れない。と思う。正直あんまり詳しくは知らない」
「……怪しいな」
「いや、ほんとだよ。途中まで二人とも一緒に住んでたんだけど……」
 そう、最初は宮山がこの家に通う形だった。木野宮きのりは、たしかに娘のきのみと住んでいた。だがある日忽然と姿を消した……というわけでもなく、宮山にここのゲストルームを貸すから、代わりに木野宮の面倒を見てくれと頼まれたのだ。
「だから普段は俺が一階、木野宮が二階、みたいな感じで住んでるんだけど……ご飯だけはいつも一緒に食べてる感じかな。風呂とかトイレも別々だし」
「無駄に広い家だとは思ってたが、そんなんまであんのかよ。で? 張本人はどこに行くって?」
「いや、それが……」
 勿論、宮山も聞いた。いつ帰ってくるのか、どこに行くのか。
 木野宮きのりは答えなかった。遠くで、当分帰れない。だからその間木野宮を守ってほしい、彼女を支えてあげてほしい、と。
 最初は娘を心底甘やかす父親という印象だった。だがどうやら彼にも事情があるのだと伝わってきて、宮山は何も言わなかった。既に木野宮きのりとも、きのみとも短くはない付き合いになっていたからだ。
 彼が宮山を信頼してくれていることはわかっていたし、宮山もそれに応えたいと思った。
「つまり……マジでいねえってことかよ」
「そうなるね」
「じゃあどうすんだよ、どう考えたってアイツは木野宮きのり目当てだろ……って、まあいいか、ぶっ飛ばして縛ってまた牢屋にぶち込んでやる」
「……怪盗は同業者を売らないんじゃなかったか?」
「バーカ、んなもん向こうから喧嘩ふっかけてきて殺されかけたんだから通用するわけねーだろ。先にルールを破ったのはあっちだ」
 東雲は頭の片隅で、あの有名な探偵のことを考える。わからないことも、知らないことも多すぎる。だが、その余波を受けている木野宮きのみには少し同情した。
 彼女はこういうことがあるかもしれないということを、わかっていたのだろうか。
「とにかく、当分ここに住まわせてもらうからには家にも色々仕掛けさせてもらうぞ」
「いいけど爆発とかはやめてね」
「俺のことなんだと思ってんだよ!しねえよ人ん家にそんなこと!!」
「でも廃墟とか爆破させてたし……」
 ぎくりとして、東雲は誤魔化すように視線を逸らす。宮山は呆れたような顔で彼を見ていたが、次第に気持ちが落ち着いていることに気付いた。
「当分、よろしくお願いします。……俺はそういう襲撃とかあった時、何もできないと思うんで」
「おう、わかってる」
 こうして東雲たちが、木野宮邸で数日を過ごすことになった。
 宮山は木野宮きのみの心中を思い、しばし黙っていたがーーー……やはり同時に、自分がここにいれる理由を、何よりも憧れていた彼の存在を、思い出しす。
 彼はいったい今、どこにいて何をしているのか。
 わからない以上、宮山もここから逃げるわけには絶対に行かなかった。いや、わかるとしても絶対に逃げないだろう。
 宮山にとって、この場所は最も自分の目標に近い場所であり―――今となっては、それだけでは説明のつかない場所だから。


 * * *


 スマートフォンの明かりが、暗い夜道で深海京佑の顔を照らす。等間隔で並んでいる街灯の下をできるだけ歩きながら、深海は昔のネットニュースや掲示板を見ながら歩いていた。
 陽炎、と聞いて思い出したのは父のことだ。当時、やたらと父が忙しそうにしていてなかなか家に帰ってこなかったのを覚えている。同時にニュースで陽炎関連のことを騒がれていたから、なんとなく紐づいて覚えていた。浅野大洋もなんとなく覚えはあったらしく、先日助けた東雲宵一から説明された時は驚いているようなそぶりを見せていた。もしかしたら、過去の仕事で繋がりがあったのかはしれないが詮索はしなかった。
 ふと振り返るが、浅野はいない。一緒に買い出しに来たものの、途中で買い忘れがあると言って彼だけスーパーに戻って行ったのだ。浅野には強く一緒に来いと言われたが、深海はそれを拒否した。目的地がすぐそこだったこともあるし、何かあっても浅野が飛んでくるだろうという直観があった。
 もしも今襲撃されたら、という考えは頭に浮かぶ。この道をずっと真っすぐ行けば、先日東雲を助けた場所になる。だが不思議と怖くはなかった。その瞬間までは―――
「こんな夜に、一人で出歩くのは感心しませんね」
 不穏。
 それは、不穏と言わざるを得ない風。
 身に覚えのない感覚。今ここで、ただ立っているだけで存在感を放つ異常な存在。目的地に向かおうと前を向いた瞬間に現れた影は、深海に話しかけている。
 コツコツと、ゆっくり地面を踏む音。同時に影は、己の真っ白な姿を深海の瞳に映し出した。
「ご存じありませんか。最近この辺りで起きている事件を」
 その影、常盤社。真っ白な髪に、真っ白な燕尾服。夜を歩くにしてはあまりにも目立つのに、あまりに堂々と、あまりにも当たり前かのように影はそこに立っている。
「……誰だ、お前」
 深海は自分の額に汗が浮かんでいることにも、鼓動が速まっていることにも気付いていた。だがそれがなぜなのかはわからない。目の前の存在が、そこにいるだけで自分を圧倒しているという現象に脳の思考が追いつかない。常盤は柔和な笑みを浮かべて、深海の目の前に現れた。
「いえ、怪しい影が通るのを見かけたものでしたから」
「それはお前のことか?」
「ふふ、そうですね。十分私も怪しいでしょう」
「俺に何か用か?」
「いいえ? 言ったでしょう、怪しい影が通るのを見かけたのだと―――」
 常盤は変わらず笑顔で、深海の顔を見ている。深海も視線を逸らさないが、じっと彼を見れば見るほど操られてしまうのではないかと思ってしまう。
 だが不思議と脳は冷静だった。目の前の男は、先日会った陽炎とは似ても似つかない。他の目的があるのだとしても、そのうち浅野が飛んでくるから時間を稼げば何とかなるはずだ。
 深海も何でも屋なんていう仕事をしている以上、危険と隣り合わせになることはわかっていた。できるだけそのリスクを削ってきたつもりだが、いつかは危険な目に遭うだろうということも理解していた。
 だから浅野大洋がいる。
 絶対に自分にはできないことを、ありえないパワーでやってのける存在が。深海は無意識に後ろに神経を集中させていた。速く来い、と頭の中で呟く。
「そう警戒しないでくださいよ。これは先日の恩返しです」
「先日?」
「ええ、どうも知り合いが世話になったようでしたから」
 深海は考える。だが、いったい何のことを言っているのか見当もつかない。
「私に貴方と敵対するつもりはありません。今のところは、ね」
「だったら何の用があって―――」
「私、常盤社と申します。どうぞお見知りおきを―――」
「おーーい!京佑ぇ!」
 急いで振り返る。それは確かに、浅野の声だった。まだ姿は見えてないが、走って追いかけてきたらしい。
 大洋、と。口を開こうとした途端に、体に纏わりついていた不穏な風が消える。ふと視線を戻すと、そこにいたはずの常盤社は元から何もなかったかのように消えていた。
「一人で行ったら危ないって!なんもなかったか!?」
「いや―――……」
 今起きたことを伝えようか迷う。しかし結局深海は口を閉ざした。
 今この場にいた存在を、この場の空気を、あの異様な光景を伝える術がない。少なくとも言葉では、何一つ伝わらないまま終わるだろう。
「なんだ、汗かいてんのか? 今日そんな暑ィかなーーー」
「……別になんでもない、行くぞ」
「おー!チビどもが待ってるしな!!今日は泊まってっていいって言ってたぜ!」
「何作るんだ?」
「チーズケーキ!!きのみちゃんが好きなんだと、やっぱ元気ねえって明乃ちゃんが電話で言ってたよ」
 二人は既に、あらかたの事情は東雲から聴いていた。その上で、明乃から急に電話がかかってきたのだ。
 木野宮の元気がないから、どうにか元気づけてあげたい。一緒にお菓子を作りませんか。なんて可愛いことを言うものだから、浅野は考えなしに二つ返事で了承した。
 だから今日はこのまま、木野宮邸に向かってお菓子作りをする予定だ。
「いいな、チーズケーキ」
「あとモンブランも作りてえってんで色々買っちまったよ!まあ楽しみにしとけよ……って、京佑?」
「なんだ」
 浅野が深海の顔を覗き込む。深海は足を止めずに、スタスタと歩くのをやめない。
「大丈夫か? 顔色悪いぞ」
「平気だ」
「体調悪いのか? なんだったら今日は断って―――」
「いや、なんでもない」
 言って、素知らぬ顔をしつつも深海はわかっていた。まだ体に少しだけ残る異様な空気に酔っている。まるで自分が見たことがないような存在に、ずっと心臓を掴まれているような。
 浅野が来たとして、戦って勝てたのだろうか。いつもなら容易に描けるはずのビジョンが、まったく頭に浮かばない。
 深海はできるだけ考えないようにした。アレが何であったのか―――一体、何をしに来たのか。常盤社。その名前を何度も頭の中で反芻しているうちに、気付けば二人は木野宮邸の前にたどり着いていた。

 

 * * *


 深夜一時。あんなに賑やかだったのが嘘のように木野宮邸は静かになっていた。
 ベッドの中で木野宮きのみは思い出す。あんなに大人数で食べるごはんは久しぶりだった。唐揚げは美味しかったし、作ったケーキも美味しかった。明日になれば、まだ寝かしているチーズケーキだってある。
 考えると自然と笑顔になった。大好きな人たちと同じ屋根の下で生活できるなんて、なんて嬉しいんだろう。まるで修学旅行のような気持ちになって木野宮の心は踊る。
 結局、寝るのはいつも通り一人にすることにした。大人たちはまだ起きていて、できるだけ一人は起きているから何かあれば声をかけていいと言われている。相棒のクマのぬいぐるみを抱き締めて、木野宮は目を閉じる。
 だが、目を閉じて眠ろうとすると、静かであることが気になった。脳裏に彰の姿が思い浮かぶ。彼女が病院で横たわる姿も、学校の友達が怪我したことも、東雲がたまに腕を上げると痛そうに顔を歪めるのも、すべて脳に焼き付いて離れない。
「……お父さん」
 自然と呟いていた。大好きだった父。いつも優しくて、仕事熱心で、木野宮に仕事の話を聞かせてくれた。
 宮山がここに住む前までは、忙しくて家にいない時間も多かったが。それでも父は木野宮に丁寧に接してくれた。できるだけ時間を作り、それでもたまに申し訳なさそうに笑うのだ。
 木野宮はベッドから起き上がった。壁にかけているチェック柄の帽子とポンチョをとる。これも父がプレゼントしてくれたものだ。いつも探偵ごっこをする木野宮に、ある日特注で作ったのだと言って贈ってくれた大切なもの。
 パジャマの上から帽子とポンチョを羽織る。自室にある全身鏡に映る自分は、なんとなく不格好だ。とても名探偵には見えない。
「やはり女子高生探偵として制服は必須……!」
 夜中であるにも関わらず、木野宮は制服に袖を通した。そしてまたポンチョを羽織る。いつも通りの自分が、鏡に映っているのを見ると安心する。
「やはりこれですな!」
 腰に手を当てて自慢げに独り言を呟いた。当たり前だが返事はない。
「…………」
 あの時。東雲が家に来て、事情を説明した時。もしくは、廃墟のような場所で彰と対峙した時。
 その時の宮山の顔が脳裏に浮かぶ。驚いたような、困惑したような、どこか傷付いているかのような。一つ思い出せばまた次々と浮かぶ。楽しかったことも、そうでないことも、すべて含めて。
 木野宮は頭を左右に振り乱して、それから窓を開けた。夜風がとても気持ちがいい。少しの間風に揺られて、それから木野宮は決心したように窓から体を乗り出した。
 広い屋根を少し伝うと、庭から屋根にかかる梯子がある。屋根の修理をするときにかけたものを、そのまましまい忘れているのだ。木野宮はそれを宮山には黙って、時折夜中にコンビニに行くのに使ったりする。まだ、梯子はかかっていた。慣れた様子でするすると降りる。すぐに庭に着地して、それから木野宮は門を静かに開けた。できるだけ音を立てないように気を配ると、悪いことをしているようで心がむずむずする。
 そして、自分が住む家を見上げた。
 まだいくつか明かりがついている部屋がある。彼らはまだ起きているのだろう。だが静かなところを見ると、誰も木野宮が外に出たことに気付いていない。
 逃げるように夜道を走る。行く当てがあるわけではない。最後には家に帰るつもりだ。だが直観が木野宮を動かしていた。ここで外に出れば、やみくもに走っていれば、それで「出会える」という直観が―――
「……わたしだよ」
 アスファルトに木野宮の影が映る。街灯だけでは少し心もとない暗さだ。怖くないわけじゃない。だけど声は震えなかった。
「わたしだよ!!ここにいるよ!!」
 目いっぱい叫んだ。他になんと言えばいいのかわからなかった。だがそれに応えるように、アスファルトにもう一つの影が映る。
「…………」
「……こんばんは!」
 真っ黒な影。頭のてっぺんからつま先まで、真っ黒な衣装に身を包んだ影そのもの。異様な雰囲気に恐怖がせり上がるが、木野宮はそれをせき止めて拳を握った。
「あなたが彰ちゃんに酷いことしたの?」
「……」
「……わたしのことを狙ってたの?」
 影が木野宮に近付く。だけど木野宮はひるまない。何も考えていないからではない。そこに、明確な決意と意志があるからだ。
「違うよね」
 目が合った。木野宮は絶対に目を逸らさない。影も負けじと、その視線をずっと逸らさない。
「お父さんを、探してるんだよね」
「……わかっていて出てきたのか?」
 掠れた男の声だった。影は呆れたような声を出しながら、木野宮を見降ろしている。
「うん、わかってた」
「なら、どうするつもりだ? この場でお前の父を呼ぶか?」
「ううん、呼ばないよ。呼べないもん」
 男はぼりぼりと乱雑に頭を掻いた。どこか人間らしく見えるが、顔は包帯が巻かれていて表情が読めない。
「ここまですればお前が父親に泣きついて、あの男が出てくると思っていたんだが……」
「しないよ、できないもん」
「攫われるとは思わなかったのか」
「わかんない、でも今会わなきゃって思ったから」
「俺がいるとわかっていたのか?」
「ううん、勘!!」
 陽炎は溜息を吐いた。どうやら呆れているらしい。だが木野宮は変わらぬ声で、変わらぬ態度で、自分よりもはるかに背の高い男を見上げていた。
「わたしじゃダメかな」
 それは優しい声だった。まるで自分の敵に話しかけているとは思えない、少女の素直な声だった。
「わたしが、あなたの勝負を受けるのじゃ、ダメかな」
「本気で言ってるのか?」
「うん、本気だよ。お父さんは何しても出てこないよ、きっと。だからわたしが―――」
 本気で言っているということくらい、目を見ればわかった。彼女の目はかつて対峙したあの男―――木野宮きのりが、陽炎の腕を掴んだ時にそっくりだった。
「わたしが勝負を受ける」
 気迫があるわけではない。何か策があるようにも見えない。だが、苦し紛れに言っているというようにも見えなかった。しばし沈黙が続く。不思議な光景であったが、木野宮はその場から動かない。
「……馬鹿を言うな、俺はあの男でなければダメなんだ」
 陽炎は、震える声でそう言った。憎しみや怒りに近いものが、声を震わせているのだとわかる。しかしそれはどこか喜びも混じったような、あまりにも人間らしく、あまりにも残酷な。
「お前には餌になってもらう、必ずあの男を、俺は―――!」
 男の影が伸びる。何も持っていないその手が、木野宮を連れ去ろうと彼女に向けられる。
 何もされないと思っていたわけではない。誰かが助けに来てくれると確信していたわけではない。だが木野宮は、怖がらなかった。
 陽炎は不気味に思う。年端もいかない少女が、なんの力もない少女が、服を掴まれ今まさに連れ去られるというその瞬間に、それでも怯えずに目を見ていることに。
 ほんの一瞬だ、ほんの一瞬それに戸惑っただけだ。だがその隙に、力が抜けた手から木野宮が消えた。
「……ッ」
「まったく、あんまり冷や冷やさせないでくれ」
 影が増える。だが陽炎は、その影にも見覚えがあった。勿論木野宮も見覚えがある。木野宮は陽炎の手から離され、いつの間にか別の男に肩を支えられていた。
 見上げれば逆光で顔が見えない。だが印象的な髭と、いつも決まった格好をしているからすぐにそれが誰かわかった。
「刑事さん!!!」
「やあ、こんばんは木野宮さん」
「……お前ッ!!お前!!!」
 陽炎が唸る。男―――壱川遵は、木野宮を後ろに下がらせて、彼を睨み付けた。
「若い子に手を出すのはよくないな、いい大人だろ? 俺も、お前も、あの時に比べたら」
 街灯に照らされて、二人の視線がぶつかる。
 静かに、冷たく、だがどこかに怒りを秘めたような声で、壱川は言った。
「嫌になるね、本当に」

 


つづく

 

猫猫事件帖 最終章 そして怪盗はいなくなる 弐


 東雲宵一は冷静だった。焦る必要がないわけではない。生死に関わることはいつまで経っても慣れないだろう。だけど冷静だった。
「んで何だ? 恨みか? 妬みか?」
 言いながらポケットから更に様々なガジェットを取り出す。マウンテンパーカーのポケットにも、ズボンのポケットにも、まだ様々な物が入れられている。いつかこういう日も来ると思っていた。明乃に頼れない、たった一人で戦わないといけない日が。だけどそんな覚悟はとうにできている。もともと、一人でやり切ることのはずだった。
「なんだよ、盛り上がりに欠けんな。ちょっとは発狂したり怒ったりなんなりしろよ、冷めるぜ」
 手に持ったナンデモグルグル君十四号と、追加のメチャマッシロ君を握り締める。目標は殺すことでも逃げることでもない、捕まえることだ。
「……マジでなんか言えよ、気持ち悪ィな」
 先ほど投げた煙幕が徐々に晴れていく。その中心にいる長身の男は、まるで真っ黒な影のように見えた。
 頭のてっぺんからつま先まで、真っ黒に染まり上がった服。顔が見えないように巻かれた包帯。声すら上げない影に不気味さを覚える。だが、彼のことを知っている気がした。なんとなく、どこかで見たことがあるような―――
「お前―――……」
 そうだ、あれはまだ東雲が学生だった頃だ。その男は一時メディアを賑わせており、当時東雲も随分熱心にその情報を追っていた。見たことがあるはずだ。いや、毎日ニュースや新聞をチェックする人間なら、必ず覚えがあるだろう。
 名前は確か、と考えたところで影が動く。手に持ったナイフは東雲を貫こうとしていたが、避けるだけなら容易い。メチャマッシロ君を男に投げつけると同時に白い煙幕が漂う。また煙幕に吞まれた影の居場所は、ゴーグル越しに綺麗に見えていた。あとはこのナンデモグルグル君が当たれば、指先ひとつ動かせないほどにぐるぐる巻きにされるだろう。
 だが、東雲は動けなかった。まさにナンデモグルグル君を投げつけようと腕を振るった瞬間、ピタリとビデオ停止ボタンを押されたかのように静止する。動かそうと思っても、指先ひとつ動かない。
 そこで初めて、焦りが生まれた。なぜ動けないか、冷静に考えようとする。だがその時間を待ってくれるほど、男は優しくない。
「……クッソ、ふざけんな!」
 ゆらりと揺れる影が東雲に一歩ずつ近寄ってくる。無理矢理動こうとすると、体中に耐えられないほどの痛みが走った。その痛みに侵されながらも脳は動く。
 首を動かして顔を上げる。痛みの正体に気付くのは早かった。少し顔の角度を変えれば、宙に光の筋が何本も見える。
 ワイヤーだ。
 理解したが、手を打つ時間がない。脱出の方法を考える、すぐに思いついた、あとは実行するだけだ、なのに男はもう目の前にいる。
 ナイフが振り上げられる。もう逃れられないことを悟るが目を閉じられない。迫りくる刃先が東雲の顔の先までたどり着く。
「オラアアアア!!!」
 心臓が破れるかと思うほどの轟音。同時に破裂するような音。東雲は目を見開いていたから、何が起きたのか一部始終捉えていた。
 死角から唐突に男が現れ、毛の生えていない頭皮がきらりと光り、その男の足が影のど真ん中にぶち込まれた。
「…………」
 おおよそ人間が受けていい音じゃない。東雲はげんなりする。生きていてこうも理不尽に強い人間が周りにいると、何か大事な物を失ってしまいそうだ。
「大丈夫か?」
「おう、ありがとな」
 後ろから現れた青年、深海京佑が東雲の体を支えるようにして立っている。前方にはスキンヘッドの男、浅野大洋が男にもう一発と言わんばかりに拳を握り締めている。
「大丈夫か東雲センパイ!!!」
「だから先輩ってのやめろっつってんだろ!」
「いやーたまたまアイスが食べたくなってよかったぜ!」
「アイツはなんだ、知り合いか?」
「んなワケねーだろ!いきなり襲われたんだよ!!」
「そうか」
 東雲の前に二人が立つ。腕から血を流していることに気がついているのだろう。
「いやーマジでびっくりしたあ、今からアイツぶっ飛ばすんで安心してください!!」
 ムッとして東雲が無理矢理二人の間を通って前に出た。まだやれると言わんばかりにポケットから更に自作のメカを取り出す。
「おい、アンタ怪我してんだろ」
「うるせー、やられっぱなしで帰れるワケねえだろ」
 深海はそれ以上東雲を咎めるようなことは言わずに東雲の隣に立った。浅野も何も言わず、東雲の隣に立つ。
「後悔させてやらねえと気が済まねえ」
「おお、漢気かっけえ!助太刀させてもらいやす!!」
「……放って帰るわけにもいかないしな」
 三人が吹き飛んだ影を見る。どうにも先ほどのキックが効いていないようで、影はゆらりと立ち上がりこちらを見た。
 まるで見定めているような、何かを計算しているような。包帯の隙間から覗く目が不気味にこちらを見つめている。
「……あ、オイ!!」
 そして影はまた波が揺れるように体を動かして、踵を翻す。逃げるのだとわかって東雲は声を上げるが、走りだそうとした瞬間に足が酷く傷んだ。
 深海と浅野が気遣うように東雲を支えるが、その隙に影が消える。まるで夜に溶けるように、走り出したわけでもなく、ゆっくりと消えたのだ。
 痛みを感じるたびに流れる冷や汗が煩わしい。思うように動かない体がもどかしい。だが、東雲はすぐに冷静さを取り戻していた。無理に追う必要はない。奴も、三人相手では分が悪いと踏んでくれたのだろう。
「おい、大丈夫か」
「……平気だ」
「馬鹿言うな、顔色悪いぞ」
 思っていたよりも血が流れていることに気付く。頭がどんどん回らなくなっていくが、気を失うほどではない。東雲は腕をキツく抑えながら、先ほどまで影がいた場所を見つめる。
 彼を知っている。会ったことはないが、何度もテレビの中で見た姿そのままだ。この日本で、怪盗の存在を知らしめた一人。
 あの男の名は―――……

 

 猫猫事件帖 そして怪盗はいなくなる

 


 壱川遵は頭を抱えていた。連日に渡って起こっている通り魔事件を調べるにあたって、資料をまとめている時だった。
 死人こそ出ていないものの、件数が少しずつ増えているだけに警察側も焦っている。発生時刻はバラバラで、一見何の繋がりもないように見えた。
 だが、壱川だけは知っていた。この事件には、警察に届けられていない被害者がいる。
 黒堂彰。怪盗であり、壱川たちを阻もうとする組織の構成員でもある。そんな彼女もまた、通り魔に襲われて入院に至っていることを宮山から連絡を受けたことで知ったのだった。それも、他の人間よりもはるかに重症だ。未だに目は覚めていないらしいし、何かあったとしか思えない。なのに、他は普通の女子高生だったり、商店街の人間だったりするのだからわけがわからない。
 たまたま狙われて、もみ合いになった結果だろうか。だとしてもあの彰が、そんなに簡単に敗れるものか。資料をまとめながら考えている時に、電話の通知が鳴った。
 発信元が東雲宵一であった時点で嫌な予感はしていた。このタイミングなら、聞きたい話より聞きたくない話の方が出てくるだろう。と、勘は告げていたものの、溜息を吐きながら電話に出た。
「はい、もしもし」
「よお、お前に聞きたいことがあんだけど」
 相変わらず、いや、いつもより不機嫌そうな東雲の声が聞こえる。だがいつもより冷静で、いつもより声が落ち着いているような気がした。
「お前、陽炎って知ってるか?」
「現象の話? それとも別の話?」
「知ってんだな?」
 多少苛ついた声だったが、少しいつもの東雲のトーンに戻る。壱川は小さな笑い声を上げるが、目はまったく笑えていない。
「懐かしいね、俺もその人の記事読んでたよ」
 その単語にまつわる情報を脳内でかき集める。それは一時、世間を賑わせていた怪盗の通称だった。
 揺れるように現れ、また揺れるように消える。盗んだ物は数知れず。まるで魔法のようにどんなに大きいものも消え、どんなに困難だと思っていた物も盗む。
 それは壱川がまだ怪盗になりたての頃の話だった。もうずいぶん前の話だ。
「そいつに襲われた」
「……あの人、捕まってなかったっけ」
「ああ、そうだ。俺の記憶でも捕まってる。でも確かにアイツだったんだよ、まあ、熱狂的なファンが真似してるって説もあるけどな」
「君の目から見てどうだったの?」
「消えてたよ」
 彼自身が名乗ったわけではない。しかし現場にいた人間の証言から、彼は陽炎と呼ばれた。だが、世間を騒がせたのもつかの間、彼はある探偵の手によって捕らえられ、今は牢屋の中にいるはずだ。
「目の前から消えた。トリックも何にもわからねえ。そんな芸当できるやつが、日本に二人もいると思うか?」
 壱川は黙る。もし本当だと言うのなら、今すぐに彼が収容されている施設に確認する必要があるだろう。様々なことが頭の中に浮かんでは消える。ノイズのようにそれを繰り返していると、どんどん頭が痛くなっていく。
「……君が襲われたのはどこだ?」
「商店街の近くだよ。あの道真っすぐ行ったらスーパーあるだろ? あの辺だな」
 資料にある地図に、星マークを付ける。それだけでもう頭を抱えるには十分だった。
「俺にわざわざ教えてくれた理由は?」
「どうせ例の通り魔事件調べてんだろ? 関係あるんじゃねえかと思ってな」
「鋭いなあ、もう」
「で? 関係ありそうか? こっちもせっかく情報くれてやったんだ、このまま電話切るなんて真似しねえよな?」
 一枚の紙に目を落とす。町の地図が印刷されたその紙には、壱川がペンで書いた手書きの星マークがいくつもあった。それはすべて、被害者たちが通り魔に遭遇した場所だ。
「……まあ」
 星と星を線で繋ぐ。更に次の星に繋ぐ。それは一本の道のようにも見える。
「お願い聞いてくれるなら教えようかな」
「あ? なんだよ」
 最後に東雲が言った場所へと繋ぐ。やはりそれは道だった。そして東雲が男に遭遇した場所から、更に真っすぐに線を伸ばす。
「今すぐ、明乃ちゃんを連れて木野宮さんのところに行けるか?」
「…………わかった、また後でかける」
 東雲がすぐさまに電話を切る。あらかたの事情を汲んでくれたのだろう。耳からスマートフォンを剥がして、電源切ってからまた視線を落とした。
 東雲がいた場所。そこから真っすぐ線を引いた先。 
 そこは記憶が正しければ、木野宮きのみが住まう家だった。


 * * *


「陽炎? 何その中二病みたいな名前」
「メディアが勝手に付けただけだよ。陽炎みたいに揺れて、目の前で物が消えたとかなんとか」
 コーヒーを飲みながら、壱川は冷静に言った。できるだけ平静を保っているつもりだが、どうにも脳内は雑音だらけで落ち着かない。
 水守綾はふうん、と興味なさげに頬杖をついて壱川を見ている。壱川が深刻な顔をしていることに気づいているのだろう。
「なんか言われてみれば、そういうニュースばっかりの時あったわね」
「結構騒がれてたからな。なかなか有名な人だよ、俺たちの中では特に」
「……それってさあ」
 タルトにフォークを入れる。水守は少し言葉に迷って、しかし口を開いた。
「例の、関係ないのかな。怪盗団だっけ」
「さあ、わからない。だけどその線は薄いだろうな。彼が本当に犯人なら、どちらかと言えば狙われる立場だろ」
 なんせ既に何人もの負傷者が出ている。彼が解答なら、常盤社はその行いを許さないだろう。仲間である黒堂彰まで手にかけられているのだから。
「とりあえず、木野宮さんの家には明乃ちゃんと東雲君に向かってもらってるから。君も何かあるかもしれないから気をつけてくれ」
「ん-、わかった……一個聞いてもいい?」
「ん?」
「隠し事してない?」
 水守と視線がぶつかる。そこでようやく壱川が、自分が無意識に彼女から目を背けていたことに気付いた。
 彼女は責めるような態度も、怒るような態度もとっていなかった。ここで何もないと言えば、嘘だとわかっていても彼女は追及しないだろう。それがわかっていたからこそ、壱川は少し考えてから口を開いた。その間、水守はずっとそれを待っていた。
「……陽炎を捕まえたのは木野宮さんだ。お父さんの方だね」
「ん? じゃあ腹いせかなんかで娘の方狙ってるってこと?」
「あるいは誘き寄せたいのかもな。今木野宮さんがどこにいるかは知らないが、引退して久しいし、ちょっとやそっとじゃもう表に出てこないだろうから」
「ふーん」
 水守の返事は案外適当だった。水守は、木野宮きのりと壱川の関係を大まかに把握している。彼と壱川が組んでおり、怪盗を捕まえるために怪盗として壱川がそこにいたことを。
「それだけ?」
 また、しばしの無言。優しく尋問されているような気持ちになって、壱川は思わず目を逸らした。教えたくないというわけじゃない。ただ、あまり口に出したくないだけだ。
「あのさ」
「うん?」
 彼女は紅茶を飲んで、視線はずっと壱川の方を見ている。彼女が何を知りたいのか、何を伝えなければいけないのか、頭の中で必死に精査するのにいい言葉が出てこない。
「話したくなかったら、話さなくていいのよ、別に。無理矢理聞き出したいわけじゃないから」
「……ありがとう、いや、話したくないとかじゃないんだ……ただ」
 それは、自責の念なども含まれていただろう。だが、それ以上に羞恥もあった。何故ならこれは、壱川遵という男がまだ学生の頃の話であり、まだ怪盗らしい格好をして、ちゃんと怪盗らしいことをしていた水守の知らない自分だから。
 彼女のことだ、もし当時に戻る術があったとして、自分がそんな服を着ているところを見たらきっと笑うんだろう。そんな予感がしていたからこそ、壱川は詳しく過去を話したいとあまり思わなかった。
 彼女に対してなら、口に出してもきっと大丈夫なのだろう。あの時何があって、何を思って、何をしていたのか。わかっていても、少し照れくさくて言葉に詰まる。
「……いや、ただその時、俺もその場にいたんだよ。なんならそれが、木野宮さんとの付き合いの始まりだったし」
「へえ、じゃあ随分古い仲なのね」
「今となってはそうなるな」
 壱川は思い出す。自分がまだ若かったころのことを。大学によく出入りしていた木野宮きのりと仲良くなるまで時間はかからなかった。ミステリー小説の話、世間を騒がせている怪盗の話。壱川もまた、夢追い人のようなものであった。つまらない毎日の中で怪盗の話題は刺激的だったし、すでに模倣犯も多くいた。壱川が怪盗になったのはほんの出来心のようなものだ。自分もそこに行けば、面白いことを見つけられるのではないかと期待していた。
 案の定それは面白かった。日々何をするか、どうやって盗むか、様々なことを考えた。自然とハマっていくうちに、壱川は更に面白いことを求めるようになった。
「その時、陽炎なんて呼ばれてる怪盗がいたんだ、そりゃ挑みたくもなる。俺も若かったからなあ」
「ふーん、なんか意外ね」
「そうかな。俺、案外負けず嫌いだよ」
 そうして考えたのが陽炎の予告状に合わせて、自分も現場に行くことだった。彼よりも先に狙っている品を盗みたかった。確か、絵画か何かだったと思う。彼は新聞を見ていち早く準備し、陽炎が現れるであろうその場所を訪れた。
 そこで木野宮きのりと出会った。大学で顔を合わせていたからお互いすぐにわかった。木野宮きのりもまた、新聞を見て陽炎を捕まえるべくそこにいた。どうやら警察に少しのコネクションがあったらしい。
 彼は見事に陽炎を捕まえた。問題はその後だ。バレたことをどう口止めしようかと考えていたら、木野宮きのりの方から、壱川に打診があったのだ。
 怪盗を捕まえる手助けをしてほしい。
 シンプルな申し入れだったが、最初は意味がわからなかった。話を聞けば、もう体力がないから代わりに怪盗を追い詰めたり、捕まえたり、怪盗の視点でのアドバイスが欲しいという話だった。壱川は面白い、と思った。探偵と組んで、怪盗を捕まえる。まるでダークヒーローのようだとすら思っていたかもしれない。
「まあ、あとは知ってる通りなんだけど」
「…………」
 瞬く間に木野宮きのりは有名になった。それは二人の予想を大きく超えて、連日新聞の見出しに載ったり、果てはテレビ出演にまで至った。勿論壱川の存在は伏せられているから彼は自室でそれを見て、誇らしい気持ちにさえなっていた。毎日楽しかったと思う。新たな予告状が出回るたびに、胸が躍った。今度は何をしようかと夢中で考えていた。
 木野宮きのりの願いは一つだ。彼の娘に、夢を与えること。幼いころから探偵になりたいと父親の背中を見てきた彼女に、少しでも夢を与えてやること。きっと娘も誇らしいだろうと思っていた。あの日までは。
「世間はどんどん賑わっていったよ。怪盗VS探偵なんてことに。いつのまにかその対立を望む人間も多くなった。行き過ぎたんだね、俺たちは」
 世間の声が大きくなる。次第にそれは過激になっていく。肌で感じるようになったものの、体感していたわけじゃない。日々、討論のようなものが行われ、人々は夢中になってそれを追いかけ続けた。
 それが、よくない結果を生んでしまった。
 今も思い出すと手が震える。目の前で殺されそうになっていた人間がいたことに。あの時もしも壱川が助けなければ、あの場にあったのは血の海と一人の少年の死体だけだ。想像するだけで恐ろしかった。そこまで過激な人間を作り出したのが、木野宮きのりと自分であることが。
 だから、なんとかしようと思った。せめて自分の手でできることはしようと。怪盗を必要以上に裁こうとする人間も、それに食らいつこうとする怪盗も、どちらも血を流し死ぬまでのことをしているだろうか。壱川はそうは思えない。彼らはただ世間の熱に押し当てられただけの被害者だと考えた。
 それが、刑事の道を歩もうと思ったきっかけだ。自分が怪盗を捕まえる側になること。できるだけ誰も血を流さずにいられるように努めること。それが、自分にできる精一杯の償いだと。
「……なんか」
 水守は頬杖をついて壱川を上から下まで見定めるような視線を送る。よくわからずに首を傾げると、水守は少しだけ笑った。
「アンタが怪盗やってたのって想像つかないわ、ほんと。東雲宵一みたいな服着てたんでしょ?」
「んん……」
 恥ずかしさにせき込む。今更隠しても仕方がないだろう。なんせ東雲に衣装のおさがりをあげて、水守はそれを見ているのだ。
「まあ、そうだね。ああいう服も着てたし……色々作ったりしてたよ、当時はね、当時は」
「ふーん、それって楽しいの?」
「そりゃあ、楽しいよ。自分が考えたことに大多数の人間が翻弄されて、全員が俺を見てる。なのに俺のことは捕まえられないんだ、おかしいだろ」
 あんなに堂々と目の前に出るのに、と。壱川は屈託なく笑った。
「アンタ怪盗が好きなのね」
「……え?」
「え? って何よ、そうでしょ? 今だって怪盗を守りたくてやってんでしょ? 十分好きじゃない」
「そうなのかな、いやまあ、そうか」
「やめてよかったの?」
「…………」
 予想外の質問だった。面食らって言葉を失う壱川を見て、水守は考える。
 東雲宵一を見ていれば、好きでやっているということがわかる。正直水守に気持ちはわからない。だが、毎日が退屈で刺激が欲しいと思うことは勿論ある。きっと彼らはその中で、刺激を得ることを選択した人間なのだ。
 目の前の男の選択を笑うことはしなかった。馬鹿だと思っても口にはしなかった。だが、彼は複雑な立場である今、いったい何を望んでいるのだろうといつも思う。
「アンタがやりたかったのは怪盗じゃないの?」
「まあ、そうだけど……」
「でも今刑事じゃない。裏で怪盗やってますってわけでもないんでしょ?」
「はは、まあ仕事も忙しいしなあ。それに……」
 思い出してしまう。銃口に囲まれた少年。あふれ出る血。憑りつかれたかのように激昂する老人。あの場にあるすべてが異様だった。少なくともあれは、壱川が望んだ未来ではない。
 衣装を貸してくれ、と東雲に言われた時は驚いた。あの服を捨てずにおいていたのは確かに未練だ。あの時、一番楽しかった思い出を捨てきれずにいる。だがその結果生まれてしまったものを思うと、袖を通す気にもならない。
 自分がこの服を着たから生まれたことだ。それなのになぜ、今もまだあの姿を追うことができるだろう。
「やったらいいのに、したいなら」
 それはシンプルな言葉だった。刑事として存在しているものの、壱川はまだ怪盗のつもりだった。そこにしがみついている自分がいることにも気付いている。だけど彼を怪盗たらしめるものは今何も存在していないということもわかっていた。
 だから水守の言いたいことはわかる。どっちつかずな自分が、今だ怪盗であることを名乗れるわけがないのに執着していることが不思議なのだろう。立場としては完全に怪盗ではなくなったはずだ。もうここ何年も、それを追う側としてここに立っている。なのに、自分を怪盗であると思いたいこの欲求はなんなのか。
「……そうだね、俺はまたあの日に帰りたいのかもな」
 ただ、楽しいだけだった頃に。何も考えず、夢中になれたものに。大人になった今も縋っている。ただ、それだけの話。
「でも今にも満足してるよ。同僚もいい奴ばっかりだし、綾ちゃんといると暇しないし」
「……そう」
 水守はそれ以上何も言わなかった。
 何も言うべきではないと思ったのだ。見透かすように壱川が自分を納得させるための言葉を吐いていると気付いていた。だけどそれが彼にとって必要なことなら言うべきではないと思った。
 勿論、相棒が怪盗なんてごめんだ。これ以上リスクを背負いたくないとは思う。それでも水守は―――……
「じゃあ、別にいいけど」
 彼が背負っているものが、少しでも減る日が来るのだろうかと頭の片隅で考えた。
 きっと今も内側で渦巻いているであろう様々な感情を思う。いつか目の前の男は、そのすべてに押し潰されるのではないかと。
 そんなことを考えながら、解決策の一つも思いつかないことを誤魔化すかのようにまた紅茶に口をつけた。

 

 

猫猫事件帖 最終章(嘘) そして怪盗はいなくなる 壱

 

 女の声がする。耳の中にそのまま入っていって、脳を溶かすような声だ。
 その声の中には喜びも、怒りも、悲しみも何もない。ただひたすらに自分の脳を揺さぶるために発せられた声だ。
 なのに、何を問われたのかわからない。直前に一体何を聞かれてこんなに動揺しているのか、皆目見当もつかない。
 だがそこは見覚えのある場所だった。亀裂の入った床、妙に暗い照明、目の前に立つ少女と煌びやかなドレスをまとった女性。
「それは」
 壱川遵は口を開いた。妙に唇が渇いている。何を問われたかわからないのに動悸がする。そしてそれに、自分は何か答えようとしている。
 一体何を?
 いや、知っている。自分はこの状況を、この記憶を、何を問われ、何を責められているのかを。
「それは…………」
 そして、この続きも知っている。目の前に立つセーラー服の少女はまるで感情のない笑みを浮かべてこちらを見ている。ああ、そうだこの続きを知っている。どうか違う結末であってくれと願っても、この先に起きることは壱川自身が過去体験したことだ。
「お父さんが嘘吐きだから」
 凛とした声だった。確信を持ったその声は、何の疑いも悲しみも持っていない。壱川はゆっくりと振り返る。
 探偵帽を被った少女が、そこに立っていた。その瞳は真っすぐにセーラー服の少女、黒堂彰を見据えている。彼女は知っているのだ。父親が何をしていたのか。彼女は知っていたのだ。壱川が何を隠していたのか。
 最初からそこに、なんの意味もなかった。膝から崩れ落ちそうになる。口から言い訳がこぼれ出そうになる。だが、どれも叶わない。何を言おうと、何をしようと、事実は変わらない。きっと彼女は何も信じないだろう。
「違うんだ」
 声が震えていた。今更少女に何を訴えようというのか。自分でもわからないが、口が勝手にそう言っていた。
「違う……」
 木野宮の視線が、壱川を貫く。決して言い訳がしたいわけじゃない。伝えたいことはそんなことではないはずだ。なのにどうして言葉が出ない。
「……!………!!」
 壱川は何かを叫んだ。だが声が出ない。確かに何度も叫んでいるのに声が出ない。夢なら醒めてくれと何度も願った。だってこんなのあんまりだ。こんなのは、こんな風に彼女が―――


「ちょっと」
「…………ん?」
 目を開けると、見知った女性の顔がすぐそこにあった。どうやら夢を見ていたらしいと気付くまでに時間はかからなかったが、起き上がるのには時間を要した。
 ゆっくりと体を起こすと、多量の冷や汗をかいていることに気付く。汗に濡れてへばりついた白いシャツと、前髪が気持ち悪い。
「大丈夫? アンタ、うなされてたけど」
「……悪い夢を見てた」
「でしょうね」
「ていうか今何時……」
「まだ朝の5時よ」
「はは、早起きだな、綾ちゃん」
 言われた水守綾は腕を組んで、相変わらずのしかめっ面で壱川を見下ろしていた。
 ああ、だんだん思い出してきた。昨日は浅野や深海と共に外食をして、それから結構な酒を飲んで全員が壱川の家に転がり込んできたのだ。 
 最初は変わらない顔色をしていた壱川も、体の疲れには逆らえず眠ってしまったらしい。なんせ昨日は、なかなかの距離を走り続けた。
「先に帰ろうと思って。……あの二人置いて帰っていい?」
「ん? ああ……」
 水守の先には、床に丸まって寝ている深海と、盛大ないびきをかきながら大の字になっている浅野がいる。どうやらあの二人も眠ってしまったらしい。
「じゃ、アタシ先に帰るから」
「……あー、待って、車で送る」
「はあ? そんな顔面真っ青な人間に送られても迷惑なんですけど」
「大丈夫だって、ほんと。昨日はちょっと疲れてて……」
 水守が苦い顔をした。どうやら自分のせいだという自覚があるらしい。
「いや、いい!歩いて帰れる!」
「まあまあ、待ってよ。そんな急がなくてもいいでしょ、仕事が忙しいわけでもあるまいし」
「悪かったわね仕事が忙しくなくて」
「嫌味のつもりじゃないんだけどな」
 重い体を動かして、煙草に火を点ける。ようやく冷や汗も止まり、視界もクリアになってきた。少しずつ頭が回り始める。そうして自分がなんの夢を見ていたのか鮮明に思い出しながら、小さく煙を吐いた。
「ちょっとだけ待っててくれない?」
「なんでよ、車はいいって……」
「シャワー浴びるからさ、その後朝ごはんでも食べに行こうよ」
 あの二人は置いといて、と付け加えて笑いながら、冷え切った心がなかなか元に戻らない。
 まだあの日の夢を見るのだ。それは、とある人生の転機である美しい日であったり―――知りたくなかったことを押し付けられるような、言い訳すらできない罪悪感に押し潰される日だったり。

 

 

 

 猫猫事件帖 最終章 そして怪盗はいなくなる

 

 


「ただいまーー!!」
 毎日、ほとんど同じ時間だ。夕方頃になると、決まってこの声が聞こえてくる。
 そしてその日に何が起きても起きなくても、木野宮きのみは必ずこんな楽しそうな声でそれを言うのだ。宮山紅葉は少し不思議に思う。どうやって生きたら、こんなにも毎日楽しそうでいられるのかと聞いてみたくなる。だが、実際に聞いたことはない。なぜなら聞いたところで彼女は何一つまともなことを答えないだろうから。
「おかえり、きのちゃん」
「お手紙きてたよ、お手紙!!」
「手紙?」
 本から目線を木野宮に向けると、確かにその手には封筒が握られていた。白い封筒に、金色の枠がついている。宛先や送り主が書いていない時点で宮山は嫌な予感がしていたが、しかし木野宮は何一つ気にせずにその封を破った。
「ちょ、ちょっと待ってセンセ」
「ん-!?」
「俺が開ける、俺が開けるから貸して」
 中身まで破りそうな勢いで手に力を込める木野宮から、なんとか手紙を奪取する。手に持ってわかるが、どうやら中には紙きれ一枚くらいしか入っていないらしい。
 宮山は何度かこういう封筒を開けた覚えがあるが、そのどれもがあまりよくない内容であった。例えば怪盗からの予告状であったり、あとは怪盗からの予告状であったり。
「はやく!はやく開けて!!」
「まあ待ちなさい。こういうのはなんていうか……いや、まあ慣れてきちゃったんだけどさ」
 でもやっぱり、心の準備はいるもんだ。
 宮山はゆっくり息を吸い込んで、よしと意気込んで封筒から一枚の紙きれを取り出した。二つ折りにされた白い紙きれを開くと、真ん中に綺麗な文字が綴られている。
 それは予告状ともとれたが、いや、そうではないのだろうとなんとなくわかった。
「旅行券!? 旅行券だった!?」
「いや……」
 何故ならそこに綴られていた住所が、病院だったからだ。あからさまに怪しいものの、件の怪盗たちが病院なんかに自分たちを呼び寄せるだろうか。
 もしかしたら依頼か、それとも公にできない話がしたいのか。宮山は考えるが、送り主の情報なんてこの綺麗な文字ひとつくらいだ。考えたところで答えは出なかった。
「これどこ? 病院?」
「みたいだね。……うーん」
「行ってみようよ!!どうせ今日も暇でしょ!?」
「失礼だな。いや、暇なんだけどさ……こういうのは一回壱川さんとか、水守さんに言ってからの方が……」
「いーから行こうよ!!事件のかおりがするんだよお!!」
「こら、駄々こねない」
 えーんえーんと床に這いずり回りながら木野宮が大声で訴える。次第に面倒になってきて、宮山は溜息を吐いた。
「見に行くだけね」
「やったーーー!!!」
「なんかあったらすぐ帰るからね?」
「おやつは何百円までですか!?」
「何百円でもダメです」
「そんなあああ……」
 まあ、実際行ってみるしかないだろう。ご丁寧に病室まで書いてあるが、ここに誰がいるかなんて受付に聞こうものなら怪しまれて警察でも呼ばれかねない。
 宮山は重たい腰を上げて、病院へ向かうことにした。せめて危険のないことであってくれと、頭の片隅で願いながら。

 

 * * *

 

 平日だというのに、病院は随分混んでいた。とりあえず書かれてある病室を探しに行くが、どこも老人ばかりだ。
 こうなってくると、お金持ちの老人が暇つぶしに試練を与える……なんて言い出してもおかしくはない気もしてきた。いや、全然ありえるな。なんならそれよりもっとすごいことに巻き込まれたこともあったし。
 宮山はそう思いながら、走ろうとする木野宮の首根っこを掴んで制止する。ここまで病院にいない方がいい人間もそういない。
「宝さがしかな!?」
「なくはなさそうだなあ……」
「そこに行ったらさ!次の場所が書いてあってさ!? それで最後にはトクガワのマイゾーヒンが……!!」
「それ、昨日テレビでやってたやつでしょ。大きい声出さないの」
 まあ、実際ありえそうな話ではある。それこそ知り合いの怪盗がやりそうな気もするし、金持ちの酔狂かもしれない。そんなことすら「あり得る」と思ってしまうようにいつからなったんだろうか。不思議に思いながら、宮山は病室の横にあるプレートの数字をひとつひとつ確認していった。
「お、ここだ」
「おおお……この中にマイゾーヒンの手掛かりがまた一つ……!」
「まあ、ほんとにそうだったらいいよなあ」
 なんて呟きながら扉に手をかける。そこまで大きい部屋でもなさそうだが、個室だろうか。これはいよいよお金持ちの老人説も出てきた。
「たのもーーー!!!」
「あ、こら!」
 宮山が扉を引き切るより先に、木野宮が勢いよく扉を開ける。再三ここに来る前に大声を出さないようにと注意していたはずなのだが。
 溜息を吐きたかった。だがいつの間にか引っ込んでいた。大きな声で、いつも通りの笑顔で、つい先ほどまで目の前にいた木野宮が制止している。
「木野宮……?」
 彼女は、部屋の中を見つめていた。いや、部屋の中にあるベッドを見ていた。そこにいる人物が誰なのか、宮山も覗けばすぐにわかる。
 そして木野宮が、彼女らしからぬ顔で固まっていることの理由も。
「……彰ちゃん?」
 黒堂彰。緑がかった綺麗な黒髪に、端正な顔立ち。見間違えるわけもない。彼女こそが木野宮を狙った張本人であり、宮山たちを始末しようとしたメンバーの一人だ。
 そして、木野宮曰く友達でもあった。
「……何かのドッキリか?」
 一番最初に疑ったのはそれだった。近寄った瞬間に彼女が飛び起きるだとか、警報が鳴るだとか。実はすべて演技なのではないかと疑って部屋の中を確認する。
 少なくともそれができてしまう少女だ。悪戯な笑みを浮かべて、残念でしたなんて言う顔がすぐに思い浮かぶ。だが、表情を失くした木野宮が駆け寄っても、何度名前を呼んでも、その白い手を握っても―――……彼女が反応することはなかった。
「彰ちゃん? わたしだよお、きのみだよ……」
「…………」
 唖然とするしかない。彼女は頭に包帯を巻いていた。いや、なんなら体の何か所かに巻かれている。何かに巻き込まれたか、いや、今考えるべきはそこではない。
 一体誰が彼女がこうなったことを自分たちに知らせたのか。
 少なくとも、宮山の頭に浮かぶ人物は一人しかいない。これを知りえて、なおかつ宮山達に知らせることができる人物。更に宛名を書けないとなると、それは―――
「お久しぶりですね」
 静かな声。怒りも、悲しみも、喜びも何もない。だが、なぜか優しい声だった。少なくとも聞いたことのある声だが、宮山の印象とは全く違う。 
「ああ、落ち着いてください。敵意があって呼び出したわけではありませんから」
 振り返ると、予想していた通りの男―――常盤社がそこに立っていた。彼はゆっくりと扉を閉めて、こちらを見る。
 息を吞むが、不思議と緊張はしない。それは常盤が燕尾服ではなく、チェスターコートを着ていて長い髪をまとめていたからかもしれない。想像にない眼鏡をかけていたからかもしれないし、手に花束を持っていたからかもしれない。だが、まるで彼の雰囲気にのまれてしまったかのように警戒心が湧かない。やはりこの男異常だ。気付いて宮山は冷や汗を流した。
「先日、何者かの襲撃を受けたようでして。勿論私じゃありませんよ」
「……なんで俺たちをここに呼んだ?」
「それは勿論」
 常盤が、ベッドの横にある花瓶に花を挿す。まるで慈しむかのように、悲しんでいるかのように。
「友達に、会いに来てほしいと思っているのではないかと思いまして」
「彼女が、か?」
「他に誰がいるんです、おかしい人だ」
 常盤は微笑んだ。相変わらず、意図の読めない笑顔だった。本当に笑っているのかどうかもわからない。まるで笑っていると認識させられているような感覚。
「犯人の目星くらいはついているんです。でも確証もないし、理由もわからない」
「それを俺たちに伝える理由は?」
「ただの世間話ですよ。そうなんでもかんでも疑われては会話にもならない」
「疑わなくていい間柄ならよかったんだけど」
 彼が、彰を一瞥する。そこにどんな感情があったのかわからない。やはり仲間である以上、思うところがあるのだろうか。
「せいぜいお気を付けを。最近この辺りで通り魔事件もありましたしね」
「あ!!ミユちゃんが言ってたやつだ!!」
「ミユちゃん?」
「うん!学校の友達!この前帰りに襲われかけたんだって、でもたまたま警察の人が通りかかったから大丈夫だったって!」
「そうですか、それはよかった」
 宮山は、部屋から立ち去ろうとする常盤を目を細めて見た。どうやらこのまますんなり帰ってくれるらしい。
「世の中物騒ですからね。何もないことを祈りますよ」
「どの口が……」
「あ!!ねえ!またお見舞い来てもいい!?」
「どうぞ。きっと彼女も喜びます」
 言い残して、常盤はドアの向こうへ消えていった。まるで何事もなかったかのように病室に静寂が戻る。
 彰はやはり動かなかった。深い眠りについているように、小さく呼吸をしていることしか確認できない。木野宮がそっと彰の手を握る。彼女は心底心配しているようだった。
「大丈夫かなあ」
「大丈夫さ、その子がすごいのはきのちゃんが一番知ってるだろ?」
「うん……」
 嫌な予感だけがする。だけどそれが一体なんなのか、宮山にはわからない。
「彰ちゃん、今度また来るね、お菓子持ってくるね!それで一緒に、隠れて食べようね……」
 ただ、木野宮が彼女に語り掛けているのを聞いているしかなかった。宮山は彼女のことも、常盤社という存在のことも、まだほんの端っこしか知らないのだから。


 * * *


「ったくよお、大丈夫だって言ってんだろお? なんだよ馬鹿にすんなガキじゃねーんだから!買ったよ!!だーかーらー牛乳とサラダ油だろ!? 買ったって!!あ? ゴマァ? 知らねえよそんなん言ってたか? 明日でいいだろ別に、なくても死なねーし」
 東雲宵一は怒り半分に声を荒げながら、スマートフォンの向こう側にいる人物に話しかけていた。手にはエコバッグを携えて、一人夜道を歩いている。
 ちょっとコンビニに行くだけのつもりだったのだ。それを同居人である明乃が、あれもこれもと追加のお使いを頼むものだから、結局スーパーまで歩く羽目になった。
「もういいだろ、切るぞ。オイだからガキじゃねえんだから大丈夫っつってんだろ!!また後でな!!」
 通話相手がまだ何か言おうとしているのを聞いて、乱暴にスマホの電源を切る。東雲ももう成人している男なのだが、いつまで経っても子供のような心配ぶりを見せる明乃には困ったものだった。
 きっと明乃からすれば、東雲はか弱い生き物なのだろう。いや、明乃から見れば大半の人間がそうなのだ。だから過剰に心配してくるが、そんなものが必要なわけもない。
「ったく、馬鹿にしやがって……」
 文句を垂れながら立ち止まる。今ならまだ、踵を翻してスーパーに向かっても問題ない距離だ。だがこれ以上歩けば、きっとそのまま帰宅することになるだろう。
「……ゴマは美味いしな」
 独り言のように呟いて、結局東雲は進行方向を変えた。今行って明日に明乃が買い物に出なくてもいいというのなら、これくらいはいいだろう。
 体を反転させて一歩踏み出す。が、東雲はそれ以上進まなかった。後ろから嫌な視線を感じる。それはどちらかというと勘のようなものだ。こういう直観はよく当たるから大事にしろとおばあちゃんも言っていた。
「今度はなんだよ」
 あまりにも冷静だった。実際に死を身近に感じてから、こういったことに心が揺さぶられることが減ったと思う。
 それは自分の経験でもあり、成長でもあり、もしくは慢心かもしれないが―――
 東雲はいとも簡単に、背面から飛び出てきたナイフを避けた。と同時に首からぶら下げていたゴーグルを目に装着する。
「俺が一人の時を狙うなんて随分用意周到だな?」
 言いながら東雲はポケットからいくつものボールを取り出した。メチャマッシロ君5~10号だ。
「そういう危ないモンは反則だろうがよ!!」
 手に取ったメチャマッシロ君をすべて地面に叩きつける。同時に白い煙幕がそこら一面に広がった。だが東雲はゴーグルのおかげで視界を奪われずに済んでいる。さあ、自分を襲撃した奴の顔を見てやろうと覗き込む、が。
「あ?」
 影はほんの少しも怯みもせずに、東雲にまたナイフを振るった。見えた瞬間に体を逸らすが、激しい運動に片足がついてこない。なんとか直撃は避けたものの、東雲は確かに自分の腕から痛みと熱を感じ取っていた。
「……なんだァお前」
 血が滴る。大した傷ではない。そして恐怖もなかった。いや、ないわけではないのだが、やはり怒りの方が勝っている。
 こんなもの、銃に囲まれるのに比べればピンチでもなんでもない。
 だから東雲は冷静だった。いや、今にも頭が沸騰しそうなほどの怒りには襲われているのだが。
「何がしたいか知らねーが、後悔すんなよ」
 ゆらりと影が揺れる。長身の男が煙幕の中から姿を現した。東雲は目を細める。何の目的があってだとか、いったい誰だとか、そんなことは後でいい。
「やられたことは百倍にして返さねーと気が済まねえんだよ俺は!!」
 大きく吠えて、東雲もまたゆっくりと立ち上がった。
 影はまた、沈黙を貫いて東雲を見据えている。

 

 

 

つづく